暗がりの中を進む馬車の中で不安と恐怖に苛まれ、心臓がバクバクしていた美弥は馬車が止まるまでずっと勾玉を握りしめ、ぎゅっと目を瞑っていた。しばらくして馬車は速度を落とし、窓から陽光が差し込んできた。美弥は目を開けておそるおそる窓の外を見ると、築地塀が続いており、神部家よりも大きく立派な門が現われた。門の右端にある阿倍野と書かれた大きな表札が目立っている。
「へっ? 阿倍野様のお屋敷? 暗い道を走ってただけなのに? お日様がまだ低い位置にあるのにもう着いたの?」
頭の中が疑問符だらけの美弥が首を傾げている間にも馬車は止まらず門を通り過ぎていく。
「あら、ここで降ろしてもらえないのかしら? どこに連れていかれるの? やっぱり怒っていらっしゃる? どこか売りに出されちゃう? それとも蜘蛛の妖怪みたいな魑魅魍魎の餌にされちゃう? いやいや、まさか。だって若様、私の封印されている力が桃華さんより強いから婚約者にするって仰ってたのよ。きっと本当のことよ。……私を阿倍野様のお屋敷に連れ出すための方便じゃないわよね? 逃げた方がいい? でもまだ馬車動いてるし、飛び降りるなんて無理よ……」
窓に顔を近づけて早口で独り言を続ける美弥にお構いなく、馬車は走り続ける。長々と続いている築地塀の角を曲がり、塀に沿って進んでいくと、勝手口のようなこぢんまりとした門が見えた。その前でようやく馬車は止まり、御者が扉を開けた。
「どうしよう、逃げるなら今だけど」
荷物を抱えて逡巡していると、御者が外套に包まれた腕を伸ばして掌を上に向けた。
「降ろしてくれようとしてるのかしら」
じっと動かず手を差し出している御者に申し訳なくなり、美弥は手を取って降りることにした。御者が門を開け、頭を下げて門の向こう側に腕を伸ばして先に進むよう促す。
「行くしかなさそうね」
美弥はごくっと唾を飲み込み、御者に一礼すると門の中に一歩足を踏み入れた。
赤いツツジの低木が両脇に並び、等間隔に並んでいる飛び石の上を歩いていくと、縁側の前に出た。風がさあーっと吹いて美弥の前髪をかきあげる。日が差し込む縁側に、羽織袴姿の晴麿が腕組をして座っており、晴麿の短い前髪が風にそよいでいる。大礼服姿とはまた違う、落ち着いた柔らかい印象を受ける。
「美弥嬢、無事に着いて何よりだ」
縁側から立ち上がった晴麿に声をかけられ、美弥は体を強張らせた。
「あの、ここは本当に、阿倍野様のお屋敷なのですよね?」
「そうだが。俺は本邸ではなく、この離れで生活している。離れの出入り口は裏門だ。今後も出入りは裏門を使ってくれ」
「そう、なんですね。今後も、ということは、私を妖怪の餌にしたり、売ったりしないということですか?」
緊張の面持ちで尋ねる美弥に、晴磨は眉をしかめた。
「何故そんなことを聞く? 婚約者として選んだと言っただろう」
「で、ですが、一昨日のことを怒っていらっしゃるかと思って」
「怒る? 何故俺が? むしろ俺の都合で強引に連れてこられた美弥嬢の方が怒ってもいいのではないか?」
「いえ、そんな!」
晴磨は美弥に一歩近づくと、頭をじっと見つめた。
「頭を怪我したのか? 馬車の中でか? あいつらに御者を任せたのはまずかったか」
顔をしかめ、顎に手を当てる晴磨から一歩後退り、美弥は頭のこぶを抑えた。
「これは、昨日家でちょっと。馬車は大丈夫でした。でも、途中暗闇を通ってて、そんなに時間がかからず着いたので、本当にお屋敷に連れて行ってもらえるのか不安になりまして」
「それはすまない。事前に説明しておくべきだったな。普通の人間が使う道では1日以上はかかる。妖怪が使う、人には見えない影の道を神部家から阿倍野家まで繋げて、そこを通って来てもらった」
「妖怪用の道があるんですね。色々と疑ってしまい、失礼しました」
「いや。妖怪に不慣れな美弥嬢を気にかけるべきだった。ここには、俺が使役している妖怪や、昨日見せた式神が多数いる。使用人の仕事も妖怪に任せている。人間は俺と美弥嬢だけだ」
