──トントン。
戸を叩く音に、小屋の空気が一変する。
続いて聞こえてきたのは、優しい、穏やかな声。
???「おかあさんですよ。戸を開けておくれ」
子ヤギたちはぴくりと反応し、れいは息を呑んだ。
幸人が静かに立ち上がる。警戒心がその瞳に宿っていた。
ゆきと(…帰ってきたのか)
幸人はゆっくりと戸の方へ近づく。床板が軋まないように、足音ひとつ立てずに。
そして、わずかな戸の隙間から外を覗く。
そこにいたのは──確かに、母山羊だった。
そして、片手には水の入った木桶。
だが、それだけに──幸人は、逆に不安を覚える。
このタイミングの良さ。あの狼が現れた直後に、ちょうど戻ってくる母親。物語の筋書きとしてはごく当たり前の出来事、だがあまりに都合がよすぎる。
ゆきと(……この違和感……)
数秒の思考の末、彼は皆に向き直る。
ゆきと「……母山羊だ。戻ってきた」
その言葉を聞いた瞬間、子ヤギたちは「ほんと!?」「やった!」と歓声を上げながら戸の方へ走り出す。
りこ「あ、ちょっと待って──!」
莉子が慌てて子ヤギを止めて、子ヤギの前に駆け寄る。
幸人が「開けるぞ…」と
カチャリ、と小さな音がして──戸が開く。
子ヤギ(桃色)「おかあさーんっ!」
そこには、紛れもない母山羊が立っていた。頬を緩めて、優しく微笑んでいた。
母山羊「ただいま、みんな。お留守番、ありがとうね」
子ヤギたちは次々に母山羊に抱きついた。道後たちも思わず気を緩める。
莉子と音羽も、その姿を見て──ほっと息を吐いた。
母山羊は子ヤギたちに囲まれながら、小屋の中へと足を踏み入れた。
母山羊「みんな、喉が渇いたでしょう?井戸の水、冷たいわよ」
そう言って木桶を中央に置くと、子ヤギたちは「わーい!」と声を上げて一斉に群がった。
子ヤギ(桃色)「おかあさん!さっきね、狼が来たんだよ!」
子ヤギ(黄色)「でもね、こわくなかったよ!」
子ヤギ(水色)「ぼくたちがおいかえしたんだ!」
無邪気な声に、母山羊は目を丸くし──それから優しく微笑んだ。
母山羊「まあ……そうだったの。ありがとう。皆さんも守ってくれてありがとうございます」
母山羊は深く頭を下げた。
だが、子ヤギたちは「鍵を開けた」ことについては一言も触れなかった。無意識のうちに、あるいは叱られると感じて──黙っていたのかもしれない。
全員が水を飲み、残っている昼食の果物を口にしながら、ほっとしたように小屋の中は穏やかな空気に包まれた。
その中で、母山羊がふと顔を曇らせた。
母山羊「あの……少し、言いにくいのですが……」
全員の視線が集まる。
母山羊「前日から姿が見えない一番小さな赤ちゃんが、まだ帰ってこないんです。他の子ヤギたちも今日の朝……あんな事があって………」
少し言いにくそうに───。
母山羊か「みなさんが良ければなのですが…小屋の周辺を少し探してきてもよろしいでしょうか」
莉子と音羽は不安そうな母山羊の表情を見て
りこ「私たちも一緒にさがします!みんなで行けば安全ですし──」
りこ(……でも、きっと……)
莉子は首を大きく振った。
りこ(……ダメダメ!そんな事考えちゃ…!)
