――ぽっかりと目が覚めた。
どこだ、ここ?
辺りは薄暗く、天井からはキラキラ光る赤い紙テープのような物が何本も下がっている。
私はどうやらベッドに横たわっているようで、身体は柔らかな布に包まれていて暖かだ。薬草のような匂いが鼻先に漂ってくる。
起き上がろうとして思わず、いだだっ! とかすれ声が出た。
首から背中から、体中が痛んで全く動けない。加えて喉がカラカラに渇いている。
なんでこんな状態に、と考えてから思い出した。そうだ、黒ウサギにナップザックを盗られて体を打って動けなくなって王子に抱えられて追っかけて……金色派手妖精に怒鳴ったあたりから、記憶が曖昧だ。
ナップザックは取り返せたんだろうか? 確認しようにも動けないし、周囲に人の気配は無い。
誰か呼ぼうとした時、戸が開く音がして、足音が近づいてきた。
「お目覚めですか。ようございました。ご気分はいかがですか?」
穏やかな声と共に、黒髪をぴっちり七三分けにして蝶ネクタイを締め、上着をきっちり着込んだ男性が覗き込んできた。案内処の案内人のようにビリケンさんに似ているけど、もっと髪も肌もつやつやしていて赤い唇が生々しい。
「体中が、痛みます。ここは、どこですか」
かすれた声しか出ず上手く喋れないけど、男性はにっこりと笑った……でもなんだか胡散臭い。
「ここは
「それは、どうも、あの」
「お荷物は無事ですよ。隣室に保管してますのでご安心を。着用していた衣服はそこの籠の中に。すぐに医者が来ますから。では」
男性はそう言うと、部屋を出て行った。
え? ウサギが医者? 両耳の間に、白い小さな帽子のような物をちょこんと乗せている。可愛い。
「おお、しっかり目が覚めましたな。黒ウサギに突き飛ばされた時の衝撃と、打撲の痛みで貧血を起こし丸一日意識が無かったのですよ。さあこの
いかにも医者らしい態度に安心したけど、痛みをこらえて呻きながら上半身を起こした私に差し出された、大きなカップの薬湯には一瞬怯む。料理はともかく薬は……いいや、このダンジョンではウサギを信用するしかないと腹を括る。薬草茶は何度も飲んでるし。
そして……頑張って飲み干した薬湯は、猛烈に苦くて不味かった……毒といい勝負じゃないのか、これ。
涙目で良く見ると、ウサギは白いエプロンを身に着けている。白衣みたいなものかな。
「幸い骨折はしていません。意識が無い間に、打撲箇所に薬草湿布をしておきました。後で交換に来ます。食事の手配もしてますので。私の許可が出るまで安静にしていてください。いいですね」
私を再度横にして、布団にくるんでから医者ウサギは退室していった。
自分の身体を良く見ると、下着だけになっていて、体中のあちこちに包帯が巻かれている。妙な匂いはこれか。効きそうだけど。
治療は有難いけど、とんでもない目に遭ったなあと溜息が出た。
病気や怪我には十分注意していたのに、まさかウサギに突き飛ばされて怪我をするとは。
動けるようになったら、一旦ダンジョンの外に出た方がいいのかなあと、ぼんやり考えているうちに、薬が効いたのか痛みが少なくなってきた。へえウサギの薬も凄いな、と指を動かしたりしていると、どこかで話し声がして、今日は眼鏡をかけている
「よお、具合はどうだ? 災難だったなあ」
「痛みは少しマシになってきました。でもまさか、ウサギに荷物を引ったくられるとは、思いもしませんでしたよ」
「確かにな。ちょっと童話みたいな話だが、黒ウサギ連中は司書のウサギ連中と何かと対立していてな。悪さをしてちょっかいを出しては、揉めてるんだよ。ただ今回みたいに大人数での派手な悪事は、俺も初めて聞いたよ」
そういえばあの時、ウサギたちも集団で追いかけていたな。
鱗氏が急ににやにやとした表情になった。
「実はな、店番のエルフがずっとその辺をウロウロしてるんだよ。意識が戻ったと聞いたら安心するだろうなあ」
なんですか、その妙な笑顔は。
「王子のおかげで荷物を取り返せましたと、お礼を伝えておいてください」
「お礼ねえ。わかった……そういや、しばらくここで安静だろう? 退屈だろうから間宮さんの蔵書から本を借り出して届けてやるよ。どんなのが好みだ?」
「わ、助かります。えーとミステリ小説が好きなんですが、祖父の蔵書にありますかね? 名探偵が活躍するようなのがいいです」
「任せろ任せろ。どっさりあるぞ。じゃあウサギに話しておくよ」
そうだ、どうしても気になる事がある。
「あの鱗さん、なんで吉宝雑貨屋の店長が、私の面倒を見てくれてるんですか?」
「ああ、今回の騒動の悪役にされないように用心してるのさ。血縁者であるあんたが黒ウサギの悪事で怪我をしたもんだから、ウサギたちが激怒して
やっぱり胡散臭い人なのか……鱗氏を見送ってから、天井の光る赤い紙テープを眺める。でも動けない今はどうしようもない。ともかく焦らず怪我を治す事だけを考えよう……。
ちょっと退屈だな、それより水で顔を洗ったりしたいなー。と思っていると、店長がやって来た。手に何かを持っている。
「医者より薬が効いてきたようだと聞きましたので、怪我人向けの楽な寝間着をお持ちしました。もちろん新品ですのでご安心を」
驚いた。でも気を利かせてくれて助かる。
「ありがとうございます、あの、後で代金はお支払いしますから」
「そんな心配は無用ですよ。気にせずゆっくり治してくださいね」