「えっ? ほ、本当ですか?」
美弥の脳裏に、一昨日見た蜘蛛の妖怪が前掛けをつけて、料理、洗濯、炊事をしている姿が思い浮かんでくる。
「手をこちらへ」
「へっ?」
美弥は目を丸くして、自分の手と晴磨を交互に見ておずおずと右手を差し出した。
「勾玉の解呪には相当な力を要する。簡易的だが、式神や妖怪が見えるよう俺の力を込めた札を渡すから、これを身につけておくと良い」
晴麿は袂から札を取り出し、美弥に手渡す。受け取ると、ドクンと心臓が跳ね、力が流れ込んでくる感覚がした。瞬きをすると、目の前に3人の男女の顔があり、驚きのあまり仰け反って倒れそうになった。
「あっ!」
「危ない!」
「お嬢!」
手を伸ばした3人の声が重なる。砂利の敷き詰められた地面に倒れる前に、晴麿が背中を支えた。
「大丈夫か?」
「はっ、はひっ! す、すいません!」
美弥は顔を赤くし、さっと体勢を整えると頭を下げて謝った。
「おまえたちの、せいだ」
晴麿の隣にいる少女が3人を指差した。3人はギクッと肩を震わせて美弥に頭を下げた。1人は牡丹が描かれた栗色の着物を着た屈強な男性で、楕円の輪郭に太い眉、目力のある焦げ茶色の瞳に、鷲鼻が印象的で全体的に顔が濃い。
男性の右側の女性は、蝶の舞う紫紺色の着物とそれに合う漆塗りの櫛を丸髷にさしており、面長の輪郭できりっとした細い眉に横長の黒い瞳、すっと通った鼻筋に細い唇がバランスが良い。
もう1人の女性は大判の梅の花が描かれた黒色の着物に金茶色の袴を着ており、三つ編みをひとつに束ねたイギリス結びに琥珀色の簪をさしている。美弥とさほど年齢が変わらない女学生のような幼さの残る風貌で、丸顔で明るい茶色の目も丸くぱっちりしている。
「すまねえ、お嬢」
「ごめんなさいねえ。会えたのが嬉しくて」
「ごめんね、お嬢。びっくりさせちゃった?」
「あ、あの、どちらさま、ですか?」
問いかけると、3人は目を潤ませ、今にも泣きだしそうな顔で美弥の顔を見つめてきた。
「お嬢がおいらたちのこと見てるぜ」
「確かに目が合ってるよぅ。嬉しいねえ」
「会いたかったよー!」
丸顔の女性が感極まって美弥に飛びついてくると、他の2人も抱きついてきて、もみくちゃにされてしまう。
「お前ら、やめろ。美弥嬢が困っているだろう」
晴磨が美弥から3人を引きはがすと、唇を尖らせてぶつぶつ文句を言った。
「せっかくの再会なのによお」
「そうよ。このいけず」
「若様、ひどい」
「美弥嬢、こいつらは付喪神だ」
「付喪神? 本当にいたんですね!」
目を輝かせる美弥に3人は詰めより、男性は懐から牡丹が彫られた木製の手鏡を取り出し、紫紺色の着物の女性は頭にさしている漆塗りの櫛を抜き、女学生風の女性は頭に着けている琥珀色の簪を取って見せた。美弥は目を見開き、荷物を取り落とす。3人は美弥の両手のひらの上にそれぞれの物を乗せた。
「これ、お母様からもらった……。じゃあ、あなたたちは!」
息を呑む美弥に、3人は笑顔を浮かべつつぼろぼろ涙を流した。
「良かった……。みんな無事で本当に良かったわ」
込み上げてくる思いが涙となって溢れていく。3人は号泣しながら美弥を取り囲み、抱き着いて来た。
「お嬢! 会いたかったぜ!」
「今まで会いに行けなくてごめんよぅ」
「一人にしちゃってごめんね、お嬢!」
「私の方こそ、探してあげられなくてごめんなさい。付喪神として再会できるなんて、とっても嬉しいわ」
「お嬢が謝ることじゃねえよ! 悪いのは全部桃華だ」
「あの時、桃華に浄化されそうになって、影の中に3人で飛びこんだんだけど、妖力がほとんど残ってなかったし、本体も傷ついてたから、身動きがとれなくなってたんだよ」
「そうしたらね、他の妖怪に助けてもらって、ここに連れてきてもらって、治してもらったのよ。でも、元気になるまですっごく時間がかかっちゃって。お嬢に会いに行きたかったんだけど、ずっと行けなかったの。ごめんね」
