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 朝、茨木がそっと家を出ていく気配で清良は目を覚ましていた。

 きっと、昨日の夜遅くまで調べていた斎宮家のことを、早朝から探りに行ったのだろう。

 心配ではあるが、今できることは、彼のことを信じて、自分の仕事をきちんとこなすことだけだ。


 茨木くんには僕のペンライトにサインして持たせているから、きっと大丈夫だ。


 清良は茨木のペンライトに茨木にサインしてもらい、お守り代わりにしている。


 茨木と入れ替わりに現れた影縫が、冷蔵庫の作り置きを温め、朝食として出してくれた。

 紛れもなく、茨木が作った料理だというのに、茨木本人がいないとやはりどこか味気なく感じるのだから不思議だった。



 マネージャーの迎えの車に乗り込み、テレビ局へ向かう。

 最近はずっと茨木と一緒だったため、隣の席が少し寂しい。

 車窓から見える都の景色は、いつもと変わらないように見えたけれど、どこか空気は重く、ざわついた感じがした。



 朝のニュース番組の生放送前。

 いつものように楽屋で喉の調子を整える。

 歌い出す前に、軽く発声練習だ。


「あー、あー、ん……」


 喉の奥が、なんだか詰まっているような、妙な違和感があった。

 まるで、何か透明な膜が張られたように、声がすっきりと出ない。


「あれ?」


 何度か試してみるが、高音が出しにくく、声に伸びがない。

 こんなことは初めてだ。無音の時とも、別な感じである。

 昨日のライブではあんなに気持ちよく歌えたのに。


「清良、大丈夫か?顔色が悪いぞ」


 心配そうなマネージャーの声に、僕は無理に笑顔を作った。


「大丈夫だよ、ちょっと寝不足かな。本番までには、ちゃんと調整するから」


 そうは言ったものの、不安が募る。

 僕の歌声は、僕自身そのものだ。それが思うように出ないなんて。

 都のあちこちで、幽霊たちが道に迷っているのを感じていたけれど、最近はそれだけじゃない。

 街行く人々からも、どこか澱んだ、重苦しい感情が流れ込んできて、心がざわつく。



 本番直前の時間。

 緊張感が高まる中、スタッフに促され、スタジオのスタンバイ位置へ向かう。

 オープニングの音楽が流れ、カメラが僕にズームする。


「──おはようございます!今日のゲストは、人気アイドルの清良さんです!」


 司会者の声が響き渡り、清良の名前が呼ばれる。

 笑顔で一礼し、マイクを握りしめた。


 歌い出しだ。


 しかし、最初のフレーズを歌おうとした瞬間。

 清良の喉は、本当に、本当に、閉まってしまったかのように声が出なくなった。


「っ……!」


 必死に息を吸い込み、声を出そうとするが、出てくるのは絞り出すような小さな音だけ。

 頭の中が真っ白になる。

 焦り、恐怖、そして、訳が分からない状況への困惑が僕を襲った。


「清良!どうした!?」


 マネージャーの声が聞こえる。

 スタジオ内は、清良の異変に気づき、ざわつき始めた。

 清良の喉の奥は、まるで粘つく泥のようなものが絡みついているかのような感覚だ。

 それは、清良の歌声を、そしてその心を、じわじわと蝕んでいるようだった。


 歌声が、出ない。


 都全体から、呻き声が聞こえる。

 それは、己の喉から出ようとする声を押しとどめる、重くて、冷たい、不気味な叫びのように感じられた。



「一旦、CM。清良さんはこちらへ」


 生のニュース番組である。スタジオは歌えない清良に騒然となった。


「清良、立てるか?」


 マネージャーが駆け寄り、清良の手を取る。  

 清良は足に力が入らない。

 声が出ないことで過呼吸を起こしてしまっていた。


「清良さん!」


 清良を抱きかかえたのは護衛としてついてきていた影縫である。

 自分がついていながらなんたる失態かと、影縫は歯を食いしばった。


「控え室に!!」


「分かった!」


 焦るマネージャーと影縫の声が聞こえるが、不思議とその声は遠ざかって行く。



 気づくと清良は見知らぬ場所にいた。


「ここは?」


「我らが術中の中である」

「清良、準備は整った」


 清良の目の前に立ちはだかったのは土河兄弟である。

 反撃しようにも清良は声が出ない。


「歌えない貴様など怖くは無いわ」

「さぁ、我々と来るのだ」


 抵抗できない清良は土河兄弟の呪詛をまともに受け、意識が持っていかれる。


「はい」


 出ないはずの声は自分の意識とは違う所で勝手に同意の声を出し、足は勝手に動く。

 土河兄弟の前まで進み、目の前で跪いた。


「素直だな」

「よしよし」


 土河兄弟は満足そうに清良の頭を撫でる。

 気持ち悪くてたまらない。


 茨木くんはどこ!?


 茨木を探したいが、顔すら自由には動かせなかった。




「清良、どうしたんだ!?」


 急に清良の目は光を失ったようになり、一点を見て瞬きもしなくなった。


「まずい、心を誰かに取られている!」


 影縫はハッとして清良をおろして自由にする。

 清良はただ一点を見つめ、歩き出した。


「清良、どこに行く!」


 清良を引き止めようと手を伸ばすマネージャー。

 それを影縫が止める。


「いけない。清良さんは今、心を取られています。無理に止めると彼の心が壊れてしまう」


「何を言っているんだアンタ」


 理由のわからない事を言う影縫に、マネージャーは困惑した。

 清良のマネージャーは清良から妖怪たちの話を聞いてはいたが、話半分に聞いていたのだ。

 確かに、遅刻しそうな時など「迎えに来るな」と言うし、テレビ局の前で待っていれば清良は一陣の風と共に現れていた。

 本人も、よく「幽霊の声が聞こえる」と以前から言い、急にいなくなるなど、不思議なことが多かった。

 しかし、最近よく清良のマネージャーを買って出てくれる茨木や、その他の者たちも人間にしか見えず、マネージャーは深く考えずに流してしまっていた。


「今、清良はどういう状態なんだ?」


 マネージャーは背筋が冷たくなりつつも、影縫にたずねる。


「心を誰かに奪われ、操られている。正気に戻る場所まで付いていこう」


「分かった」


 目の前で起きることにマネージャーは困惑しつつも、明らかに異常である清良に、影縫の言うことを信じるしかなかった。

 影縫はすぐにこの緊急事態を茨木に報告を飛ばしたが、その連絡は斎宮の結界に阻まれ、届くことはなかった。

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