「――なんだ、可愛い泥棒さんじゃないか」
女性の声だった。やや掠れていて、独特の響きがある。それが、すぐ背後から。
刹声は逃げ出そうと数歩踏み出したが、すぐに「おっと」と手首を掴まれた。人間の手ではない。肉球と毛皮で構成された、獣の手だった。
「慌てない慌てない。何も、取って食いやしないんだから」
そう言って意味ありげに微笑むのは、黒猫の獣人だった。手足も尻尾もすらりと長く、瞳は緑色をしている。
ここは獣人が少ないまちだ。小学校も中学校も人間校だった。それでも往来ですれ違うことくらいはたびたびあるが、こうして獣人と真正面から向かい合う経験などただ一種類きりしかありはしない。あの、父親だとかいう狐獣人と接しているとき。
ぶわり、刹声の耳と腕の毛が逆立つ。
「は、離してよっ!」
「いやだから、落ち着いてって。うわ腕細いねお嬢ちゃん」
「離してってば、やだ、っ、ひゃあ!?」
猫獣人の手を無理やり振りほどいたはいいものの、そのまま勢い余って倒れ込んでしまった。幸い背後には何もなかったが、硬い床でしたたかに背中を打つ。鈍い音。
「お、お嬢ちゃん? 大丈夫?」
「っ、つぅう……」
「ああもう……いや、脅かしたのは悪かった。なんだ、雨から逃げてきたのか? こんな夜中に、学生だろう? 夜遊びはよくないよ」
猫獣人は油断しているようだ。今のうちに店の外に出なければ、もしも通報なんてされたら大変なことになってしまう、と刹声は思った。思ったけれど、お腹は空いたし体は湿っているしすっかり疲れているし、立ち上がる気力が砂粒ほどさえ湧いてこない。
上体だけを起こした体勢のまま、座り込んで動きも喋りもしない刹声のことを、猫獣人はその緑目で見下ろしていた。警察を呼ぶか迷っているのかも、と刹声は思った。閉店した喫茶店に無断で入るのも、そこにある食べ物を食べようとするのも、悪いことだ。
やっぱり逃げないと、と刹声は横の壁を支えにどうにか立ち上がろうとして。
――ぐぅぅぅぅ。
ひどく、間の抜けた音が響いた。刹声の顔が真っ赤に染まる。
猫獣人は目を丸くして、それからくつくつ笑いだす。
「そんなにお腹減ってるのか。ようし、ワタシがご馳走してあげよう――って言っても、もうこの炒飯くらいしかないけどね」
言いながら、猫獣人は手早くコンロに火をつける。強火で一気に温めると、ふんわり優しい良い匂いがした。平皿を取り出して、中身の半分ほどをよそう。
「はい、パトリア名物・三日月炒飯。……アレルギーとかは大丈夫? んあ、そうだ、味噌汁も飲むかい?」
ぽかんとその様子を眺めていた刹声は、ぶんぶんと首を横に振る。
「い、いらないわよ、いらないから! そんな、知らないひとの炒飯なんて……!」
「でもお嬢ちゃん、食べようとしてたじゃないか。お腹空いてるんだろ? ほら、どこでも好きな席、座っていいから」
実際、お腹はぺこぺこをとっくに通り越していたし、一も二もなく頷きたい気持ちにもなった。けれど視界に入ったのは、壁にかけられたアンティーク調の時計。もうそろそろ、十時半になろうとしている。
「……本当に、いらない。それよりあたし、早く帰らなきゃ」
「ん、門限かい?」
「違う。妹が待ってるの。心配させちゃうから」
いつもの刹声ならこう正直に答えたりはしないが、疲労で頭が回らないのと、それから不法侵入他の罪悪感もあって、浮かんだ言葉がするりとそのまま出てきた。
そう、久音。バイト帰りが遅いのはいつものこととはいっても、この寒い中で待たせ続けるわけにもいかない。雨もちょっとやそっとではやみそうにない以上、一刻も早く帰るのが今の刹声にとって一番大切なことだった。空腹で眩んだ目が、ようやく先の優先順位を正しく認識する。
