十数分か、数十分か……それくらいの時間が流れた時、剣鬼が微かに動いた。
首を持ち上げてドアの方へと視線を向ける。
「……何か、話している。シェフが」
ぽつりともたらされた剣鬼の言葉に、ぼやっとしていた意識がはっきりしてくる。
そして、ドアの向こうの声が耳に飛び込んでくる。
「……宝石?」
おそらく、クランボーン家の自慢話でもしているのだろう。世界の30%に及ぶ宝石を牛耳っているとか、そのような内容の、くだらない話を。
『……で、それの何がすごいんですか?』
意識をドアの向こうへ向けた時、タマちゃんのそんな声が聞こえた。
そして。
『あのですね。先程から度々、キッカさんを見下すような言動が見られましたので、一体どれくらいすごい方たちなのかなぁ~と思ったのですが……大したことないですよね、みなさん』
言い切った。
海洋都市ゼザルでは誰も逆らうことが出来ないマダム・クランボーンを前に、「大したことない」って……とんだ豪儀。いや、タマちゃんの場合は違うか。
まったくもう。タマちゃん、天然も程々に……
その瞬間、空気が変わった――
「――っ!?」
「え……っ!?」
思わず顔を見合わせる。
剣鬼も感じたらしい。
【歩くトラットリア】を包む空気が一瞬で変わった。ぴりぴりと肌を刺すような張り詰めた空気に。
ドラゴンの巣穴の前に立たされているような恐怖にも似た焦燥感。
息が……苦しい。
『さぁ……「お座りください」』
タマちゃんの声が聞こえた時、巨人に頭を掴まれ押さえつけられたかのような錯覚に襲われた。不気味な気配が体の中を通り過ぎていった。
これも……【歩くトラットリア】の力……なの?
『まずお聞きしたいんですが、冒険者のどこが野蛮で薄汚いのでしょうか?』
その声は、確実に怒っていた。
タマちゃんにしては珍しく……ううん、たぶん初めて聞くくらいに、静かな怒りが込められた声だった。
自然と、剣鬼と視線が合う。
あの養母は冒険者を「くだらない職業」と言った。「無様で、薄汚れて、狂気的」だと。
タマちゃんは、それに怒ったのだ。
剣鬼を含む、冒険者を侮辱されたことを。
剣鬼のこととなると見境のなくなるタマちゃんらしい理由だ。
愛されている剣鬼が、少し羨ましいと思った。
視線を外してやる。
どうせこの鈍感幼女頭の剣鬼は、タマちゃんが怒っている理由にも気が付いていないのだろう。
タマちゃんの中で、自分がどれほど大きな存在であるかを、自覚すらしていないのであろう。
のんきな顔をさらしてるのがその証拠だ。
ホントに……のんきなんだから。
そんなことを考えていると、ほんの少しだけ心が軽くなってきた。
土砂降りの雨の中で、雨宿りが出来そうな大きな樹を見つけた――くらいの、ささやかな安心感だけど。
『あなたは、キッカを庇おうとしているようだけど、そのキッカだって同じなのよ』
けれど、大雨はやがて嵐となる。
血液が逆流しているような錯覚に陥る。
養母が……あいつが、あたしを嘲笑っている。声を出して『アノ時』のことを嗤っている。
あたしが、命の代金として誇りを叩き売ったアノ時のことを。
魔獣の毒を食らい、薬も買えず、放置すれば三日と持たずに命を落とすという極限の状態で、あたしは誇りを売って薬のお金を手に入れた。
その日から、あたしはあいつに頭が上がらなくなった。あの瞬間から、あたしとあいつの関係を表す言葉は「服従」になった。
自分が人間ではなくなったのではないかという恐怖心を植えつけられた――そんな気分だった。
『キッカさんが借りたというお金は、ボクが立て替えましょう』
『あら? あなたに出来るの? 相当な額よ?』
『大丈夫でしょう。今回のお会計から差し引かせてもらいますので』
そんな会話の後、あいつが驚愕の声を上げる。
『なっ!? こ、こんなお金、法外だわ! ぼったくりよ!』
それから、タマちゃんの怒り混じりの穏やかな声は、あいつたちを容赦なく追い詰めていく。
『命の値段』。それを、自ら貶めろと。
それは、あのプライドと見栄で着飾った連中にはきつい言葉だっただろう。
タマちゃんって、結構えげつない性格してるのね。
怒らせると後が怖そうだ。以後気を付けよう。
といっても、タマちゃんが怒る理由なんて剣鬼絡みのことしかないだろうけど……
『キッカさんなら、お店がなくても難なく食料を手に入れられるでしょうね』
……え?
『お金、キッカさんより役に立たないじゃないですか』
あれ……なんだろう。
気のせいかな…………
あたしのために、怒って…………る、みたい、な?
まさか、……ね。