ちらちらと時計を気にしていた刹声は、いつもより長引く帰りのHRがまだ段取りの半ほどまでしか進んでいないタイミングで、ばっと自分の席を立ちあがった。
「九重?」
雑談混じりの連絡事項をぐだぐだと話していた担任の男性教師が、刹声の唐突な動きを見て声をかけてくる。
「……帰ります」
「は? いや、まだHRの途中――」
「遅いので、帰ります」
鞄を肩に引っ掛けながらそれだけ言うと、刹声は足早に教室を後にした。その不良じみた行動に教室がざわめいているのが、その獣耳にはっきりと届く。
そんなことは、どうだっていいけれど。
階段を駆け下りて、靴を履き替えて、校門を出たら本格的に走り出す。スマホも時計も生まれてこのかた持ち合わせていたことがないので、さっき教室で見た時計の他は自分の体感だけが頼りである。
刹声は久音より獣人じみた印象をしているが、脚は貧弱な人間のそれだしバランスを取るための尻尾もない。だから、走るのはそこまで得意でなかったし、その上せっかく給食で埋めたお腹が空いてくるのであまり激しく動きたくはない。
それでも急いで急いで、息を切らしながら辿り着いたのは、民家に併設された飲食店だった。個人経営の定食屋で、安さと手早さと、それからお酒を置いているのを売りにしている。
まだ表の札がまだ『二時~四時 準備中』になっていることに安堵しながら、刹声はその引き戸をがらがらと開いた。
「遅い!」
こんにちは、を言う間もなく、ちょうど正面でなにやらレジを弄っていた中年女性――店長の奥さんで、接客を担当している――が、ぴしゃりと刹声を怒鳴りつける。
「もうあと三分で営業開始だよ、獣人は五分前行動も知らないのか!」
「ごめんなっ、さい、HRが長、引いて……」
はあはあと息切れをしながらの返事に、またもぴしゃり。
「言い訳を聞いてるんじゃないんだよ! さっさと洗い場に――んん、なんだいその顔は」
てっきり生意気な表情だねとでも怒られるのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。じろじろと無遠慮な視線は、琥珀色をした左の目に向いている。
そこで、ようやく思い当たった。つい昨晩、目元を大きく負傷したばかりである。すんなり血は止まったし、痛みもひりつくくらいで他の怪我に比べて酷いわけでもないし、すっかり忘れていた。
「別に。枝でひっかいただけ、です」
「ふうん」
嫌な気配をまとった返事。
誰から何を言われようとも――ただひとりからの言葉を除いて――刹声にとっては些末なことだが、だからといって全部聞いてやる義理もない。
「それじゃ」
さっさと厨房のほうに移動すると、刹声はぐいっと腕まくりをした。鞄から獣人御用達の使い捨てゴム手袋を取り出すと、それ以外は部屋の隅に転がしておく。
調理台にはシェフでもある店長がいるが、慌ただしく開店準備を進める彼は刹声のほうに目もくれない。いつものことなので、構わず洗い場へ向かう。そこには既に結構な量の調理器具が積まれていて、刹声は内心うへえと苦い顔をした。
しかし、やるしかないのだった。
自分の毛が付着しないようしっかりと手袋をつけ、刹声はさっそく洗い物の山との格闘を始める。
手袋越しだろうと容赦なく冷たい水はどんどんと指先の感覚を鈍くしていくし、洗剤はぬるりとよく滑る。そもそも、毛皮に覆われた狐獣人の手は肉球――指先と、それから手のひらの一部にある――以外の場所でものを持つのが難しく、すぐ取り落してしまうのだ。皿を割ったりすれば弁償なので、細心の注意を払わなければいけなかった。
けれど、のたのたしている暇はない。調理器具だけすら片付け切らない間にも、次々皿やらコップやらが積み上がっていく。丁寧に、それでいて迅速に。
少しでも作業が滞ると、
「遅い!」
と店長妻の怒声が飛んでくるので、とにかく余計なことは考えないで延々と洗い物を捌いていくしかなかった。
