聖女と王太子、そしてエヴァルトが遠征に出発してから一ヶ月が経った。
その間、深侑は毎日レアエルの離れを訪れて勉強を教えているけれど、どうにも集中できずにいた。授業中にぼんやりしてしまうことが多く、そんな深侑の様子をレアエルは心配そうに見つめている。
「ミユ、最近また上の空だな」
「す、すみません、殿下……」
「エヴァルトのことが心配なのか?」
レアエルの素直な問いかけに、深侑はどきりとした。確かにその通りで、いつ帰ってこられるか分からない遠征に向かったエヴァルトのことが頭から離れないのだ。そして、彼がいない間にアルトにならずに済んでいるのかという心配もある。
「……そうですね。小公爵様も聖女様も、無事でいてくれたらいいんですが」
「聖女は大丈夫だろう。加護があるって言ってたし」
「でも、やっぱり心配で……」
深侑がため息をつくと、レアエルは少し考え込むような表情を見せた。そして教科書を閉じると、深侑の前に移動してきた。
「ねぇ、ミユ」
「はい?」
「僕、最近気がついたことがあるんだ」
「どんなことですか?」
レアエルは深侑の目をまっすぐ見つめて、いつもより真剣な表情を浮かべていた。
「ミユは僕のことを、少しくらいは大切に思ってくれてるよね」
「当たり前です」
「ありがとう。僕のわがままや癇癪に付き合ってくれるのはエヴァルトやミユくらいだって、最近本当に痛感している……でも、エヴァルトのことはもっと大切に思ってるだろう?」
「えっ」
レアエルの言葉に、深侑は返事に困った。確かにエヴァルトのことを心配しているし、彼がマスターとして必要だと言ってくれたことが嬉しかった。でも、それがレアエルよりも大切だということではない。どちらのほうがより大切か、なんて深侑には選べるわけがなかった。
「そんなことは……」
「いいんだ、ミユ。お前たちを見ていたら何となく分かったから」
レアエルは切なそうにそう言いながら笑ってみせる。レアエルの前でマスター業務の時のようにエヴァルトと親密そうにしたことはなかったけれど、子供の感情は聡いのか何かに気がついているのかもしれない。ただ、色んな意味でバレてはいけないことだと思うので、深侑の背中には冷や汗が伝った。
「僕には、ミユとエヴァルトの間に特別な関係があるのが分かるんだ。前は僕ばっかり見てたエヴァルトが、最近は深侑のことばかり見てるからな」
「殿下……」
「まぁ、ずっと元婚約者を追いかけているよりマシだと思う。でもね」
レアエルの瞳が、いつもより大人っぽく見えた。深侑の手をぎゅっと握る小さな手から伝わる熱に驚いていると、レアエルは挑発的な瞳で深侑を見上げた。
「ミユを好きになったのは僕のほうが先じゃない?」
「え……?」
なんだか不穏な空気になってきたので一旦レアエルから離れようとしたけれど、子供の手なのに振り解けない。それどころか、深侑の腕を掴んでいる手が子供のものではなくなっていたのだ。
「……うん、体に馴染んだ」
「は……? え? ちょ、誰……!?」
今の今まで深侑の目の前にはレアエルがいたのに、気がつくとそこには見知らぬ青年がいた。莉音と同い年くらいだろうか。どことなくレアエルと似た雰囲気を感じると言うか、綺麗なブロンドに青い瞳はまさしく彼と同じだといっても過言ではない。
「誰、とは失礼な。レアエル・カリストラトヴァが分からないと?」
「レアエル殿下!?」
「ああ。ずっと年齢操作の魔法を研究していたんだが、成功したな」
「年齢操作の魔法!?」
――駄目だ、頭がついていかない。
目の前にいる青年は確かにレアエルの面影があるけれど、魔法で大人の姿に変わったなんてファンタジーをすぐには信じられないのだ。でも、エヴァルトがポメラニアンになるくらいなので、レアエルが大人になるのも不思議ではない。ポメラニアンになるエヴァルトよりはもしかしたらマシかも、とさえ思えた。
「さすがに、ミユと同じ年齢くらいに操作するにはもっと時間がかかる。今の状態だと16歳前後だな」
「な、なんでそんな魔法を……! 体に影響が出たらどうするんですか!」
「いつかレインを殺す時、子供の姿では心許ないだろう。だからずっと、大人の姿になる魔法を定着させようと練習していたんだ」
「殿下……」
「でもこの姿なら、お前に迫っても違和感はないよな? ミユ」
「いやいやいや、待ってくださいレアエル殿下ッ!」
体は大人になっているかもしれないが、中身は12歳の少年。しかも王族で第二王子。瞬時に深侑の頭の中には『淫行教師』という単語がでかでかと浮かんできた。
「待ってください! 俺は殿下とそんな関係になるつもりは――っ」
「うわぁぁぁぁんっ、みーたん助けてぇぇぇぇ!!!!」
「へ!?」
レアエルからソファに押し倒されていた深侑の耳に、甲高い女の子の叫び声が聞こえてくる。激しい足音を鳴らしながら部屋に近づいてくるかと思えば、バンっと扉を開けて突進してきたのは号泣している莉音だった。
「やっ、矢永さん!? どうした、なにか……って、遠征は!?」
「聞いてよみーたんっ! あたし、あたし、知らない人と結婚させられるかもぉ!」
「はぁ!?」
「ちょっと、聖女様! 今は僕とミユの時間で……!」
「すみません殿下、今は一旦矢永さんの話を――」
「お邪魔します〜。こちらに聖女のおまけの……あっ、ミユセンセー!」
「今度は誰!?」
「くぅん……」
遠征に行っていたはずの莉音が突然泣きながら帰ってきて『結婚』なんて物騒なワードを連呼していて、傍ではいまだに大人の姿のまま頬を膨らませているレアエル。そして新たに部屋を訪ねてきた見知らぬ騎士が真っ黒のポメラニアンを抱いていた。深侑は頭痛に襲われ、眉間に手を当てて深いため息をつくしかなかった。