斎宮邸の地下深くに位置する広間では、『穢れ喰らいの儀』が着々と進行していた。
祭壇に立つ斎宮朔夜は、表情一つ変えず、都から集められた穢れの波動をその身に吸収し始めていた。
彼の周囲を、土河成満と成道の残穢が渦巻いている。
彼らが清良を捕らえに行ったことは、儀式を加速させるための最終段階だ。
その時、広間の入り口である重厚な扉が、突如として激しく軋んだ。
朔夜の表情に微かな動揺が走る。
「何事だ」
成満と成道は清良捕獲のため不在。朔夜の問いに答える者はない。
扉は霊力によって強固に封じられていたはずだった。
軋みが止むと、扉の隙間から、古びた呪符が焼け焦げるような異臭と共に、眩い光が漏れ始めた。
それは、いくつもの結界が同時に破られた証だった。
「馬鹿な……誰が、この結界を……」
朔夜が目を見開くと、轟音と共に扉が吹き飛んだ。
土煙が舞う中、そこに立っていたのは、白い狩衣を身につけた老いた陰陽師、斎宮宗源だった。
彼の額からは汗が流れ、息は荒い。禁忌の書庫の結界を破り、ここまで駆けつけるのに、相当な霊力を消費したのだろう。
「宗源……貴様、一族を裏切るつもりか」
朔夜の声には、怒りよりも驚きが勝っていた。宗源は杖を構え、震える声で朔夜を睨みつけた。
「朔夜よ、この儀式を止めるのだ!これは、斎宮家の犯してきた過ちの、さらなる深淵に繋がるもの!都を救うという大義の元、清良殿を贄に捧げ、すべてを支配しようなどと、許されることではない!」
宗源の言葉は、かつての師としての厳しさを帯びていた。しかし、朔夜の瞳には、一切の迷いがなかった。
「過ちだと?宗源。これこそが、永きにわたり都を苦しめてきた穢れを完全に根絶するための、唯一の道だ。私の父が、貴様が、躊躇い、手を汚すことを恐れたからこそ、都は未だ穢れに蝕まれているのだ!」
朔夜の言葉は、過去への深い憎悪と、自らの「正義」への絶対的な確信に満ちていた。
彼の霊力は、祭壇から湧き上がる穢れと混じり合い、黒く、禍々しい輝きを放ち始める。
広間全体が、重苦しい圧力に包まれ、宗源の体は押し潰されそうになった。
「愚かな……力でねじ伏せる浄化など、それは新たな穢れを生み出すだけだ!なぜそれが解らぬ」
宗源は最後の力を振り絞り、杖の先端から強大な霊力を放った。
それは、この儀式を阻止するために練り上げられた、彼に残された最後の奥義だった。
霊力の奔流は祭壇へと向かい、朔夜を打ち砕こうとする。
しかし、朔夜は動じなかった。
彼はわずかに腕を振るうだけで、その霊力の奔流を容易く弾き飛ばした。
弾かれた霊力は、広間の壁を大きく抉り、激しい衝撃波が宗源を吹き飛ばす。
宗源の体は、壁に叩きつけられ、ずるずると床に崩れ落ちた。
彼の口から血が流れ、全身が震える。
「なぜだ……わしの霊力が、これほどまでに……」
朔夜は冷酷な眼差しで宗源を見下ろした。
「宗源。貴様は、もはや古き時代の亡霊に過ぎぬ。穢れを喰らいし私の力は、貴様の想像を遥かに超える。これは、都の、そして世界の未来を決定する儀式だ。邪魔はさせぬ」
朔夜はそう言い放つと、再び祭壇へと向き直った。
彼の周囲の穢れの波動が、一層激しさを増す。
宗源は、薄れる意識の中で、都全体が、まるで巨大な胃袋に飲み込まれていくかのような感覚に襲われた。
一方、九尾ノ峰の奥深く、結界に守られた社の中で、九尾は静かに瞑想していた。
隣にいる哀羅が今の所、スヤスヤと眠れている。
絡繰童子と猫又が、あやしてくれたおかげだろう。九尾も側に裂帛がいることで、だいぶ正気を取り戻していた。
やっと落ち着いたところで、都の危険がかなり深刻に進んでいることに気づき、今しがた透視をはじめた所だ。
都の均衡が崩れ始めたことは、遠く離れたこの地にも、微かながら波動として伝わってきていた。
しかし、その波動は日を追うごとに強くなり、今や、九尾の深い瞑想をも妨げるほどに膨れ上がっている。
「……随分と、荒々しい気配になったものですね」
九尾がゆっくりと目を開ける。彼の瞳は、夜闇を映したかのように深く、しかしそこには確かな力が宿っていた。
都から伝わる穢れの波動は、かつて感じたことのないほど強大で、そして性質が悪い。まるで、澱みが意思を持ち、貪欲にすべてを飲み込もうとしているかのようだ。
裂帛と絡繰童子を茨木の元へ送り返したが、はたして間に合うかどうか……。
特に、清良の霊気と茨木の霊気が、それぞれ異なる、しかし尋常ではない乱れ方をしているのが気になった。
清良の霊気は、激しく揺らぎ、まるで誰かに抑え込まれているかのように乱れている。そして、茨木の霊気は、怒りと焦燥に燃え上がり、普段の冷静さを欠いているのが見て取れた。
「茨木の守りも、そう長くは持ちませんね」
九尾は静かに呟いた。
彼が茨木を匿い、その力を封じていたのは、斎宮家が彼の「異形の力」を贄として利用することを防ぐためだった。
そして、茨木が自身のルーツと対峙する時が来るまで、九尾は静観するつもりでいた。しかし、事態は彼らの予想を遥かに超える速度で進行している。
茨木が斎宮の禁忌に触れたこと、そして清良が囚われたこと。すべての情報が、波動を通じて九尾の元に流れ込んできた。
斎宮朔夜が「穢れ喰らいの儀」を本格的に始めたのだと、九尾は直感した。
「あの愚かな当主は……」
宗源が儀式を止めようと動いたことも、九尾は知覚していた。だが、朔夜の力は、もはや宗源の及ぶところではないだろう。
斎宮の血が持つ、穢れを喰らうという禁断の力は、一歩間違えれば、都そのものを破滅に導く。
九尾は自分が動けないのが悔しい。
しかし、九尾ノ峰を守る神として、九尾にも意地がある。
都を統べていた神は人間の諸行に呆れ、匙を投げてしまった。
向こうでは信仰も薄れ、去ってしまった神の後釜に収まったのが斎宮である。
そして斎宮の現当主たる朔夜は恐れ多いことに、自分自身が都を統べる神になろうとしている。
なんとも哀れで愚かな当主であろう。
茨木とは本当に血がつながっているのかと怪しむレベルであるが、やはり育ちが影響しているのだろう。
そう考えると朔夜も可哀想な男だ。
茨木、どうか都をお前の手で守るのだぞ。
九尾は隣で眠る哀羅を強く抱き寄せるのだった。