しかし、この日は忙しかった。バイトを始めて半年近い刹声にとっても未知の領域であった。というのも、どうやらどこぞのサラリーマンが団体で飲み会のようなことをやっているらしい。重い大皿やジョッキがいくら洗ってもいくら拭いてもまた戻ってくるので、退勤時間である十時になった頃には、もうすっかり手の感覚がなくなってしまっていた。
ろくに動かない指で手袋をひっぺがしながら、刹声はちらと調理台のほうを見やる。しかし、そこには翌日分に仕込まれている途中の食材があるばかりだった。【まかない】はナシか、と小さくため息を吐く刹声。
「終わりました」
日払いである給料の催促を意味する言葉を投げかけると、店長妻がどすどすとうるさい足取りで近づいてくる。
じろり、また刹声の顔を眺めまわして、一言。
「明日からは来なくていいから」
「…………は?」
聞き間違いか、と思ってぽかんと口をあける刹声へと、店長妻は苛立ったように、
「だから、明日から来なくていい。クビだっつってんの、分かる?」
「い――いや、なんでよ!? 別に今日、遅刻もしてないし皿も割ってないし!」
「なんだその口の利き方! あのねえ、飲食店に不潔な獣人モドキがいるってだけでこっちはいい迷惑なわけ! だってのに」
目元の傷を示して、
「その人相悪い怪我、万が一お客様に見られでもしたらウチの信用が地に落ちちまうよ。だからクビ、さっさと帰っとくれ!」
刹声は言い返す文句を探したが、長時間の労働で疲れ果てた頭はこのうるさい怒鳴り声ですっかり停止してしまった。
「……今日の、お給料は」
なんとか言うと、お相手は呆れ果てたような表情になって。
「なーんでクビにした奴に金払わなきゃなんないんだい!」
社会経験なんてないに等しいいち中学生の刹声にさえ分かる、あまりに理不尽な理屈だった。
ぐ、と拳を握り締める。目に力が入る。
けれど、刹声にできることはないのだった。なんの立場も知恵もない刹声は、この世界においてあまりに無力な存在だった。自分自身で、それを分かっていた。
くるり、踵を返して、鞄を拾い上げて。
定型句たる『お疲れ様です』の挨拶を言わないだけのごくささやかな反発と共に、刹声は今後二度と訪れることないであろうその古臭い建物を後にした。
困った。
夜よりも深夜に近い、中学生が出歩くには向かない午後十時過ぎの町中を、刹声は足早に歩いていた。空には低く雲が垂れこめ、街灯は道の長さに対してあまりにまばらだ。
いくら雇い主がムカつく相手だったとしても、いくら手のかじかむ激務だったとしても、あのバイトは刹声にとっての生命線だった。碌に帰っても来ない父親だとかいう存在はほとんど生活費をよこしてこないし、それなりにあった【手切れ金】は小学生時代にほとんどを使い果たしてしまっている。
給料はもちろん、客の食べ残しがあったときそれを持ち帰るのが許されている、というのも非常に助かる点だった。平日は給食がある、とはいえやはりそれだけでは足りないし、休日はなんとか自力で食料を調達しなければならない。まだ多少の手持ちがあるとはいえ、このままでは二月後に控えた冬休みを乗り越えられないだろう。
浮かぶのは、昼に貰い物のせんべいを半分渡してきた久音のこと。
元より細い彼女の体は、最近になってますます儚さを増してきている。このままではふっと空気に溶けて消えてしまうんじゃないか、と思うほどに。
「……そんなこと、させるわけないじゃない」
食いしばるように噛み合わせた歯の隙間から、刹声は唸るようにつぶやく。
大丈夫。大丈夫だ。こんなのは、今に始まったことじゃない。自分たちはこれまでも、幾度となく大人に裏切られてきた。そのせいで負った傷は数えきれないほどにあるけれど、それでも何とか乗り越えてきたのだ。今回だって、なんとかできるに違いなかった。
思い出す。小学生の頃、図書館で呼んだ本に書いてあった言葉――確か、『神は乗り越えられないような試練は与えない』、だっただろうか。まさか、かみさまなんているはずもない。いたとしたら、世界をこんな酷いかたちにしておくはずがないだろう。だから、刹声自身の力で乗り越えなければいけなかった。
でも、どうやって?
