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第8話

マンションに戻ると、和樹のスマホに凛子の後輩・小林颯太からLINEが届いていた。


「和樹先輩、凛子先輩って、なんでここ四、五日休んでるんですか?


連絡も全然返ってこなくて……何かあったんですか?」


理由は聞かずとも分かっていた。


それでも和樹は「家の用事だよ」とだけ返信し、食卓へ向かった。


日めくりカレンダーを一枚破る。数字は「21」から「20」へ――


明日から、ついに20以下に突入する。


出発が近づいている。


深く息を吸い込み、疲れた身体を引きずるようにして浴室へ向かった。


その夜は、心身ともに限界だったのか、ぐっすりと眠った。


次に目を覚ましたのは、すでに昼だった。


部屋は静まり返り、すべての物が元の場所に整っている。


それでも凛子は帰ってこなかった。


けれどもう慣れていた。


牛乳を一杯注ぎ、ひとり静かな時間を過ごす。


カレンダーは「20」から「15」、そして「10」へ――


彼女は、まるでこの世界から蒸発したかのように音沙汰がなかった。


和樹は淡々と渡航の準備を進め、書類の整理や荷造りに追われていた。


凛子のことを思い出すのは、ほんの合間だけだった。


彼女はきっと、拓真のそばで過ごしているのだろう。


……和樹の存在など、最初からなかったかのように


月曜日、小林颯太からまた連絡が来た。


「凛子先輩、まだ戻ってきてないんですけど……大丈夫ですか?」


そこで初めて、和樹は凛子に電話をかけた。


「……今、どこにいる?」


受話器の向こうでしばらく沈黙が流れた後、機械のように淡々とした声が返ってくる。


「最近ちょっと事情があって、まだ戻れないの」


煮え切らない返答に、和樹は我慢できず問いかける。


「……拓真、事故ったんだろ?」


もはや隠し通せないと思ったのか、凛子は素直に答えた。


「うん。数日前、交通事故に巻き込まれたの。


幸い擦り傷だけで骨には異常ないけど、注射も嫌がるし、薬も飲まないし……


入院してるけど、寝つきも悪くて、私がいないと落ち着かないの。


あの日、私が彼を送っていれば、こんなことにはならなかった。


だから、少しでもそばにいてあげたいの。……心配かけてごめんね」


彼女の、心の底から不安そうな声音が、和樹の胸をチクリと刺した。


たかが擦り傷。それだけのために、こんなにも心を乱すのか――


そこにあるのは、愛だった。


「……うん。気にしないで」


そう言おうとして、結局何も言えなかった。


無言のままの和樹に、凛子は気を遣ってか謝ってくる。


「ごめんね、和樹。心配させて。


拓真が元気になったら、ちゃんと戻って、あなたのそばにいるから。」


彼女のその言葉を、和樹はどこか他人事のように聞いていた。


もう、信じても仕方ないと分かっていた。


「……休み、ちゃんと申請しとけよ」


それだけを言い残し、通話を切った。


日めくりカレンダーは「10」、そしてついに「9」――


その数字が一桁台に突入する頃、和樹は留学手続きの最終確認を終えた。


夕方、親しい同級生たちと最後の食事を囲む。


突然の出国に、みんなは驚き、そして名残を惜しんだ。


「和樹、もう何年も会えなくなるんだな。


ご両親、フランスにいるんだろ?……もしかして、もう戻ってこないのか?」


「急すぎだよ~。でも、和樹ならきっと大丈夫だよ!」


「人生は別れの連続だけど、俺たちはいつだってお前を思ってるからな!」


和樹は笑顔でグラスを上げた。


一つひとつの言葉に、誠意が込められていた。


そのとき、同じゼミの山本聡がふと周囲を見渡して言った。


「……あれ?彼女は?


和樹が留学するって言ったら、普通手続きとか一緒に回るだろ。


もしかして、まだ知らせてないの?」


和樹は小さく笑い、グラスの縁を指でなぞった。


「最近忙しくてさ。手が離せないみたい。」


誰もそれ以上深くは聞かなかった。


凛子が学内一の才色兼備で多忙な女子であることを、皆が知っていたからだ。


「遠距離でも、気持ちさえあれば大丈夫だよな!」


「そうそう、想い合っていれば距離なんて関係ないって!」


皆が口々に励ます。


和樹はその言葉に微笑みを返し、再びグラスを上げた。


けれど、笑顔の裏にあるものは、誰にも見えなかった。


――本当は、そんな“想い”さえ、彼女の中にはなかったのに。


彼女は、自分を愛してなどいなかったのだ。

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