白い毛の狼は、戸の前で一言「ただいま」とだけ言い、にやりと口角を吊り上げる。
その仕草は、妙にぞっとするほど異質だった。
小屋の空気が、張り詰めた糸のように緊迫する。
その中で、静かに一人、幸人が口を開いた。
ゆきと「……お前の目的は、なんだ…」
声は低く、そして冷静だった。
狼は、幸人の方に視線を向けるが、その問いには何の反応も示さなかった。
ただじっと戸の向こうから小屋の中を見渡し、変わらず微笑み続けている。動かない。語らない。ただ、「存在」している──それだけなのに、異常な圧を放っていた。
神威も、構えたその手を動かさぬまま、気を抜くことなく狼を睨みつけていた。
そんな中、子ヤギ達が震えながら、声をあげた。
子ヤギ(水色)「お、お前なんか……おかあさんじゃない!」
続いて、黄色の子ヤギが泣きそうな顔で叫ぶ。
子ヤギ(黄色)「そ、そうだ!バケモノ!かえれ!」
その言葉に、道後と莉子がすぐに反応する。
どうご「だめだって!黙ってろ!」
りこ「危ないから、静かにしてて……!」
さっきまでとは違い、道後と莉子の焦りを感じ取ったのか、子ヤギたちはぴたりと口を閉ざした。だが、その瞳には怯えと怒りが宿っていた。小さな身体を震わせながらも、真っ直ぐに狼を睨んでいる。
莉子が狼に目を戻すと、さっきまで浮かべていた「作り笑い」のような表情は、微かに強ばっていった。
全員が息を詰める中、静寂を破る音がした。
──カタンッ。
それは、小屋の奥。古時計の方から響いた、小さな音だった。
かむい「……!」
神威が、真っ先に反応する。
振り向いた皆の視線の先に──ちょこんと姿を現したのは、赤ちゃんだった。
古時計の下の隙間から、のそのそと這い出た赤ちゃんは、のほほんとした表情のまま、トコトコと歩き出した。
りこ「赤ちゃん!?そっちはだめっ!」
おとは「戻ってきてくださいっ!」
莉子と音羽が叫ぶ。
だが赤ちゃんは、ちらりと莉子の方に顔を向けたきり、ぷいっとそっぽを向いて──再び、戸の方へと歩き出した。
狼はその様子を黙って見ていた。微笑みは消え、今はまるで、獲物が罠にかかるのを今か今かと待っているかのように見えた。
そして、狼はすっと腰を落とし、一歩、前に出た。
まるで時間が、ほんの一瞬止まったかのようだった。
赤ちゃんが戸の前まで近づいていく。狼との距離は、あとほんの数十センチ。
道後はすぐに飛び出そうとしたが──
どうご(……クソッ!…俺が動いたら、後ろの子ヤギたちが危ねぇ。…かと言って《守護輪廻(ガーディアン・リレー)》をこれ以上分散もできねぇ…幸人と神威すら守れなくなる…)
歯を噛みしめ、声を張り上げた。
どうご「おいっ! あぶねぇぞ、戻れ!」
けれど赤ちゃんは、まるで何も聞こえていないように歩き続ける。
緊張が、頂点に達しようとしたそのとき──
おとは「……っ!」
音羽が走った。
そして──ぎりぎりの距離で、赤ちゃんを後ろから抱きしめるようにして止めた。
赤ちゃんはきょとんとしたまま、音羽の腕の中で、もぞもぞと動いている。
神威も狼に向かってわずかに構え直し、冷たい声で告げた。
かむい「…それ以上、動けば──斬る」
言葉に一切の虚勢はなかった。神威の目は、いつでも斬撃を放てるように研ぎ澄まされていた。
そして再び、幸人が口を開いた。
ゆきと「……おい、狼。もう一度訊く。お前の、目的はなんだ」
狼は、じっと幸人を見つめていた。
口を開きかけたようにも見えた。だが、何も言わなかった。
代わりに──その視線は、子ヤギたちへとゆっくり向けられる。
そして、にたりと笑った。
狼「……おかぁ、さん……だよ……」
その声は、かすれていた。
