「腹が減った」
その一言を最期に、ゆっくりとぶっ倒れた。
どことも知らない国の、見知らぬ場所で。
もう3日間も、何も食べてない。
最初の2日間はグーグー腹が鳴りまくっていたが、今は完全に沈黙。
腹の減りすぎで、腹の虫さえも餓死したようだ。
空腹で倒れたのは人生で3回めだが、こういうとき人間は「バタっ」とは倒れない。力尽きる時、人間は膝から崩れ落ちるように「ヘタっ」と倒れるのだ。
「……」
頭をぶつけないように手を踏ん張ろうとしたが、力尽きてべしゃっと頬が地面に接触する。
ちょっと痛かったし不快だったけど、悲鳴も出なかった。
土ともアスファルトとも違う、硬い感触。
砂粒の感触を感じながら、眼の前を歩く蟻っぽい虫を朦朧と眺める。
「水、くれ」
つぶやいたつもりだったが、声は出なかった。
喉が乾いた。
水分だけは腹を壊す覚悟で摂取していたが、それでも限界だった。
あー、今度という今度はやばいかもしれん。
これまで色んな国で危ない目に遭ってきたけど、今回のこれは流石にやばい。
くそー、まだ行けてない国がいっぱいあったのになぁ……。
ラオス語の勉強が無駄になっちまった。
それに来年あたりからアフリカ大陸を攻めるつもりだったのに……などと思っていると。
「……×××?」
野太いおっさんと声が降ってきた。
「
じゃあ、どこかわからん場所だと思っていたが、香港か広東省あたりなのか?
「××××、×××××?」
と思ったが、知らない言語だった。
なにやら話しかけられているようだが、ちょっと機嫌の悪そうな怒ったような声色だ。
いや、こんな行き倒れ相手だ。
話しかけると言うより、文句を言っているだけだろう。
「……言葉がわからん」
これでもバックパッカー歴はそれなりに長い。
だいたいどんな言語でも、有名どころなら意味はわからずとも何語かくらいはわかる、はずなのだが、男の言葉はまったくわからん。
それに、どんな人物に話しかけられてるのかわからんが、もう動く気になれない。
ひょっとして野盗だか強姦魔の類かもしれんが、もう抵抗する体力なんてないぞ。
痛いのとか気持ち悪いのとか勘弁してくれ……それくらいならこのまま餓死するほうがマシかもしれん。
「
なんか、一部だけ聞き覚えのある単語に聞こえる。
えーと、ウェイは広東語っぽいけど、途中でタガログ語っぽい単語が挟まっている気もする。
いや、たまたまだろうけど。
「……ぐえっ」
なんか、いきなり体を持ち上げられた。
おいおい、細いつっても成人男性だぞ。体重だって60キロ以上ある。それをこんな軽々とだな……
「……あ」
おっさんと目が合った。
「……はろー」
とりあえず英語で話しかけてみるが、おっさんはちょっとムッとしたように俺を背中におぶって立ち上がる。
うわ、すげぇ筋肉……反抗したかったけど、こりゃ無理だ。
それに空腹で体がもうほとんど動かん。
「×××、
あ、インドネシア語ぽい単語だ。えーと、ケサバラン、我慢、だっけ。
いや、これもたまたまか。そんないろんな国の単語がめちゃくちゃに混じり合った言語なんて聞いたことないし。
おっさんは俺の重さをものともせず、スタスタと歩きはじめる。
うわ、腕の太さなんて俺の太ももくらいあるぞ。
おっさんの運び方はあまり親切な感じではないけれど、それでも痛くないように最低限の気遣いが感じられる。
どこに連れて行かれるのだろう。
このまま何処かに破棄されるのか、売られるのか、おもちゃにされるのか、それはわからない。
でもまぁどうせ反抗できないし、諦めて運ばれよう。
おやすみなさい Zzz……。
▽
時遡ること3日とちょっと前。
その日、おれはブルネイからベトナムへ向かう船に乗っていた。
ベトナムは東南アジアを旅するハブとして、タイやラオス、カンボジアなんかへ向かうときには必ず立ち寄る。
割と近代的で、タイよりも宿も安く、あと何よりも飯が旨い。
その日もホーチミンで船を降りてそのままカンボジアへ向かう予定だったのだが……
「え、どこここ」
船を降りると、見覚えのない土地だった。
「え、うそ、マジで?」
ちょっと慌てて、船のチケットを見るが、間違いなく下船はホーチミン港になっている。
でも、近くの看板を見ても、いつも見慣れたベトナム語が見当たらない。
外国人向けの表記の少ないベトナムでも、港近くなら英語やフランス語、スペイン語、中国語なんかもあるはずだ。
あるはずなんだが……。
「なんじゃこりゃ……」
看板にあるのは見たことのない文字だった。
いや、世界は広い。知らない文字だっていくらもあるはずだが、ここは港だぞ? そんな事ありうるか?