「そうだったのね。みんな無事で本当に良かったわ」
3人はおいおい声を上げて泣きじゃくった。
「おまえたち、美弥嬢を早く部屋に案内して休ませてやれ。クラ、頼んだぞ」
3人はぴたっと泣き止むと、ニカッと明るい笑顔を浮かべた。
「おう、そうだな」
「お嬢、お部屋に行きましょ」
「お部屋で休んで、いっぱい話そうね」
「あっ、はい」
切り替えの早い付喪神たちに圧倒された美弥は、目尻の涙をさっと拭って頷いた。
クラと呼ばれた少女が地面に置かれている美弥の風呂敷を指差した。
「みやのにもつ、もて」
「おいらが持ってくぜ」
男が風呂敷を片手でひょいと持ち上げた。
「そんな、悪いです。私のなのに」
「これぐらい軽い、軽い。気にすんな」
恐縮する美弥の袖を、クラがクイッと引いて部屋の中を指差した。
「こっち」
「はい」
「美弥嬢、また後で」
晴麿は会釈をして縁側に上がり、廊下の奥へ去っていった。美弥も会釈をし、縁側でおいで、おいでと、手のひらを下に向けて指を曲げ伸ばししているクラの後についていった。
「ここ」
同じ所を行ったり来たりしているのではと思うほど廊下を数回右に左に曲がり、ようやくクラが立ち止まった。
「ありがとうございます」
美弥がクラにお礼を言って襖を開ける。
神部家で一番広い当主の部屋が2部屋入りそうなほど広々としており、濃紺の絨毯が敷かれた洋室と、小上がりの畳が敷かれてある和室が一室になっている。洋室の方には見たことのない天井付きのレースのかかった1人で寝るには大きすぎる寝台と、3人掛けのソファーが2つ向かい合わせに置かれてあり、壁際には背の高い洋箪笥がある。和室には神部家の応接間にあったような背の低い四角の長机が置かれ、机の中央には細長い花瓶にピンク色のシャクヤクが一輪挿してある。壁際には着物をしまう桐箪笥が2つ置かれている。
口をあんぐり開けて部屋の中に入ろうとしない美弥の袖をクラが引っ張った。
「みやのへや、はいる」
「えっ、で、でも…‥」
「入るぞ」
「入って、入って」
「行こう~」
言い淀む美弥の背中を3人が押して、ふかふかのじゅうたんの上に足を踏み入れた。
「荷物、畳のとこに置いとくぞ」
「はい…‥」
「うわ~、すっごく豪華なお部屋! 床が浮いてるみたいにふわふわしてる」
丸顔の女学生風の少女が、足を上げ下げしてはしゃぐ。着物姿の女性はソファーに腰掛け、立ったり座ったりして座り心地を確かめ、感嘆の声を上げた。
「上等な腰掛けだねえ」
屈強な男性は小上がりの畳に腰掛け、畳を撫でている。
「新品だな、こりゃ。お嬢、良い部屋用意してもらったじゃねえか。若もやるな」
「こ、こんな上等な部屋、使えない……」
「となりのへや、はるまのねるへや。ふすまあけたら、いける」
クラが和室の襖を指差す。
「えっ!? 晴磨様の隣?」
「いや?」
「嫌とかじゃなくて、恐れ多いと言いますか」
「何言ってんだよ、お嬢」
「これから夫婦になるんだよ」
「夫婦なんだから、部屋が隣同士なのは当然だよね」
「ふ、夫婦というのはまだ早くて、今は婚約者で……」
首を左右にブンブン振る美弥の着物の袖をクラが引っ張る。
「はるま、きらい?」
「へっ? 嫌いってわけじゃなくて、会ったばかりだし。婚約者なんだからいずれは夫婦になるんだろうけど、今はまだ心の準備ができてなくて」
美弥は青白い顔で、廊下の方に後退りをし、ぶるぶる首を横に振った。
「だから、こんな豪華な部屋、私には……」
クラが首をかしげる。3人も困惑した表情で美弥の周りに集まってきた。
「無理です! こんなとこ住めません!」
美弥は身を翻すと廊下に飛び出し、がむしゃらに駆け出した。
「お嬢、どこ行くんだ!」
「待っておくれよ!」
「お嬢~、どうしたの?」
3人が慌てて後を追いかけていく。ひとり取り残されたクラはぼそっと呟いた。
「はるま、きらわれた」