引っ越した矢先、俺の家に突然現れたご近所さんではないその人は、キョトンとした顔で突っ立って俺の顔をじろじろと眺める。
まるで珍獣を見るかのようだ。
俺からすればあなたの方が不審者ですよ。そう言いたいが、何者かもわからないのに下手なことは言えない。
「あの、それであなたはなんで僕の家にいるんですか」
スーツの女は眉をひそめて、初めてちゃんと声を発する。
「ここは私の家だからです。それよりあなたこそ、なんで私が視えるんですか」
「えっ」
みえる、とはどういうことだろうか。バーチャルでもなんでもなく、そこに存在しているのだから見えるに決まっているではないか。それにここは
「冗談はやめてください。そこにいるんですから、見えるにきまってるじゃないですか」
顎に手を当てて考え込みながらその女は言う。
「不思議な人もいるものですね。漫画とかでしか見たことないのに」
明らかに会話が成り立っていない。
これ以上は関わらずに警察に通報すべきだろうか。携帯を取り出そうとポケットを探っていると、女は静かに近づいてきた。
「ちょっと、なんですか」
引っ越したその日にトラブルに巻き込まれるなどごめんである。
後ずさりすると、女はすぅと俺に手を伸ばした。
思わず目をつぶるが、手の届いた感触はない。
そっと目を開けると、その女の手は俺の腕を貫通していた。
「こういうことです」
自信満々に言うが、全く理解が追い付かない。
新手のドッキリだろうか。
もしかすると、リモートワークを命令された時点で壮大な仕掛けが動いていたのかもしれない。
道理で仕事の遅い上司たちのくせに流れるように話が進んだのか。都合よく家が借りられたのも納得である。
一人納得していると、冷静な口調で女は言った。
「あ、言っておきますがテレビのドッキリ企画でも変な動画の企画でもありませんから。正真正銘、私はここにいますが、この世のものではありません」
何を言ってるのか分からない。俺の目の前にいるこの人は何者だ。スーツを着て、透けていないでちゃんとそこに存在しているように見える。
「いやぁ、現実であなたみたいに視える人に会えるとは思っていませんでした。冗談半分で試してみてよかったです」
女はどこか納得したような顔をして世間話のようなペースで話すが、俺の全く思考は追いついていない。
「ちょっと待ってください。さっきからいろいろ言ってますけど、あなたが幽霊ってことですか」
スーツの女は大きくうなずく。
背中にじわじわと嫌な汗が湧いては乾いていく。
「さっきからそう言ってるじゃないですか。ちょっと、大丈夫ですか」
俺の能の処理能力では間に合わなかったようだ。
体の力がふっと抜け、自分が倒れていくのが分かった。
「起きてー、起きてください」
幻聴だろうか。遠くで優しく俺を起こす声が聞こえる。
あぁ、なんだかさっきまで悪い夢を見ていたような気がする。
会社も、リモートワークも、何もかも放棄してこのまま寝ていたら楽だろうか。
夢の国へ誘われるがまま意識を飛ばそうとすると、目の前に人が来たような嫌な感覚がした。
恐る恐る目を開けると、見覚えのある顔が俺を覗き込んでいた。
「よかった。かれこれ2時間ぐらい気絶してたんでどうしようかと思いましたよ」
起き上がり辺りを見回すと、さっきと変わらない光景が広がっていた。
「私の存在で気を失うのは失礼だとは思いますが、とりあえず安心しました」
「あの、本当に生きてないんですか」
女は呆れたような顔をして、再び手を差し出した。
「そんなに疑うなら、どうぞ」
俺は恐る恐るその人の手のひらに触れようとした。
しかし、雲すらつかめぬ感覚で空ぶってしまう。
「触れない。嘘だろ」
幼い頃から一人でトイレに行けなくなるのは承知でテレビの心霊特集や、子供向けホラー小説を読み漁っていた。
しかし、心のどこかで本当はいない、そう思っていたからこそ楽しめたのである。
「物分かりが悪い。それじゃあ仕事の効率も上がりませんよ」
きりっとした目で俺のことを見る。
出会って早々悪口を言われるとは。図星な所も余計に腹が立つ。
「大体、突然現れて幽霊を信じろって言う方が難しいでしょう」
「いえ、こんな透けるような人間が存在する方がおかしいでしょう」
何を言っても言いくるめられてしまう。こんなに生き生きと話しているのに、幽霊だなんて誰が信じるだろうか。
「まあとにかく、ここは私の家なので勝手に住まわれると困るんですよ。プライバシーもありますし」
そう言いながら女はムスッとした顔で俺をにらむ。
「あの、俺はちゃんと会社が契約したからここに住むことになったんです。それにあなた、もう生きてないんでしょ」
そう言うと顔が曇る。少し言い過ぎてしまっただろうか。
無言の時間が広がる。
励まそうにも、言葉が浮かばない。
「私、何か悪いことしたんですかね」
寂しそうにぽつりとそうつぶやいた。
この人がどんな人生を歩んだかは知らない。だが、決してこの人が悪人ではないのだ、俺の勘はそう言っている。
「この家、広いですよね」
「はっ、はあ」
突然の俺の発言にキョトンとした顔をする。
俺自身も、なんでこういったのかは分からない。
「俺、三田って言います。俺はここに住まなきゃいけないんで、あなたの気が済むまで、ここでシェアハウスするってことにしませんか」
俺は一体何を言っているのか。
こんな真夜中に、知らない女性に、しかも幽霊にシェアハウスを申し込むなんて。
「あなた、相当変わってますね」
くすくすと笑いだし、そのうちお互いに思わず吹き出してしまう。
「ちょっと、近所迷惑なんでやめましょう」
「大丈夫です。私幽霊なんで。浮田といいます。ここから出ていく気はないので、多分あなたが先に出ていくとは思いますが、どうぞよろしくお願いします」
そう言って浮田さんは深々とお辞儀をする。
なんだか奇妙な感覚だが、こうして俺は引っ越し早々見知らぬ幽霊と同居することとなった。
「ところで、部屋の内訳はどうしますか」
「えっ、」
「仕方がないので台所や広間、お風呂トイレは共同で我慢します。残りは一階の一部屋と二階の二部屋ですが、私は二階を使わせていただければと思います」
ちょっと待て、ということは俺は二階には上がるなということか。折角会社の金でこの広い一軒家を借りたというのに。しかも相手は幽霊である。
「二階にも二部屋ありますよね」
「一緒の空間に知らない男性がいるなんて普通は耐えられません。これでも妥協はしています」
なんて図々しい幽霊だろうか。変な契約を結んでしまったことに早くも後悔する。
「まあ、今日は遅いですからお互い休みましょう」
「幽霊も休むんですか」
ふと疑問に思って聞くと、浮田さんは顔を曇らせる。
「幽霊幽霊言わないでください。浮田です」
「す、すみません」
浮田さんはふんと鼻を鳴らして二階に上っていってしまった。
なんだかんだで丸め込まれてしまったようだ。
色々とありすぎて寝付けないのではないか、と思っていたが、思っていたよりも体は疲れていたらしくいつの間にか眠っていた。