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第64話

二人が対峙する中、真希の立場が圧倒的に弱いことは一目瞭然だった。

絵心は勝ち誇った様子で笑みを浮かべる。


「まさかこんなところでまた会うなんてね、A国でも顔を合わせるとは思わなかったわ。一人で来たの?拓海にはもう捨てられたの?」


真希は肩をすくめて答える。

「私と拓海はもう離婚したの。あなたが本気で彼のことが好きなら、日本に戻って追いかければいいじゃない。」


真希と絵心は、敵同士というほどではないが、かつて同じ人を好きになったことがある。それ以外には特に深い因縁もなかった。真希自身、絵心に対して悪い感情は持っていない。


自分なりにきっぱりと伝えたつもりだったが、どうやら絵心の逆鱗に触れてしまったらしい。


「東京に居場所がなくなって追い出された負け犬ってわけ?A国でも居場所があると思ってるの?今すぐこの国から消えなさい!」


理不尽さにうんざりして、真希も言い返す。


「ここはあなたの国じゃないでしょ?A国の大統領があなたのお父さんってわけ?私を追い出す権利なんて、あなたにはないはず。もし本当にできるなら、A国の政府にでも言って、私を強制送還させてみれば?それができないなら、無駄に騒がないで。」


絵心は顔を真っ赤にして、出口の警備員たちに向かって命じた。


「そこの人たち、彼女を捕まえて!」


その言葉を受けて、警備員たちが真希の腕を強引に押さえた。


身動きが取れなくなった真希は、皮肉を込めて笑う。


「結局、権力に頼るしか能がないのね。拓海があなたに見向きもしないのも納得だわ…」


カツカツとヒールの音を響かせながら、絵心が近づき、いきなり真希の頬を平手打ちした。


一瞬何が起きたのかわからず、真希は呆然と絵心を見つめる。


三年の間に、絵心はこんなにも我儘で横暴になったのか。それとも、真希が今まで本当の彼女の姿を知らなかっただけなのか――。


絵心は真希のバッグを奪い、中身を荒々しくぶちまける。パスポートや身分証、スマホまで全て取り上げた。


警備員たちは、絵心の目的が済んだと見るや、真希を解放した。


真希は迷わず絵心の手首を掴み、今度は自分が平手打ちを返す。


「あなた、私に手をあげるなんて…!」


「これくらいで済むと思わないでよ。倍にして返してやるわ!」


もう一発、左右の頬が見事に腫れ上がる。


やられたらやり返す――それが真希の流儀だ。黙って耐えるような性格ではない。絵心がどれだけ報復しようと、怖れるつもりなどなかった。


かつて、拓海を堂々と追いかけていたのは、東京でも限られた名家の娘たちだけだった。


絵心も、老舗の名家・小林家の末娘で、幼い頃から家族に甘やかされて育った。

昔、パーティーで会ったときも、プライドが高くて他人を見下す態度が目立っていたが、今思えば、あれでもまだ抑えていた方だった。

本性は、傲慢で自己中心的、力を振りかざすことしか能がない。


どんな階層にも、それぞれのルールがある。表向きは平和を装っていても、裏では容赦のない駆け引きが繰り広げられている。


頭の良さや策略は必要だが、理性がなければ意味がない。


絵心はまさに、何も考えずに突っ走るタイプだった。


真希は心の中で、絵心は家から遠ざけられているのだろうと察する。こうして国外に出されている間に、気づいたときには、小林家の中で彼女の居場所がなくなっているのかもしれない。それを、絵心自身は知らないのだろうか――。


怒り心頭の絵心は、真希を睨みつけ、ヒールのピンク色の靴で床を鳴らしながら踏みつける。真希は、そんなに踏むと転ぶんじゃないかと心配になったが、口には出さなかった。


「この女をやっつけて!」


絵心はバッグから札束を取り出し、後ろにいた友人たちにばら撒いた。


「うまくやれば、もっとあげる!」


その言葉に、友人たちはすぐさま真希に殴りかかる。髪を引っ張り、服を掴み、爪を立てて蹴りを入れる――女同士の喧嘩は容赦ない。


真希は病み上がりで体力もなく、あっという間に床に押し倒されてしまう。


一人の女性が真希の上に馬乗りになり、顔めがけて殴りかかる。


真希は頭を必死に守るが、程なくして体にかかる重みが消え、暴力も止んだ。


痛みに耐えながら目を開けると、いつの間にか、屈強な男たちに周囲を囲まれていた。


彼らは一体、誰なのか――。


考える暇もなく、肩をがっしりと掴まれる。


恐る恐る見上げると、白髪混じりの中年男性が白い手袋をはめて立っていた。


真希はすぐに察する。執事だ。

金持ち・権力持ちの家には、プロの執事がいるものだ。

専門学校を卒業し、徹底した訓練を受けている。白手袋はその証しだ。


「お手をお貸しします。」


その男性は丁寧に真希を立たせてくれる。


「あなたは…?」


そう尋ねようとしたとき、路肩にロールス・ロイスがゆっくりと停まった。


執事は優雅に歩み寄り、後部座席のドアを開ける。その間、取り囲んでいた男たちも一斉に頭を下げて待機した。


まるで、王の到着を迎えるかのように。


赤い絨毯がアパートの前に敷かれる。


黒い革靴がその上を静かに踏みしめ、長い脚が現れる。黒いコート、そして無造作に整えられた髪。


彼が車から降り立つと、すらりとした体躯と整った顔立ちが際立つ。どこから見ても隙のない男――まさに冷たい光を放つ瞳。


その雰囲気に、誰もが声を呑んだ。


彼が真希の方へ歩み寄ると、周囲の護衛たちはさっと背を向け、周囲の警戒にあたる。


ゆっくりと、確実な足取りで真希の前に立つ。


驚いて見上げる真希。


「え?…」


市崎郁。


まさか、ここで郁に再会するとは思わなかった。


彼の漆黒の瞳はさらに冷たさを増している。以前よりも威圧感が増している気がした。


端正な顔立ちがすぐ目の前に迫り、まるで神のごとき存在感。

真希は、目の前の郁と、自分の記憶の中の郁がどうしても重ならなかった。


どこか、別人のようだ。


しばらく真希を見つめた後、郁はいきなり身をかがめて、片腕で彼女の膝裏を抱え、軽々と持ち上げる。


突然体が宙に浮き、思わず彼の腕にしがみつく。手は無意識に彼のコートの中へ入り、薄いシャツ越しに熱い体温と引き締まった筋肉を感じた。


思わず、その腕をぎゅっと握ってしまう。


郁が一瞬足を止め、真希ははっとして彼の意味ありげな視線と目が合う。慌てて視線を逸らした。


「私の荷物…」


少し離れた場所に、荷物や書類が散らばっている。


郁は後ろを振り返り、眉をひそめた。


「面倒だな。」


真希は唇を引き結ぶ。


郁は真希をそっと下ろし、散らばった荷物を一つ一つ拾い集めてバッグに戻す。


バッグを片手で持ち、戻ってくると、また真希を抱き上げ、そのままゆっくりと歩き出した。


屈強な護衛たちと執事が後に続き、エレベーターへと向かう。


この状況、どう考えても不自然だ。


真希は、郁の手に自分のバッグがあるのを見て、声をかける。


「バッグ、返して。」


郁は無言のまま、真希の手が届かない距離でバッグを持ち続けていた。

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