まるで、喉の奥から絞り出すように、ひび割れた音色で。
顔は笑っているのに、声は苦しげだった。
小屋の中の誰もが、その異様さに言葉を失った。
正直、皆がこの狼を怖いと思った…。
いったい今、何が起きているのか。
そんな中──
子ヤギ(桃色)「う、うわあああんっ!」
子ヤギ(黄色)「こわいよぉ……!ばけもの、かえってよぉ!」
子ヤギたちが、ついに耐え切れずに泣き出した。
震えながら、道後の足にしがみつき、涙を流しながら叫ぶ。
その声が響いた、ほんの数秒後──
狼は、何も言わず────皆から背を向けた。
そして、ゆっくりと…森の中へと、去っていったのだ。
誰一人、その背を追うことはできなかった。
狼が完全に見えなくなるまで、誰も動かず、誰も言葉を発しなかった。
──ようやく、沈黙が崩れる。
りこ「か……帰ったの……?」
震えるように、莉子がぽつりと呟いた。
ゆきと「ああ。そう……みたいだな」
幸人が答えた声は低く、何かを探り続けているような響きを持っていた。
どうご「……なんだったんだ、今のは」
道後も、いつになく困惑した声で呟く。
緊張がほぐれたわけではない。ただ、動く理由を失ったように皆がその場に立ち尽くしていた。
そのときだった。
音羽に抱かれていた赤ちゃんが──
ピョンッと、身をひねって音羽の腕の中からすり抜けた。
おとは「えっ──」
音羽が思わず手を伸ばすが、赤ちゃんは何食わぬ顔で床に着地すると、トコトコと水の桶の方へ歩いていく。
そして、ひと口だけ水を飲むと、まるで、先ほどまでの出来事などなかったかのように。
そしてまた、くるりと向きを変え、古時計の方へ。
古びた時計の下の隙間に身体を滑り込ませるようにして、赤ちゃんは、再びその奥へと消えていった。
その一連の動作に、誰も言葉を返せなかった。
神威も、れいも、黙ったままその小さな背中を見送っていた。
やがて、時計の下が静かになる。
その静寂に乗せるように、子ヤギたちのすすり泣きが止んでいく。
狼の姿が消えたことで、ようやく心の底に溜まっていた恐怖が抜け落ちていったのかもしれない。
子ヤギたちは、そろそろと道後の背から顔を出した。
そして──
子ヤギ(水色)「……ご、ごめんなさい」
ぽつりと子ヤギ(水色)が言うと、他の子たちも揃って小さく頭を下げた。
シュンと肩を落とし、しょんぼりと反省の色を浮かべている。
どうご「……ま、まぁ。何もなかったんだ。だけどな」
道後は苦笑交じりに、手を子ヤギたちの頭に乗せた。
どうご「もう、危ねぇことはするんじゃねぇぞ」
「……うん。ごめんなさい、パパ」
「パ、パパはやめろ!」
道後が軽く頭を叩くように撫でると、ようやくその場に穏やかな空気が戻りつつあった。
だが──
幸人は、その場で動かず、じっと狼の去った方角を見据えていた。
唇を引き結び、鋭く考え込むような視線を森に向けたまま、動かない。
れいがそんな幸人の姿をちらりと見るが、何も言葉をかけられなかった。
そのとき──
音羽が、はっと何かに気づいたように顔を上げた。
おとは「……戸……!」
駆け出した音羽が勢いよく戸に近づく。
ぎぃ、と開いたままの扉を、すぐに閉めて、鍵をかける。
音羽がかけた鍵は小屋の中に再び安堵をもたらす、確かな境界線となった。
莉子が音羽に駆け寄り、そっと肩に触れる。
りこ「……ありがとう、音羽さん」
おとは「いえ……気づくのが遅れてしまいました」
そう言う音羽の横顔に戸の隙間から夕日の光が差し始めてきていた。
幸人が言う。
ゆきと「もうそろそろ、母山羊が帰ってくるな」
当たり前の様なセリフだが、その言葉が意味するものとは…。