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 イヴが入浴の準備を整えてくれたので、深侑はアルトと共に浴室を訪れていた。


「ベイジルさんに、お風呂から上がったらご飯を食べたいって伝えてくれますか? この子用のご飯も用意してほしいんですけどって」

「かしこまりました」

「少し疲れてるし、この子もいるから部屋に用意してくれると嬉しいです」

「はい、そのようにいたします!」


 イヴに今後の要件を伝えてから深侑はアルトを床に下ろして、濡れた服を脱いだ。アルトは床にぺたんと座って、深侑の様子をじっと見つめている。その視線があまりにも真剣で、深侑は少し照れくさくなった。


「何をそんなに見てるの? なんか恥ずかしいんだけど……」


 相手は犬だというのに、裸をじっと見つめられると何だか照れてしまう。入浴の準備を整えてから「おいで」と声をかけると、アルトは深侑の後ろをちょこちょこついてきた。


「お湯をかけるからね」

「きゃんっ」


 深侑がアルトに声をかけながら体を洗ってあげると、アルトは律儀に全ての言葉に返事をしてくれているようだった。そして深侑が湯船に入るとアルトは浴槽の縁に前足をかけて、お湯を覗き込んだ。


「入りたいのか? でも、犬がお湯に入って大丈夫なのかな……」


 深侑が心配そうに言うと、アルトは「わん」と一回だけ鳴いた。その鳴き声は「大丈夫」と言っているように聞こえたので、小さな体をそっと湯船に入れるとアルトは気持ちよさそうに目を細めた。


「温かいか?」


 深侑が優しく声をかけると、アルトは「くぅん」と甘えるような声で鳴いた。湯船の中で、真っ黒な毛がふわふわと広がって、まるで小さな雲のようだ。


「可愛いな……小公爵様が君を大切にしてる理由がよく分かるよ」


 深侑がアルトの頭を優しく撫でると、アルトは深侑に体を寄せてきた。その温もりが心地よくて、深侑は今日の疲れが少し和らいだような気がした。


「今日は少し疲れてたんだけど、アルトがいてくれてよかった。本当に癒されるなぁ」


 深侑がそう呟くと、アルトは深侑を見上げて、心配そうな表情を浮かべた。まるで「大丈夫?」と聞いているようで、深侑は愛おしそうにアルトを撫でた。


「そろそろ上がろうか。君の毛、きちんと乾かしてあげないと」


 深侑がアルトを抱き上げて湯船から出ると、イヴが用意してくれたふかふかのタオルでアルトの体を包んだ。


「気持ちいいか?」


 深侑が優しくタオルで毛を拭いてあげると、アルトは気持ちよさそうに目を細めた。その表情は確実に「気持ちいい」と言っているようだった。


「ミユ様、お夕食をお持ちしました」


 入浴を終えた後に部屋で服を整えているとベイジルの声が聞こえて、深侑は部屋の扉を開ける。食事を載せたワゴンと共に、犬用の食事も用意されていた。


「ありがとうございます、ベイジルさん。わぁ、見てよ。アルトのご飯も美味しそう」


 ベイジルが深侑の机の上に料理を並べてくれる間、アルトは興味深そうに料理の香りを嗅いでいた。犬用の餌も一緒に床に置かれたが、アルトはそれを一瞥すると、明らかに不満そうな表情を浮かべて鼻を鳴らした。


「あ、あの……アルト様?」


 ベイジルがアルトの様子を見て困惑している。犬用の餌を無視するアルトに、明らかに動揺している様子だった。


「どうしたんだ、アルト? お腹空いてないの?」


 深侑がアルトに声をかけるとアルトは深侑の皿を見て、小さく「くぅん」と鳴く。そして犬用の餌を見て、はっきりと首を横に振った。


「まさか……俺の料理が食べたいってこと?」


 深侑がそう聞くと、アルトは嬉しそうに尻尾を振った。ベイジルは目を丸くして、アルトと深侑を交互に見つめている。


「で、でも、人間の料理は犬には良くないのでは……」


 ベイジルが心配そうに言うと、アルトはベイジルを見上げて、まるで「大丈夫だから」とでも言うように首を縦に振った。


「君、本当に変わった犬だな……小公爵様はいつもご自分の食事を食べさせてるのかな?」

「え、ええと……時々、そういうこともあるようです……」

「そっか。本当はご主人様の許可なしに食べさせるのは嫌なんだけど……」


 深侑は仕方なく、自分の皿に盛られていたステーキ肉を小さく切り分けてアルトの口元に差し出すと、アルトは美味しそうに肉を食べて満足そうな表情を浮かべた。


「へぇ、よく食べる。君は俺と違って美食家なんだな」


 深侑がそう言いながら、パンやステーキの欠片をアルトに分けてあげると、嬉しそうに全てを平らげた。そして、犬用の餌は最後まで手をつけなかったのだ。好き嫌いがはっきりしている犬だなと深侑は小さく笑った。


「ベイジルさん、小公爵様はお帰りになってますか?」

「い、いえ……お忙しいようで、今夜はお帰りにならないかもしれません」

「そうなんですね。じゃあ、今夜アルトは俺が預かってもいいでしょうか?」

「え! ミユ様が、ですか……?」

「この子、一人でレアエル様の離れ近くに来ていたんですよ。最近お忙しい小公爵様を探していたのかも……きっと寂しいんだと思うので、共寝しようかと」

「と、と、共寝……」

「はい。アルトがいるとよく眠れそうなので」

「ああ、ええ、“そういう”意味でございますよね……! ですが、それは……」


 ベイジルが言葉を濁していると、食事を終えたアルトは深侑のベッドに飛び乗って『もうここから動きません』と言うように丸まってしまった。その様子を見たベイジルはひどく苦い顔をしていたが最終的には深侑がアルトと一晩一緒に眠ることを承諾した。


「……もしかして俺が困らせた? 困らせたのはアルトのほうだと思ってたんだけど」


 ベッドの上で丸まっているアルトに話しかけると横になった深侑の側に寄ってきて、しばらくするとすうすうと寝息を立て始めた。


 そんなアルトの背中を優しく撫でながら窓のほうを見ると、外はまだ雨が降り続いている。窓を叩く雨音が、部屋の中の静寂をより一層際立たせていた。


「おやすみ、アルト」


 深侑が優しく声をかけると、アルトは小さく「くぅん」と鳴いて、深侑の胸に顔を埋めた。




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