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第3話 目覚めてもなお

 目が覚めると、外はすっかり明るくなっていた。どうやら眩しさで起きたらしい。雨戸を閉め忘れた大きな窓から日がこうこうと降り注いでいた。

 すぅと空気を吸い込むと、草木の懐かしい匂いがする。


 「いやぁ、良い目覚めだ」


 そういえば昨日は悪い夢を見たような気もするが、今はすっかり気分がいい。今日は土曜だから、ゆっくりと荷物をほどけそうだ。


 反射的に台所に行き冷蔵庫を開けるが、中身は空っぽだ。冷蔵庫の設置は済んでいるが、食料は買っていない。


 仕方なく昨日の夜に続いてカップラーメンを開けようとすると、背後に嫌な気配を感じた。


 「朝からカップラーメンですか。さすがに体に悪いですよ」


 気のせいだろうか。なんだか聞き覚えもあるような声が後ろから降りかかる。気を取り直してお湯を沸かそうとすると、再びその声は聞こえた。


 「ここから徒歩8分のところにパン屋があるので、そこでパンを買ってきてください」


 随分丁寧なパシリである。それにしてもこの声、まさか。


 「きゃぁぁぁぁ」


 振り向くと、昨日の夢で出てきたスーツ姿の浮田さんが腕を組んで立っていた。

 まだ夢の途中なのか、嫌に鮮明である。


 「ゆ、夢ですよね。随分長く寝てるみたいだ」


 浮田さんは「はぁ」とため息をつく。


 「あのね、さすがに認めてください。ここに私は居るし、あなたは起きているし、日は登っているんです」


 文字通り開いた口が塞がらない俺はカップラーメンを持ったまま固まる。ふぅと息をついて、ジャージ姿のまま、すたすたと玄関まで歩いた。

 俺の後ろを人の気配が追ってきている。多分、浮田さんがついてきているのだろう。構わずに玄関にたどり着いた俺は、勢いよく扉を開けて飛び出した。


 暖かい光が体に降り注ぐ。草木の青々とした生命力が目に飛び込んできた。

 息を整え、そっと振り向く。


 「まだいた……」


 つい本音を漏らすと、浮田さんは少し寂しそうな顔をした。


 「これで満足しましたか。じゃあ、パン屋に行きましょう」

 「この家から離れられるんですか」


 浮田さんはえぇ、とうなずく。どうやら地縛霊ではないらしい。これではどこまで逃げてもついてくるかもしれない。もはや呪われたも同然だ。


 「さぁ、財布を持ってください。おいしいご飯がいい一日を作りますから」


 おせっかいな幽霊に進められるがまま、俺は近所のパン屋についた。老夫婦の営んでいる小さなパン屋だ。焼きたてのパンの香りが鼻をくすぐる。


 「ここはアンパンがおいしいので絶対買ってください。あと、フィッシュサンドのフィッシュもまだ揚げたてなはず」


 言われるがまま、一人なくせして六つもパンを買ってしまった。今日はパンだけでも生きていけるかもしれない。

 さらに、パン屋の夫婦は穏やかで優しく、クリームパンを一つおまけしてくれた。


 「優しいご夫婦ですね」


 俺はほくほく顔な浮田さんを見ながら言った。


 「そうでしょう。私も前は毎日のようにあそこのパンを食べてましたから」


 確かに毎朝あのパンの香りをかげたなら幸せだっただろう。


 パンの入った大きなビニール袋をもって歩いていると、ふと遠くの小山に鳥居があるのが見えた。緑の中に紅一色が際立っている。あそこに行けば妙な幽霊から離れられるだろうか。ふとそんな言葉が浮かぶ。


