ないない。
ないよ、あたし。
目の前に、こんなにも愛されているヤツがいるのに、とんでもない勘違いをしたものだ。
さすがに自意識が強過ぎる自分の思考に苦笑が漏れる。
顔を上げると……
「……どう、したの? 剣鬼」
剣鬼があたしをじっと見つめていた。
見つめているのに……心がぽっかりと抜け落ちたような、空っぽの瞳をしていた。
「キッカ……」
一瞬、剣鬼の瞳が揺らぐ。色を失い、ただただ深い闇のような色を帯びていく。
剣鬼の赤い瞳が、血の色をしているように見えた。
「……生き物を殺すのは、神経がどうにかなっている証拠……なのだろうか?」
それは、姉エレーネが言った言葉だった。
そんな言葉が、ずっと剣鬼の中で反芻していたのだろうか。
ドアの向こうで何度も『野蛮だ』とか『薄汚れた』とか言われたから、気になってしまったのだろうか。
どちらにせよ。
「バカじゃないの」
あんなヤツのそんな言葉を、あんたが真に受ける必要はない。
あれは、あたしに向けられた悪意なのだから。
「そんなわけないでしょ」
あんたはあんた。何もおかしなことはしていない。
そんな言葉を言ってやろうとした時――
『もし人間が美味しければ、食べますか?』
――とんでもない言葉が聞こえてきてぎょっとした。
タマちゃん……何言ってんの?
え? タコ? 三歳児以上の知能……持ってるの?
え? タコが? タコ、すごいな。
いや、そんなことよりも……
『ということは、三歳児までなら食べられそうですね。知能、低いですから』
とんでもない言葉が飛び出してくる。
顔の血液がサッと引いていく。
『け、けど……人間を殺すなんて……非人道的だわ』
『我が子が雨の中土下座している様を嘲笑う行為も、十分非人道的だと思いますが?』
直後に、血液が逆流した。
顔が一瞬で熱せられる。
訳も分からず胸が締めつけられる。
なに? なによ、もう……
タマちゃんがあたしを庇うようなことを言う度に、あたしの胸は締めつけられる。
けれど、それはあいつらを見た時の苦しみや惨めさからくるものではなくて……
あいつが発した、『わっ、わたくしの娘ではないもの! あいつは、あの卑しい女の血を引いた他人よ!』なんて最低な発言がどうでもよく思えてしまうくらいの破壊力を持った、温かい感覚。
はぁ? バカじゃないの?
何考えてんの、あたし?
ないない。
あるわけないじゃん。
タマちゃんだよ?
ないって。
タマちゃんが好きなのは剣鬼で、それは誰が見ても明らかで……あたしのために怒ってくれるなんてこと……相手はクランボーン家だよ? 世界でも有数の貴族で、宝石の支配者とまで言われる力を持っていて、逆らえば人生が簡単に終了させられちゃうようなおっかない一族で……そんなの相手に、タマちゃんが怒る理由なんて、そんな無謀なことする理由なんて、剣鬼以外にあり得ないし……
「……シェフ」
剣鬼の言葉に、浮かれた感情が微かに凪いで、ドアの向こうの声が聞こえてくる。
『タコもイカもアサリも牛も豚も鳥も……みんな生きているんです。その命を奪ってボクたちは生きながらえているんです。その事実から目を背け、感謝の気持ちすら持たないあなた方こそどうかしています。命を奪わなければ生きていけない。だからこそ敬意を表する。命の重さを決して忘れない。それが、他の生き物の命を奪うモノたちの義務です』
耳に届いた言葉は、なんともタマちゃんらしい考え方で――
『生き物の命を無視して『食べ物』なんて言葉で誤魔化すような、そんな無責任さに逃げるような人間に、覚悟をもって生き物を殺す人間を非難する権利などありません。あなた方の中の誰一人として、冒険者のことを、キッカさんのことを非難する資格も、バカにする権利もありません』
――たまらなく、心が掻き乱される。
『キッカさんが土下座をした時、あなたは「勝った」と思ったんじゃないですか?』
鼓動が高鳴る。
『真逆ですよ。キッカさんは、その一時の苦痛を乗り越えて生きながらえた。そして、自分の価値を自分の手で上げた。今も尚、彼女の価値は上がり続けています。お金などという、誰でも手に出来るような、誰かが勝手に操って価値を上下出来てしまうようなまがい物ではなく、何ものにも侵せない、キッカさん自身の、彼女にしか持ち得ない尊い価値を、彼女は持っている』
もう……やめて。
お願いだから、もう……
『ボクは、キッカさんを尊敬しています。誇りに思います』
やめてってば……
そんなこと言われたら……
『彼女の誇りを傷付けるような行為はボクが許しません』
泣いちゃうじゃない。