道の途中、遙はふと異様な気配を感じた。
誰かに尾けられている──そんな直感が脳裏をよぎる。
彼女は平静を装い、か弱い娘のように振る舞い続けた。だが、背後から刺すような殺気が迫る。体が無意識に強張る。次の瞬間、後頭部めがけて投げナイフが飛んできたのをはっきりと察知した。
一瞬のうちに、右手側から紫檀の肘掛けが飛んできて、彼女の背中すれすれをかすめると、「カン」と金属音を立てて凶器をはじき落とし、左側の砂利の庭に転がった。
振り返ると、後ろから駆けてきた秋田犬と狼の血を引く犬が、肘掛けをくわえて竹林へと走り去っていく。鋭い眼光で、犬の通った先には黒い影がちらつく。
考えを巡らせる間もなく、佐藤執事が前に進み出て頭を下げた。
「お嬢様、ご心配をおかけしました。先ほど『天誅』の訓練中でして、あなたが近くにおられるとは存じませんでした。不注意でした。」
「『天誅』? あの犬の名前ですか?」
「はい、そうです。」
佐藤は表情を崩さぬまま、内心驚いていた。普通なら猛犬に遭えば悲鳴を上げて逃げるものだが、遙は落ち着き払っている。やはり家主の血を引くだけのことはある。
「なかなか野趣がありますね。」
執事の動きも、ただの面白さでは済まされないものがあった。
その時、遠くから男の悲鳴が微かに聞こえてきた。
「佐藤さん、今の声は?」遙は首を傾げる。
佐藤はさりげなくその視線を遮って、「組員たちが天誅と訓練しているだけです。」と答えつつ、こんな小さな声まで気づくとは、と内心驚く。
「私も見に行ってもいいですか?」
「また今度にしましょう。知世様がお呼びです。」
遙は口元を覆い、少し驚いたように言った。「さっきは広間にいなかったはずなのに、どうしてそれをご存知なの?」
佐藤は一瞬喉を鳴らし、「家の者から聞きました。」
「では、ご一緒いただけますか?」
「申し訳ありませんが、犬の訓練が残っておりますので……」
遙は軽くうなずいて去っていった。佐藤はその背中をじっと見送り、目つきを鋭くして、竹林の方へと足早に向かった。
少し歩くと、知世と鉢合わせた。彼女の手は空っぽだ。
「知世、叔父様がくれると言っていた贈り物は? まさかあなたが隠したんじゃないでしょうね?」遙は少し寂しげな目で尋ねる。
知世は袖を払って冷たく笑った。「私がそんなものに興味を持つと思う?」
「じゃあ、贈り物はどこ?」
「おじさまが勘違いだったって!」知世は遙の手を払いのけ、「無駄足だったわね!」と吐き捨てた。あの老人め、本当は何か企んでいるに違いない。
「本当に残念ね。」遙は手を揉みながら微笑んだ。
「さっさと部屋に戻りなさい。うろつくのはおやめなさい。」知世はこれから後始末に向かうつもりだ。
「家の中を歩くのもダメなの?」
「最近、屋敷の害虫駆除をしているの。蛇や鼠がまだ残っているし、あなたも戻ってきたなら、いろいろと掃除が必要ね。」知世は意味ありげに言った。
遙はおとなしくうなずいた。「分かりました。」
佐藤はまだ部屋の前に立っていた。
「ずっとここにいたの?」
「はい、お嬢様のお帰りをお待ちしておりました。」
いつも外にいる佐藤が、どうしてそんなに情報を持っているのだろう?
「もういいわ。下がって。」
遙は部屋に入り、桐の箱を細かく調べた。開閉の跡があったが、中には御木本のパールブレスレットが一つ、他に異常は見当たらなかった。
きっと何かあったのを片付けたのだろう。藤原家の人間は、やることが本当に抜かりない。
遙はブレスレットを身に着けて微笑む──高価なものはいくつあっても困らない。
・・・
黒塗りの車内、柏山は無表情で座っていた。
別邸では組員たちがひざまずき、失敗を詫びている。三つの策はすべて失敗し、逆に弱みを握られる結果となった。
和室の書斎で、柏山はシガーケースを手にしていた。外では常に上品な紳士だが、この部屋にいるときだけは本性を見せる。今、灰皿には煙草の火が静かに消えつつあった。
「余計なことをしてしまったな。」ふいに呟く。
部屋は静まり返る。
「知世のあの小賢しさ、なかなかやるじゃないか。」
本当は今すぐにでも始末したいほどだ。かつて彼女は清楚な百合のような顔で藤原家に入り込み、三年かけて信頼を勝ち取り、十年の計画が形になろうとしたその時、逆に出し抜かれた。
老獪な自分が、まさか見誤るとは。
健介夫妻は、本当に優れた子供たちを育てたものだ。
「全員、立て。」柏山は冷たい声で命じる。「策を出せ。」
誰かがおそるおそる尋ねる。「遙様だけを狙いますか? それとも知世様も……?」
「まとめて始末しろ。」柏山は吸い殻を押しつぶした。「どちらか一人は必ず潰れる。あの二人の仲の悪さなら、離間など簡単だ。特に遙は、知世ほど狡猾でもない。」