夕方の保健室には、だれもいなかった。
元気たちは「さすがにこの空気は無理」と言って、次々に退散していったのだ。
蒼馬は未だ保健室のベッドに座っていたが、いつの間にかとなりに椅子を引き寄せた由貴が、あごの下に手を置き、にっこり笑っていた。
「……なんでずっといるんだ?」
「だって、まだ不安ですもん。先輩がまた倒れちゃうかもしれないし……誰かに奪われるかもしれないし」
「前者はともかく、後者はどういう心配だよ……」
「ふふっ、先輩は気づいてないかもしれませんけど、最近ずっと“モテ期”入ってますよ?」
「断じて入ってない」
「嘘です。私は全部、見てましたから」
由貴の声色が一段階低くなる。その目が、少しだけ細められた。
「香さんに“お弁当の件”で詰め寄られてたのも……絃葉先輩が“特別な本”を貸してたのも……香澄会長と、放課後に教室でふたりきりだったのも……」
「ちょ、お前、俺のストーカーか!?」
「ストーカーって言い方、傷つきますよぉ。私はただの“未来の恋人”です♡」
「もっと怖いよそれ!!」
だが、笑いながらも――蒼馬はふと、違和感を覚えていた。
「……なあ、もしかしてだけどさ。由貴って、どこかで……」
「気づいてくれました?」
彼女はスッと立ち上がり、ベッドの足元の引き出しから一枚の写真を取り出した。
そこには、小学校の頃の蒼馬と、隣でうつむいている一人の少女。
「ほら、やっぱり……お前……」
「“川原ゆき”です。旧姓だけど、覚えててくれて嬉しいな」
小学校時代、蒼馬が唯一「面倒を見ていた」クラスメイト。
転校してしまい、それきりになっていた――と思っていた少女。
「蒼馬先輩が、優しかったから。私、勉強もできなくて、運動もダメで、いつも怒られてばかりで。でも、あなたは私に“できるまで付き合う”って言ってくれた」
「……あの時のお前が、こんな危険物に進化するとは思わなかった……」
「成長ですよ。愛のための、努力の結果です♡」
「努力の方向、明らかに間違ってるぞ!」
由貴は笑ったまま、ベッドの柵に手を置いた。
「でもね……私、今でもあの頃のこと、ずっと思い出してる。先輩が、私に“できるまで一緒にいよう”って言ってくれたこと。……あれって、プロポーズですよね?」
「解釈が重いわ!」
「でも、嘘じゃないです。私、あの言葉を“未来の約束”だって思って生きてきたから」
ふざけた口調のまま、でもその目だけは本気だった。
「先輩が誰かを選んでも、私は止めません。でも、もし選ばれたら……その人が“二度と誰も選べないように”は、しておきますね?」
「ちょっと何言ってんのか分かんないけど!? 分かるようになったら恐いから黙ってて!!」
その時、保健室のドアが勢いよく開いた。
「おーい、蒼馬、もう起きて――」
「凛、帰れ! ここ、立ち入り禁止!」
「な、なんで!? 俺、ただのお知らせ配りに来ただけなんだけど!」
「先輩の邪魔しないでください〜。これから“後輩の口移しミルクタイム”なんですぅ♡」
「ヒィィィィィ!?」
ドアが爆速で閉まる音がした。
蒼馬は、ため息をつくどころか、もはや天井を見上げて無の境地へ突入していた。
(本当に、普通の高校生活が……したい……)
つづく(End 第4章完)