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第102話 彼女の旋律

 ヴァイオリンの音色が小さな部屋に響き渡っている。

 流れるように、謳うように、あるいはすすり泣くように、美しい旋律が静かな空気に融けていく。

 部屋には魔術の結界が張られ、音が外に漏れないようになっている。彼女はいつもこうして、こっそり練習をしていたらしい。

 当初こそバニーガール姿の希美がヴァイオリンを奏でることを面白がっていた朋子だが、演奏が始まるとそんな邪心はキレイさっぱり消え失せてしまった。

 しなやかで繊細な指先が生み出す旋律に聴き入りながら、朋子は言葉にできない感傷に浸る。いったいどんな言葉で、この音色を表現すべきか。ただただ美しいとしか表現できない自分のボキャブラリーの貧弱さがもどかしい。

 瞼を閉じて聴きいれば、自然と意識がどこか遠い場所へと誘われる。

 浮かび上がってくるのは、光に溢れたやさしい季節だ。

 二度とは戻らないが、確かにそこにいたと感じる懐かしい場所。安らぎと愛しさに溢れ、失うものなど何もないと信じていたのに、今はもう決して手が届かない、遠いどこか。

 郷愁と哀惜が混じり合い、心を際限なく震わせていく。

 これはきっと、この音色を奏でる希美の心象風景だ。

 いつしか涙が頬を伝っていたが、泣いているのは自分ではない。本当に泣いているのは音を奏でている希美なのだ。

 瞼を開いて静かに見つめれば、淋しげな横顔が目に映る。


(この娘は、何を失くしてきたんだろう……)


 演奏をはじめる前に彼女が口にした言葉を思い返す。


「実を言うと、ほとんど独学なんです。子供の頃にお母さんに習ったきりで」


 彼女がそれを口にした時、朋子はすぐに気づいた。

 希美が公にしている経歴によれば、彼女が母親から何かを習う機会はなく、それどころか顔も覚えていないはずだ。

 あえて何も訊かなかったのは、そこで追求すると演奏してもらえなくなると思ったからだが、それで正解だった。

 無理に訊き出そうとしてはいけない。希美を繋ぎ止めておきたいのであれば、本当に彼女を大切に思うなら、強引なやり方ではダメだ。彼女の方から心を開いてくれるような、そんな自分になるべきなのだ。


(わたしは、この娘を本当の意味で救いたい)


 美しいメロディーに誘い出されるかのように、そんな気持ちが浮かんでくるが、どうすればそれができるのか、今はその取っ掛かりも見えない。時間は有限で、先に卒業してしまうのは朋子の方だ。

 一度でも見失えば、おそらくこの娘の姿は二度と見つけられないだろう。

 それでもやるしかない。この出会いを束の間の思い出にしないために。

 細い肩にヴァイオリンを載せて、淑やかに弓を引く美しい少女の姿を見つめながら、朋子は心密かに決意した。

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