「………………」
まぁ、悩んでもしょうがない。
こういう時パニックを起こさないってのは、バックパッカーとして一番大事な資質だ。
単に考えなしともいう。
思慮深けりゃ仕事放り出してバックパッカーなんてやってないっての。
とりあえず知っている場所へ向かう船だかバスだかを探す。
が、どうもおかしい。
それらしい建物もないし、俺は一体どこに降ろされたのか。
…………。
ちょっと腹も減ってきた。
ここがどこなのかはわからんが、とりあえず飯屋を探そう。
一応ドルやドン、バーツなども財布に入ってるから、何も食えないってことはないだろ。
▽
行けども行けども店らしきものがない。
つかそもそも人と出会わん。
それに、ずっと気づかないふりをしてたけど、それ以上無視できないことがある。
見かけるどの動植物にも、見覚えがない。
ここがベトナムだとすれば、道草や虫やらは大体見覚えがあるはずだ。
そうでなくとも、東南アジアの植生はだいたい似通っていて、例えば日本でもお馴染みのドクダミなんかはどこでも見かける。
でも、奇妙なことにそんなものは一切見かけない。
どれも、一見どこにでもありそうな草や樹木だが、よく見れば全く見覚えがないものばかりだ。
道ゆく這い虫やらも見覚えがない……俺は生物学者でもなんでもないけど、アリすら見かけないってのはなんなんだ。
いや、それよりも。
俺はここにきて、ようやくちょっと危機感を持ち始めていた。
これ、もしかして餓死する流れじゃね?
▽
餓死する流れでした。
とりあえず水を求めてうろつき、池だか沼だかを発見。
ウォーターボトルに汲んで浄水剤を入れ飲水としたが、浄水剤で浄化できるのはドロや菌、一部の生物由来の毒だけだ。
味や匂いがあるのはまだ我慢できるとして、ケミカルやら重金属まで取り除けるわけではない。ちょっとしたロシアンルーレット。それでも水がないと人間は2日と生きられない。
第一、俺はバックパッカーであってブッシュクラフターでも狩人でもなんでもない。
水だけあっても食うもんがない……緊急用の食料で食いつなぐも、あっという間に手持ちが消えてなくなった。
そもそもベトナムで色々買い足す予定だったんだよな。
「やべぇ、腹が減りすぎて力が入らん」
言葉が通じる国ならどこでだってやっていける自信があったが、ここじゃ言葉が通じない。ていうか、人っ子一人通らん……港が近くにあるんだから、どんなに小さくても町があるはずだと思っていた目論見は外れ、最終的には「へたっ」と倒れ込んだわけだ。
そんでもって冒頭の有り様である。
筋骨隆々のヒゲオヤジに抱えられ、もうどうにでもなれと爆睡をカマしたというわけだ。
おっと、自己紹介が遅れたな。
俺の名前は糸村座一(いとむらざいち)。
25歳、男性、日本人。
旅行中は名前に1を足して