猫獣人は「なるほど。ちょっと待ってな」と言うなり炒飯の皿を置いて、棚からラップを取り出した。広げたそれに炒飯を盛ると、熱さを感じさせない手つきでぎゅっぎゅと握る。皿と、それからフライパンの中身がなくなるまでそれを続けて。
「三日月炒飯改め、あー……丸いから、満月炒飯ってところかな? あげるから、持って帰りな……持てないか、この量。ええと確かこの辺に手提げが……」
ごろごろ六個もある大きな炒飯おにぎりを小さな手提げ鞄に入れて、ずいっと差し出してきた。
当惑する刹声。
「な……なんで?」
「ん? なんでって、何が」
「あたし、勝手に入って勝手にそれ、」にぎられた炒飯を視線で示す、「盗もうとしたのよ。ケーサツに突き出すとかじゃないの」
「突き出してほしいのか?」
首を傾げる猫獣人。
「そうじゃないけど。追い払う、とかならともかく……ゴハン渡す必要なんてないじゃない」
「分かってないねえ」
ぶん、と黒い尻尾が薙がれる。
「大人ってな、お腹を空かせた子供を見過ごせないモンなんだよ」
「…………」
そんなわけあるか、と刹声はじろり三白眼気味に猫獣人を見上げた。
母親だったひとも、父親だとかいうひとも、自分たちがいくら飢えようと構わないに違いなかった。その時点で、この猫獣人が言っていることは真っ赤な嘘だということが証明されている。
けれど、くれるというものをわざわざ断る理由もないのだった。
結局刹声は手提げを受け取って、「……じゃあ」とだけ言い残して店を出ようとして。
扉に貼られたそれに気が付いた。
店側に向けられていたから、入ってきたときは裏面しか見えていなかったのだ。A4サイズいっぱいによく見るフリーイラストを散りばめられたそれは、バイト募集の貼り紙だった。
「んあ。お嬢ちゃん、バイトとか興味ある感じ?」
立ち止まった刹声の視線を追ったのだろう、猫獣人が声をかけてくる。
「大募集中だよ、特に夕方と土日。……んでも、お嬢ちゃん中学生?」
「……高校生」
とっさに、嘘を吐いていた。
「高校生……なら、バイト、できる? その、親の同意書とか、用意できないんだけど」
今まで門前払いされたときの決まり文句を思い出し、恐る恐る振り返る刹声。猫獣人は、何か考えるような素振りをした。
ざあざあ、雨の音が響いていた。秒針が時を刻む硬質な音がする。エアコンの低い唸り声も。それ以外の音は、刹声の獣耳でさえ聞き取れない。
「――まー、いいんじゃないか?」
あっけらかんと、猫獣人はそう言い放った。
「い――いい、の? えと、リレキショ? も、持ってないけど……」
「いい、いい、人手足りてないし。詳しい話は明日するから、今日はもう帰んなさい。傘貸すから」
猫獣人は入口脇にあった黒い傘をひょいと取って押し付けてくる。とっさに受け取ってしまったそれは、刹声の愛用している七百円のビニール傘とは比較にならないくらいしっかりとしたつくりをしていて、どう考えても高級品だった。
断ろうかとも思ったが、おにぎりが濡れてしまっても勿体無い。素直に借りておくことにする。鍵が開いていた件といい、この猫獣人は警戒心というものが欠けているのかもしれないな、などと思った。
「それじゃお嬢ちゃん――ああ、雇うんなら名前、訊いといたほうがいいな。わっちゅあねーむ」
「……九重、刹声。フツウの刹那のセツに、声でナって読んで、せつな」
「よし、刹声ちゃんね。ワタシは三日月柚希、見ての通りの猫獣人で、ここの店長。で、この店の名前はパトリア。獣人たちの憩いの……いや、今はそいつはいいか」
なにやら首を横に振って、猫獣人、もとい柚希はにっこりと微笑んだ。
「ま、明日からよろしく頼むよ、刹声ちゃん」