ちらり、通りがかった自動販売機の側面に貼られた求人ポスターを見る。曰く、学生アルバイト大歓迎! 高校生・大学生の方もお気軽に。時給・平日――。
刹声は中学生だ。中学生を雇ってくれるところなど、どこにもありはしないのだった。
「……お腹空いたな」
無意識に零れた自分の言葉に、刹声は慌てて口を閉じる。
しかし、一度意識してしまった空腹はまるで粘度の高い液体のように一気に全身へとまとわりついてきて、どうやっても消えてくれそうにはなかった。走ったのと、それからタダ働きをしたのとで、すっかり体が疲れ果てている。
「せめて、くおちゃんには何か買って帰んないと――」
帰路にあるコンビニ、そこで売っている六本で百五十円のスティックパンを思い浮かべて呟いた、その瞬間。
ぽつん、と、頭の上に冷たい感触がした……かと思えば。
ぽつん、ぽつん、ぽつぽつ、ざーっ――凄まじい勢いで、冷たさが刹声の全身を打ち据えた。
雨だった。
「ひゃ、こ、こんなときに! つめっ、つめたっ」
まだ秋といえども夜になれば随分冷えるし、濡れてしまえばなおさらだ。ただでさえ普段よりも悪い状況にいるというのに、風邪をひくのは非常にマズい。
刹声は大急ぎで走り、雨をしのげそうな場所を探す。道の脇、三軒の店が連なった横に長い建物のうち、一番ひさしが広い扉の前になんとか駆け込んでようやくひと息をついた。ガラス扉にはclosedの札がかかっていて、中は暗い。喫茶店のようだ。
「ああもう。傘、持ってくればよかった……」
久音はもう屋根のある場所にいるだろうか、なんて思いながら、刹声はざあざあ降りしきる雨をじっと見据える。このまま降り続けるようであれば濡れて帰るよりほかにないが、それにしたって少し休んでからにしたい。
軒先のひさしはさして大きくもなく、風に吹かれた雨粒がどんどんと侵入してくる。それを身で受けながら、刹声はぶるりと体を震わせた。寒い。なるべく水滴のかからないように、ぐっと扉へと体を押し付けて。
――からんからん。
「わひゃっ」
てっきり施錠しているとばかり思っていた扉は、さして重くもない刹声の体重を受けてぎいいと開いていった。危うく転がりかけ、たたらを踏む刹声。そのままよろよろと店内に入り込んでしまう。
暗いそこは照明こそついていないものの、空調は効いていた。湿って寒い体にエアコンの吐き出す温風が――少々弱くはあるけれど――心地いい。ちらり、刹声はガラス扉越しの外を見る。雨はまだまだ弱まる気配すら見せない。外を歩くひとは見つからず、まるで世界に自分ひとりがぽつねんと取り残されてしまったようだった。
ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――
耳朶を打つ雨音に背を向けて、刹声は店のほうへとくるり振り向く。暗い。けれど、刹声の持つ狐の目は闇を見ることに長けていた。ぐっと瞳孔が開いて、いかにも喫茶店らしい洒落た一本足の丸テーブルやら隅に置いてある観葉植物の鉢やらがくっきりとした輪郭を持つ。同時に、刹声はすん、とひとつ鼻を鳴らした。
コーヒーの残り香、すぅっと甘い匂い、それらに紛れてなぜか油っぽい気配があった。日暮れごろになるとあちこちの家から漂ってくるような、刹声の肌には馴染まぬ団欒の匂いに近かった。
なんだろう、と思って、刹声はその大本があるだろう店の奥に据えられたカウンターに向かう。簡易的なキッチンとなっているそこには、中身の残ったフライパンと鍋がそのままになっていた。その中身、というのの正体に気が付いて、刹声は怪訝な表情となる。
フライパンのほうのそれは、炒飯だった。それも中華料理っぽいのではなく、給食でもお目にかかるような卵とソーセージの炒飯。少々べちゃついている。鍋のほうはスープか何かかと思ったが、どうやら味噌汁らしい。浮かぶネギの間から、つるりと白い豆腐が見えた。
どちらも、喫茶店にはあまり似つかわしくない。軽食を提供しているにしたって、それはオムライスとかクラムチャウダーとか――どちらも食べたことはないが――そういう横文字のメニューだろう。客に出すためのものではないのかもしれない。
ごくり。
湧き出てきた唾を呑み込む刹声。
給食を食べてから十時間近くが経過している。雨から逃げるので一旦脇へと追いやられていた空腹感、いや飢餓感が、どうしようもなく刹声の体を動かした。意思というよりも、衝動だった。ぱっと目の付くところにスプーンはない。だから、素手で。
かぎ爪の生えた指先が、油でつやつやとした米粒に触れる――寸前。
刹声の人並外れた聴力が、かたん、と小さな音を拾った。ぐるり、と狐耳が無意識のうちに後ろへ回る。
そこで、ようやく気が付く。電気がついていないのだから無人なのだろう、と思い込んでいたが、この店はまだ暖房が付いているのだ。鍵も開いていて、料理が残っていて――どれか一つならまだしも、すべて忘れるはずはない。
誰かいる。
ぱちん、と店内が明るくなった。