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第36話 禍ツ太陽


 強風に小雨が混じる朝。


 神宮寺裏手の墓地は野分龍のわきりゅうの爪痕を生々しく残し、林立する墓石の翳はいっそう物淋しい。


 撞賢木つきさかき家の墓所は隅の一角にあり、その中で最も新しい笠付方形の小さな墓石に、「冬姫墓」と、ただそれだけの碑銘が刻まれている。


 蓮太郎はもう随分長い時間、その墓を見下ろして立ち尽くしていた。右腕には包帯が巻かれ、首から下げた布で吊っている。昨夜、鈴姫の謎の力によって負わされた火傷と骨折の痕だった。


 苔むした石畳を踏みしめ、なながやって来た。ななは蓮太郎の背中に向けて言う。


「……大坂城塞。野分龍が、暴れてる。浪士達も、集まってるって。……〈人斬り〉も」


 反応は返ってこない。


 ななはさらに、

「みんな、行ってくれるって。差賀さが藩の、江藤さんも。寅美とらみさんが、説得した」


 蓮太郎は息を大きく吸い込み、吐いた。そして背中を向けたまま、感情の無い声で言った。


「……あれを、返してくれるか」


 ななは肩を震わせた。目を恐怖に見開き、震える唇で、

「あの子が……冬姫と、同じになるの……?」


 無機質な声が返ってくる。

「……同じだった。頭痛も、あの妙な力も。……きっと苦しみに苦しみながら、死を振り撒くことになる……処方は、一つしかない」


 ななは一歩踏み出し、強い口調で言った。

「けど……! あの子の、本当の意思じゃない……!」


 蓮太郎が振り向いた。素早くななに迫り、暗雲のごとき両目で見据える。

「……冬姫もそうだった」


 ななは怯み、一歩後ずさった。


 蓮太郎の低い声が覆いかぶさる。

「他の誰にもやらせない……もちろん、あの子自身にも。……今度こそ……俺が、穢れを背負い……そして、片を付ける」


 ななは目に涙を浮かべた。

「私に……たった一人で、生きていけって言うの……⁉」


 蓮太郎の目はどこまでも暗く、一筋の希も見出せなかった。

「きっともう……全て終わっていたんだ。十五年前に」


 小雨と風が二人の間を通り過ぎる。


 長い沈黙の後、蓮太郎は再び言った。

「あれを、返してくれ」


 ななは俯き、胸元に手を入れ、中から白鞘の短刀を取り出した。


 蓮太郎はそれを受け取り、ななを追い越して歩き出した。


 ななは墓を振り返った。小さな墓石は、何も言わずにただ風に吹かれるのみだった。


 ―――― ◇ ――――


 全てが霞みがかったようにぼんやりとしている。いつトラックのコンテナに乗り込んだのかも分からない。コンテナ内では様々な服装の大人達が代わる代わる挨拶しに来た。


 鈴姫はそれらに対し何の反応もせず何の感想も抱かなかったが、唯一見覚えのある白いロングコートの女性が「分からされちゃったね。よしよし」と言いながら頭を撫でてきた事だけは不快な印象として残った。


 長い時間をかけて移動した。鈴姫はコンテナの隅でずっと座席に腰かけていた。寝ているのか起きているのかも分からない。生きているのかさえも。


 雨が降っている。ここは外だ。風が強い。


 目の前に父がいた。どこかに向かって歩いている。


 鈴姫は何の違和感もなくごく自然に、その背中を追っていた。


今人神いまひとがみの内でも、力の優劣というものがある」

 大名持貴彦は歩きながら言った。


「ほとんどの今人神は神験しんけん勧請かんじょうする媒介となるだけの力しか持たないが、ごく稀に、神々の血をより濃く受け継いだ今人神が生まれることがある。秘事中の秘事だが、そういった者は古代の神々が持っていた力の一部を行使し、さらに荒御魂の具現体である禍獣かもを意のままに操る力が備わる――俺がそうだ。そして鈴姫、お前も」


 黒雲の身体を持つ野分龍のわきりゅうが、上空で渦巻いている。


「お前の祖神、瀬織津姫せおりつひめは、知っての通り川の女神だ。早川の瀬に坐し諸々の穢れを祓い清め、また農耕や日常生活にも様々な恩恵をもたらす慈愛に満ちた神。だが一方で、川は時に激しく暴れ狂い、人々に死という穢れを振り撒く」


 父の言葉はなぜか耳に心地よく、鈴姫は引き込まれるように歩いた。


「そのためか、瀬織津姫は多くの別名を持つ。川神や水神といった以外に、戦神に比定されることもある。だが最も重要な側面は、瀬織津姫という神自体が、とある神様の荒御魂であるとされていることだ」


 横殴りの雨の向こうに、大きな影がぼんやりと浮かび上がってきた。鴉羽からすばねを繋ぎ合わせた外衣と、後光を模した頭部。


「太陽神――天照大御神あまてらすおおみかみ大御神おおみかみの荒御魂こそが、瀬織津姫という神なのだ、と」


 その御霊機おんりょうきの胸部と腹部、二か所が開いており、腹部の方に人が乗っているのが見える。ぼんやりとしか見えないが、スーツ姿であることは分かる。どこか見覚えがあるようなその人物は、奇妙なことに父の言葉に合わせて口を開閉しているように見えた。


「その真偽や理由に関しては、種々の雑説が飛び交い、未だ定説を見ない。重要なのは、それが人々の間で長く受け入れられてきたということだ――」


 父は鈴姫を抱き寄せ、御霊機の上部から垂れているロープの先端に足を掛けた。ロープは自動で上昇し、父と共に鈴姫を上へ運ぶ。その途上、腹部の席にいる男性を見た。角縁眼鏡つのぶちめがねの奥の目が、上に向かう鈴姫の姿を追っていた。


 ロープが止まり、父は鈴姫を抱いたままひらりと胸部の操縦席に乗り込む。


「もう一度言う。お前の祖神、瀬織津姫は、天照大御神の荒御魂だ――」


 父は席に座り、鈴姫を膝の上に座らせた。そして後ろを振り返り、天井付近に備え付けられている神棚、その宮形に収められている神札を見た。


 ――禍津日大神まがつひのおおかみ


「さあ、俺の禍ツ太陽よ――共にこの国を祓い清めよう」


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