渡された寝間着は、真っ白で手触りがいい物だった。シルクじゃないのかな、これ。普段はシャツと下着ぐらいで、ちゃんとした寝間着など着た事が無いけど。
しばらくしてやって来た医者ウサギが私の湿布を手際よく交換し、手伝ってもらって寝間着を着る。頼み込んで許しを貰い、「いだだだだ」と呻きつつ何とか歩いて、部屋に付いている洗面所を使ってさっぱりできた。
この部屋は客室なのかな。割と豪勢な雰囲気がある。
またベッドに戻ると、すぐ横の床の上にナップザックが置いてある。店長が持ってきてくれたのだろう。つくづく気が利く。
愛用の大きなタオルを取り出し、ついでに『お魚たちの朗読会』のプリントアウト資料も手にする。面白くは無い小説だけど、暇つぶしにはなるだろう。まだダンジョンに入ってから一週間ぐらいなのに、何だか口うるさい久満老人も懐かしいぞ。
店長が運んできてくれた薬草粥ぽい食事を食べ終わり、ぼんやりしていると、聞き覚えのある声がして、エルフ王子が妙にゆっくりゆっくり歩いて部屋に入ってきた。
「ああ、王子。来てくれたんですか」
あれ、と思った。前までは長い銀髪をそのまま垂らしていたのに、今は後ろで一つにまとめている。美形なのでこの髪形ももちろん似合うけど。珍しくウクレレも抱えていない。
「うむ。そばに近寄ってもいいであろうか?」
「もちろんですよ。椅子が無いみたいなので、ここに適当に座ってください」
私が布団の上を指差すと、王子が目を見開いた。
「とんでもない! 女性が横たわっている寝台に腰掛けるなど破廉恥な事が出来るか。椅子を借りてくる」
破廉恥って。別に気にしなくていいのに。やはりこの辺は育ちがいいという感じだ。やがて部屋の外から椅子を持ってきて、ようやく座って落ち着くと、私の顔を覗き込んできた。
「怪我の具合はどうなのだ? 顔が真っ青になって意識が無くなったので、肝を冷やしたぞ。ここまでナツキを運んでからは、ウサギの医者に部屋から追い出されるし」
「王子が運んでくれたんですか。ありがとうございます、湿布と薬湯が効いてだいぶ楽になりましたよ。まだロクに動けないですが」
王子は安堵したように息を吐いた。
「良かった。医者に言われたが、黒ウサギを追いかける時にナツキにかなり負担をかけたようで、申し訳なかった」
「そんな。怪我は黒ウサギのせいですし、王子が追いかけて追い詰めてくれたから、荷物も取り返せたんですよ。けど、王子の力と走る速さにはびっくりしました」
王子は首をかしげた。
「そうか? あれぐらいは普通だ。幼い時から毎日のように海辺を走ったり、海岸の崖を登ったりしていたので、真っ直ぐの通路を走るのはどうという事は無い。それにナツキは軽いしな。母上や姉上などはもっと凄いぞ。武装して武器を構えた姿で風のように移動するからな」
武装って、普段何をしている母娘なんだろう。
王子は自分の事より、私の手首や首元の包帯が気になるようだ。
「私の妹のシルヴァリーナは、癒しの技が得意だ。彼女ならナツキの怪我の痛みをもっと楽に出来るだろうな。私にその技が無いのが残念だ」
「へえ、癒しの技ですか……そういえば、私が盗られた荷物の事を考えたら黒ウサギを追えると言ってましたが、あれは王子の何かの技なんですか?」
王子はしばらく考えてうなずいた。
「そうだな、私は……探索の技といえばいいのだろうか。何か物や人を探そうと思うと、どの方角にあるのか、距離はどれぐらいか、何かが繋がったような感触がしてわかるのだ。色々な場合があって、一定ではないのだが。あの時は、急な出来事で咄嗟だったが、黒ウサギにナツキの一部を持ち去られたような感覚があった。それでナツキを抱えて考えてもらったのだが……うーん、どうにもこちらの言葉では上手く言い表せないな」
「なるほど、感覚的な技なんですね」
王子は音楽の才能もあるようだし、非常に繊細な神経の持ち主なのかもしれない。でも探索とは意外な能力だな。
私は横に置いてあった、『お魚たちの朗読会』の資料を取り上げた。
「実は私は、この本を探せと知り合いの老人に言われているんですよ。今度鱗さんにも相談しようとは思っていますけど、手掛かりはこの印刷した紙しか無いんです。ウサギにも言われましたけど、絶望的ですね。ただでさえ、このダンジョンには膨大な量の本があるし……」
「本を探す? なぜナツキが老人の本を探す必要があるのだ?」
怪訝な表情の王子に、簡単に事情を説明する。興味深そうに聞いていた王子は、じっと『お魚たちの朗読会』の、鮮やかな青色を背景に踊る魚のイラストを眺めた。
このイラストを描いたのは作者の妻で、結構有名な画家だったらしい。
「ナツキはこの紙の上に刷られた青い本を知らないが、ナツキの祖父は手元で大切にしていたのだな?」
「ええ、まあ。その筈ですね。何せかなり無理を言って借りたそうですから」
「そして、この本はここまでナツキの祖父と共に落ちてきた……」
そう呟いた王子が、不思議な事をし始めた。
指で、紙の上の『お魚たちの朗読会』の踊る魚のイラストを撫でたり、トントンと叩いたりしながら、何かに耳を澄ませるように目を閉じて、また開いた。
そして眉間にしわを寄せた、少し難しい表情で私に言った。
「この青い本は、このダンジョンの深い深い所にある。どれぐらい深いかは今はわからない。だがあるのは確かだ。傷つく事も無く、そのままの姿で今も存在している」