 帰るなり疲れた体と心を癒すためすぐにクリームパンを口に放り込む。懐かしい甘さが体中に広がり、体中の細胞が喜ぶのを感じた。

 夢中になって次々に頬張ると、浮田さんがこちらを見つめているのに気がつく。


 「あ、なんかすいません。一人でバクバク食べちゃって」


 浮田さんは首を振り、パンが数個入っているレジ袋に手を伸ばした。すると、薄く透けたアンパンが出てくる。俺は瞬きをせずにその姿をじっと眺めた。


 「幽霊も一応食べられるんですよ。よくお供えとかあるじゃないですか」


 薄く透けたアンパンにかじりつくと、初めて心の底から嬉しそうな顔を見せた。気味の悪さよりもこの人が食べる笑顔になんだか気がひかれてしまう。


 「やっぱりおいしいですね、これ」

 「視えないんだからパン屋から直接もらえばいいのに」


 浮田はわざとらしくため息をつきながら首を横に振った。


 「視えないからってそんなことするなんて私のポリシーに反してます」

 「そう、ですか」


 何を言っても反論されそうなので大人しくパンを頬張る。浮田さんがパンを食べている姿は生身の人間だと言われても違和感がない。

 ついじっと眺めていると、浮田さんはふと手を止める。


 「あの、そういえばなんでうちに越してきたんですか」

 「どうしてですかねぇ」


 自分でも流されるままここまで来てしまった。その経緯を話すと、浮田さんははぁとため息をついた。


 「あのねえ、それはあなたにも非がありますよ。ちゃんと自己主張をしないと損をするのはあなたなんですから」


 部屋の電気がぱちぱちと点滅する。


 「それは分かってます。でも、主張する気力もないし、僕一人が逆らったところでどうにもならないんですよ」

 「そうやって、命令されたら何でもするんですね」


 なんでもって……。そう言おうとしたが、浮田さんはうつむいて何も話さない。触れてはいけない何かが、彼女の心の奥にはあるらしかった。


 「いいんですよ。こんな田舎で暮らそうなんて僕だけじゃ思えなかったですからね。あと、このパンも」


 わざと大げさにパンを頬張ってみせると、浮田さんは納得がいかない顔をしつつも、置いてあったお茶をとってすすった。


 朝食を済ませて片付けを進めていると、いつの間にか浮田さんの姿が見えなくなった。どこかに行ったらしい。どうやら常にこの家にいるわけでは無いようだ。

 外は気持ちよさそうな風が吹いている。片付けがひと段落した俺は、風につられて外に散歩に出てみることにした。


 畑で農作業をしている人の姿がちらほら見えるぐらいで、人気はない。少し歩いていると腕にじんわりと汗が浮かんできた。人気が無いのは暑さのせいもあるのだろう。

 ここらで喫茶店にでも入りたいところだが、それらしいものは見当たらない。


 当てもなくふらふら歩いていると、いつの間にか周りが木々に囲まれていた。どうやら小山のふもとまで歩いてきてしまったらしい。


 「そろそろ戻るか」


 元居た道を戻ろうとすると、そこには通った覚えのない赤い鳥居が厳かな雰囲気をまとって立っていた。


 「えっ、迷ったのか」


 スマホのナビを起動させるが、GPSは作動しない。


 「頼む、こっちであっててくれ」


 自分の勘を信じ、鳥居をくぐって山道を進む。

 汗がひき少し肌寒い。


 しばらく歩いてみるが、見覚えのある道に一向にたどり着かない。

 日はまだ高い事だけを頼りに歩き続けると、遠くに建物の様なものが見えてきた。誰かいるかもしれない。

 わずかな希望に足が早まる。だんだんと全貌が明らかとなる。遠くに見えていたそれは古びてはいるが立派な神社の本殿らしかった。


 「すみませーん。どなたかいらっしゃいませんか」


 反響した自分の声だけが響く。もはや神頼みしかないかもしれない。そう思い、ポッケに入った小銭入れを探っていると、がさがさと本殿の横の草が揺れる。

 熊でも出てきたらどうしようか。

 じっと草を見つめるが、何も出てこない。ゆっくりと本殿のさい銭箱まで歩き、静かに小銭を落とし、両手を合わせる。


 (無事に帰れますように)


 そして逃げるように本殿から離れ、恐る恐ると振り返る。

 すると、本殿の横に一瞬白い影が見えたような気がした。


 「嘘だろ」


 見えてはいけないものだったらどうしようか。


 いや、ついさっきまでそんな存在と一緒に朝飯を食べていたではないか。冷静に自分に突っ込み、もう一度振り返ると、確かに白い影――白い人影がこちらを見つめていた。

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