久しぶりに昔のことを思い出し、しんみりした気分でリビングに戻ったら、ソファーでタブレットを手にしていた津和が顔を上げた。
「ドライヤー、どこにあるのか分からなかった?」
「いや、ドライヤーとか使わないんだ」
頭に熱風をかけるなんて、考えただけでも具合が悪くなりそうで怖い……だが当然、そんなこと津和が理解できるはずもなく。
「どうして、風邪引くよ? 自分で乾かすのが面倒だって言うなら俺が」
「わああ、いいって!」
洗面所に向かおうとした津和の袖を、すれ違いざまにあわててつかんだ。簡単に止まってくれたけど、体がぶつかりそうなほど引きよせてしまった。
津和が問うような視線を向けるので、俺はつかんだ袖をそっとはなすと、ためらいがちに口を開く。
「面倒だってのもあるけど、熱いの苦手なんだ……その、気分が悪くなりそうで」
頭痛がしそうで嫌だと、はっきり言葉にできなかった。すると津和の手が、俺の濡れた毛先を軽くつまんだ。
「……タオルかして」
「えっ」
「拭いてあげるから、こっちへおいで」
やさしく手を取られて、小さな子どものように引っぱられながらソファーに戻ると、俺だけ座らされ、津和は背もたれの後ろに回った。そして、俺の首にかけたままだったタオルを取り上げると、ゆっくりと髪をふきはじめた。
「やわらかい猫っ毛だな。あんまり強くこすると痛むから、おさえるように、こう……」
「んっ……」
指が髪の間をすべっていく。その動きにゾワゾワと変な感じがして、不可抗力でブルッと体が震えてしまった。
「寒い?」
「いや、大丈夫。ただ、ちょっと」
説明しづらくて口をにごすと、頭をタオルごと大きな両手で包まれた。
「よく聞こえない」
「……!」
耳元で囁かれて、自然と肩がはねてしまった。ふざけているんだろうけど、心臓に悪いからやめてほしい。
「ドライヤーが嫌いなのは、もしかして熱い風で、頭が痛くなるから?」
「え。う、うん……」
いきなり核心を突かれ、つい素直に肯定してしまった。すると津和は、なあんだと、拍子抜けするくらいあっさりとした反応を示した。
「そういうことなら、ドライヤーを冷風にすればいいよ……ちょっと待ってて。今取ってくる」
津和は、濡れたタオルを手にリビングを出ていく前、一瞬こちらを振り返った。
「きちんと髪を乾かしたら、後でデザートあげる」
その言葉に、思わず吹きだしてしまった。自分が甘いもの好きだからって、それが俺へのごほうびになると考えたのか。変なところは察しがいいくせに、こんな短絡的な考えかたもするんだと思うと、どこか間抜けてておかしかった。
「うん、わかった。いい子にしてるから、後でデザートちょうだい?」
笑いながらふざけてそう返すと、津和は一瞬虚をつかれたような表情を浮かべた。冗談が通じたのかわからないが、津和はドライヤーを手に戻ってくると、ソファーの後ろから俺の頭をよしよしとなでた。
「じっとしてて」
「うん」
冷たい風があてられ、長い指がスルスルとやさしく髪を梳いてくれる。
(ああ、冷たくて気持ちいい……)
ウットリとされるがままでいると、やがてカチリとスイッチを切る音とともに、風が止んだ。何度か指がサラサラと髪をなで、それから「よし、終わり」と満足気な声が背中から聞こえた。
影が差したので振りあおぐと、薄く笑ってこちらを見下ろす津和と目が合った。
「プリンとゼリー、どっちがいい?」
「……ゼリー」
足どり軽く冷蔵庫へ向かう、スラリと背の高いシルエットをながめる。あれは絶対に、自分が食べたかっただけに違いない。
そんな感じで日曜日も終わり、月曜日の朝がやってきた。思ったほど居心地は悪くない。
ドライヤーの一件では、津和のおせっかいともいえる行動に少々驚いたが、決して嫌な気はしなかった。世話焼きにみえて、基本放置してくれるとこもいい。絶妙な引き際をわかっているのだ。
それに、なんと言うか……謎が多いところも、面白くていい。
「なあ、津和さんって絵を描くの?」
朝食の席で、ご飯のお茶碗を手に俺がたずねると、向かいに座る津和が、怪訝そうにくびをすくめた。
「描かないけど、なんで?」
なんで、と聞きたいのはこっちだ。段ボールの奥から、立派な油絵セットを発掘したのだから。
「それじゃあれは、前のマンションで同居していた人の荷物を、間違って持ってきちゃったとか?」
すると津和は、眉をひそめて嫌そうな顔をする。
「なんで俺が、誰かと同居してたって思うの」
「じゃあ、あの油絵セットは誰の?」
津和は、ああアレね、と興味なさそうにつぶやくと、俺が作った形がくずれまくった卵焼きに箸をのばした。正直言って料理は苦手だから、これでもマシな方だ……雇用主に食べさせるには、申し訳ないレベルだが、俺は掃除要員であって、料理は管轄外だから大目にみてもらいたい。
「趣味になるかと思って、とりあえずネットで注文してみたけど、さわったことはない」
「あー、そうなんだ」
一体どういう経緯で、趣味になるかと思ったのだろう。単なる気まぐれだろうか。
「それじゃ、もしかしてホームベーカリーセットも、そうなのか?」
津和は視線を上げると、俺の顔をまじまじと見つめた。
「それって、パンを焼く電化機器のこと?」
「あ、ああ……廊下の段ボール開けたら、出てきたんだけど」
津和はしばらく無言で卵焼きを咀嚼してたが、ふと顔を上げて小さく微笑んだ。
「君にあげる」
「え……ええっ?」
俺は別に、パンを焼く趣味は全くない。というか、料理は管轄外だと言ったはずだ。いや、まだ公言してなかったか。
「それでパンを焼いてみてよ。明日の朝食に食べたい」
「で、でも俺、パンなんて焼いたことないんだけど」
「俺も焼いたことない。だからどっちが焼いても同じことだろう?」
それは、そうかもしれないが。俺は本当に、料理は全くやらないし興味もないし、パンに特別こだわりなんてない。パン屋のパンだろうが、コンビニの袋詰めのパンだろうが、トースターで焼いちまえば、大して変わらないと思っているレベルだ。
「俺、料理苦手だし。せっかく買ったんだから、自分で使ってみたら?」
「ふーん、じゃあ俺が焼いたら、君、明日の朝食べてくれるの?」
「あ、ああ」
「よし、決まり。それじゃ会社帰りに、材料買ってくる」