戸の向こうから聞こえたのは、優しくて高い声だった。
けれど、それは明らかに母山羊の声とは違っていて、昨日の狼の低く濁った声でもない。
どこか作られたような声だった。
小屋の中にいた全員の身体に、緊張が走る。
空気が、びりびりと揺れるようだった。
幸人が、小声で呟く。
ゆきと「……確認してくる」
息を殺すようにして立ち上がり、足音を立てずに戸の前へ向かう。
戸の隙間から、そっと外を覗く。
視線の先には──昨日と同じ、異様な“それ”がいた。
ゆきと(……やっぱり……)
ゆきと「…狼だ。」
昨日、扉越しに覗いたときの影と同じ
毛並みは濃い黒、目は爛々と光り、口元には笑みのようなものが張り付いていた。
だが、何もしてこない。立っているだけで、動かない。
幸人はゆっくりと戸の前から戻り、皆に向き直った。
ゆきと「……いる。昨日の狼だ。……道後、神威、すぐ動けるようにしてくれ」
どうご「おう、任せろ」
道後は片腕を軽く回しながら頷く。
神威「…………」
神威も無言のまま頷き、立ち上がった。
目にはいつも以上の鋭さと静かな気迫が宿っている。
再び、戸の向こうからあの声が聞こえる。
狼「──おかあさんだよ。戸を開けておくれ」
優しい声。その声に対して──
ゆきと「…あぁ、開けてやるよ」
幸人は静かに鍵に手を伸ばすと、戸の鍵を外し、音を立てずに押し開けた。
その瞬間、道後が右手を前に出した。
どうご(守れ、《守護輪廻(ガーディアンリレー)》──!)
道後の声とともに、幸人と神威の身体に淡い光の防壁が瞬時に展開された。
神威は一歩前に出ると、両足を開いて構える。全身から静かに湧き上がる覇気に、空気がわずかに震えた。
開かれた戸の先、逆光でシルエットしか見えなかった狼の姿が、やがて陽光の中に浮かび上がる。
想像していたよりも──大きい。
獣とは思えぬほど整った四肢、鋭利すぎる爪、そして目の奥に宿る“人のような知性”。
まるで化け物と、人間の境目が曖昧になったような存在だった。
小屋の真ん中にいた子ヤギたちは、その姿を見て一斉に道後の背後に逃げ込んだ。
小さな体を震わせ、ぴたりと彼の足元に身を寄せる。
どうご「大丈夫だ。……何があっても守ってやる」
その言葉は、咄嗟に出たものではなかった。
自分でも驚くほど自然と口をついて出た言葉だった。
どうご「おめえらのパパは世界一つえぇんだ。だから安心してそこで見てな……!」
顔を真っ赤にしてそう言いながら、道後は狼と向き合った。
子ヤギたちはその背中を見上げて──安心したように息を吐いた。
子ヤギ(桃色)「……パパ、かっこいい……!」
子ヤギ(黄色)「お、おまえなんか、こわくないぞ!」
子ヤギ(水色)「かえれ!バケモノー!」
どうご「おいっ!?バカっ!やめろっ!!」
道後が振り向いて止めようとするが、子ヤギたちの叫びは止まらない。
おとは「ちょ、ちょっと!ダメ!危ないからっ!」
りこ「落ち着いて!子ヤギちゃんたちっ!」
必死に止めようとする二人をよそに、子ヤギたちは道後の背後から顔を覗かせ、狼を睨みつけながら言葉を放ち続けた。
子ヤギ(水色)「おまえなんかだいっきらいだ!こわくなんかないぞ!」
れいは、言葉を発せず、その場に立ち尽くしていた。
れい(……襲ってこないのか……?)
するとすぐ、れいは何かに気づいた。
れい(…な、なんで……)
戸の向こうの狼は、動かず、ただ立っていた。
威圧感は確かにある。だが、牙を剥くわけでもない。ただ、笑っているような口元のまま、動かない。
ゆきと(……なぜ……なにもしない……?)
誰もが動揺していた。
その時だった。
狼の口が、ゆっくりと開いた。
狼「──ただいま」
にやりと笑ったその瞬間。
小屋の奥の古時計の方で──カタンッ、と、小さく乾いた音が鳴った。
それに気づいたのは神威だけだった。
神威「……!」
神威の視線が、一瞬、音のした方へ向かう。
それは──古時計の下。ほんのわずかな隙間から、白く小さな顔がのぞいていた。
赤ちゃんだ。小さな瞳がじっと戸の方を見つめていた。
狼が、再び一歩、足を踏み出した。
神威「……待て」
神威の声が、低く響く。
神威「それ以上は…前に進むな。進むというのなら──斬る」
沈黙が落ちる。
神威「…死にたくなければ、そのまま帰れ」
狼の動きが止まった。
張りつめた静寂。その中で、再び声を上げたのは──子ヤギたちだった。
子ヤギ(水色)「くるな!バケモノ!」
子ヤギ(黄色)「おまえなんかきらいだ!」
子ヤギ(桃色)「帰れ!帰れ!」
どうご「…だからやめろってお前らっ!!」
りこ「やめて!お願いだから!」
おとは「ほんとに危険ですわ!」
止めようと叫ぶ道後や莉子たちの声も届かない。
しかし──狼は不思議な動きを見せた。
ゆっくりと体を回し、背を向けると、
狼「……また、きます」
その言葉を残し、森の奥へと消えていった。
れい(………)
* * *
狼の姿が見えなくなった瞬間、張り詰めていた空気が切れたように、
莉子は膝から崩れ落ちた。
りこ「っ、はぁ……っ……」
音羽も腰を落とし、息を整える。
おとは「……無事で……よかったですわ……」
幸人は無言のまま戸を閉じ、鍵を静かにかけた。
小屋の中に再び、静けさが戻ってきた。
どうご「……おい。お前らなぁ……」
道後が、後ろにいた子ヤギたちを睨んだ。子ヤギたちはシュンとして、下を向いた。
子ヤギ(桃色)「……ごめんなさい……」
泣きそうな顔を見て、道後はふぅっと息をついた。
そして──子ヤギの頭に手を置き、ぽんと撫でた。
どうご「…まぁ…でも、かっこよかったぞ」
子ヤギたち「へへ……!」
すぐに笑いながら足にすり寄ってくる子ヤギたち。道後は顔をしかめながらも、どこか嬉しそうだった。
どうご「……ほんとにわかってんだろうな!?もう二度とすんなよ!」
その声すらも、いつもの見慣れた日常のように響いた。
神威は無言で古時計の方へと歩いていくと、そっと昼食の木の実をその隙間の近くに置いた。
かむい「……お腹、空いているだろう。しっかり……お食べ」
そう小声で呟くと、彼は誰にも気づかれないように戻っていった。
れいは、ずっと戸の方を見つめていた。
れい(…やっぱり…いや、でもまだ…)
言葉にならない感覚が、心の奥底でざわついている。
りこ「……で、なんかわかったの?」
莉子の問いに、幸人はじっと考え込んでいたが──口を開くことはなかった。
その時──
──トントン。
再び、戸がノックされる。
???「おかあさんですよ。戸を開けておくれ」
聞き慣れた……優しい声だった。