おとは「そうですわ。皆で探しましょう」
れい(………)
幸人も黙って母山羊を見ていた。
だが、母山羊は首を横に振った。
母山羊「いいえ……皆さんには、この子たちをお願いできませんか。やっと落ち着いたところですし……」
その言葉に莉子と音羽は戸惑った。
りこ「でも……お一人では危険じゃ──」
母山羊「大丈夫です。この周辺には慣れていますから。すぐ戻ります。夜のご飯の前までには」
そう言って、深く頭を下げた。
母山羊は子ヤギたちを優しく撫でてから、再び小屋を後にした。
戸が閉まり、莉子がカチャリと鍵をかける。
外からはもう、母山羊の足音すら聞こえない。
* * *
子ヤギ(黄色)「パパー!これから何して遊ぶ?」
どうご「遊ばねぇし、あとパパって呼ぶな!」
子ヤギ「え〜、さっき自分でもパパって言ってたくせに〜!ケチっ!」
そんなやりとりに、小屋の中に笑いが戻った。
幸人は一人、母山羊が小屋を出ていってから、周囲の様子を一瞥した後、まずは小屋の壁を丁寧に指先でなぞった。古びた木材の表面は乾いており、ところどころ節目が歪んでいる。構造としては単純な造り。
ゆきと(…違う)
幸人は、棚の裏、床下の板、そして窓際の隙間へと次々に目を向ける。
ゆきと(…違う、…違う。…ここも…)
物語に「完結」があり、物語が動いているならば、必ず何かしらの“兆し”があるはずだ。だがそれは表に現れるとは限らない。むしろ、見えないところにこそ本質は潜む。
ふと、小屋の奥にある一角に視線を向けた。
幸人は膝をつき、
ゆきと(……これは…いや…)
焦りが胸の内に滲む。
今はまだ──材料が足りない。
幸人は小屋の中を再び見渡しながら、静かに情報を刻み込んでいった。
莉子もまた一人、不安と焦りの様なものを感じていた。
りこ「……ねぇ、みんな。これって……どうすれば帰れるのかな」
沈黙。
どうご「……んなもん、狼を倒しゃいいんじゃねぇのか?」
おとは「そんな単純なもの……なのかしら」
神威は黙ったまま、古時計の方を見ていた。
莉子の目には、少しだけ不安が滲む。
りこ「……“完結”って、ほんとにできるのかな」
その言葉に、れいも黙り込んだ。
けれど──その時だった。
カタンっ!トコ、トコ、トコ……
小さな足音が、古時計のある方から響いてきた。
神威「……!」
誰よりも先に神威が反応した。
全員の視線が──そこに集まった。
現れたのは、小さな、小さな子ヤギ。
りこ「──えっ!? あ……赤ちゃん!?」
莉子が駆け寄ると、赤ちゃんはのんびりと水のある方へ歩いていく。
りこ「ねぇ!どこにいたの!?もう……食べられたのかと思って……!」
音羽も、れいも、道後も目を丸くして声が出ない。
そんな中、幸人が赤ちゃんの方へ歩いて、しゃがみ込み、静かに赤ちゃんに尋ねる。
ゆきと「なあ。他の子ヤギたちのこと、知らないか?」
赤ちゃんは、幸人をじっと見つめ──ゆっくりと、首を横に振った。
ゆきと「……そうか。ありがとう」
赤ちゃんはしばらく水を飲むと、トコトコと歩き出し──古時計の下の隙間に潜り込んでいった。
りこ「あんなとこに……隠れてたのね」
おとは「ふふ……あそこなら安全ですわね」
子ヤギ(桃色)「赤ちゃん、ひとりでかくれんぼしてるのかな」
子ヤギ(黄色)「パパ、赤ちゃんはね、おかあさんにずっとくっついて離れないんだよ」
どうご「知らねぇよ!パパって呼ぶな!」
再び笑いが戻る。
だが、幸人は静かに立ち上がると、古時計の方を見つめ──心の中で呟いた。
ゆきと(……そうか…。でも、まだ…足りない)
焦燥が、胸の奥でくすぶっていた。
* * *
そのとき──
ザッ、ザッ……と、外から足音が聞こえてきた。
???「おかあさんですよ。戸を開けておくれ」
声がした瞬間、全員の身体が凍りつく。
りこ「え……なんで…さっき……来たばかり、だよね……?」
おとは「……どうして、もう一度……?」
幸人がすぐさま戸の前へ向かい、隙間から外を見る。
そして──息を呑んだ。
その視線の先にいたのは、今度は──白い狼だった。
全身を白い毛に包まれた、不気味な美しさと狂気をまとう存在。
ゆきと「……狼だ」
呟くと同時に、道後に目をやる。
ゆきと「また、頼めるか」
どうご「ああ。いつでもいいぜ」
道後が構える。幸人は神威に視線を送ると、神威も立ち上がり、構える。道後が黙ったまま右手を前に出し、《守護輪廻(ガーディアン・リレー)》の力を発動し、静かに戸の鍵を外した。
戸が──開く。
そこに立っていたのは、笑みを浮かべた白い狼だった。
りこ「な……なによ、その姿……!」
どうご「……おい!何匹いんだよ!」
ゆきと「……道後。よく見ろ、毛の色が変わっても、“あの狼”だ」
そして──狼は、にやりと笑って言った。
狼「──ただいま」