放課後。
英語の先生に、「ちょっと話があるの」と職員室に呼び出された。
何事かと思っていると、先生は小声でこう聞いてくる。
「本野くん、あなた何か妙なものを広めているらしいじゃない?」
「えっ? 妙なもの、ですか?」
「そう。黒い消しゴム」
先生が声でそういったので、おれは驚いた。
すでに先生まで把握してるのか……。
たった一日で黒歴史消しゴムのうわさが知れ渡っているだなんて……。
あれ、ヤベー発明だな。
「別に、ただの黒い消しゴムですよ」
「本当に?」
先生は黒歴史消しゴムを取り出した。
なんで先生が持ってるんだ?
「これは、今日、生徒から没収したの」
「消しゴムを没収する必要があるんですか?」
「だって、これをつかうと『軽く飛ぶ』だの、『中毒になる』だなんていってるんだもの」
先生が眉間に皺を寄せる。
おいおい、変な表現してるから早速、誤解を受けてるじゃないか!
「誤解ですよ! ただの消しゴムです!」
「本当に?」
先生の鋭いまなざしに、おれは困惑する。
どうすりゃいいんだ。
おれは先生が持っている消しゴムを見る。
そうか、実演して見せればいいだけか。
おれがつかえば先生の記憶は消えないから、変に思われないし。
「じゃあ、あの」
おれは小説のアイデア用のメモ帳をポケットから取り出す。
そこにシャーペンで何かを書こうとする。
「ああ、そうね。本当にただの消しゴムかどうかを見せてくれるのが手っ取り早いわね」
先生はそういうと、「自分の名前を書いてちょうだい」と付け足した。
自分の名前……。
黒歴史消しゴムで消したらどうなるんだ。
まあ、黒歴史の塊ってわけじゃないから大丈夫だよな。
おれはメモ帳に、自分の名前を書く。
それから、黒歴史消しゴムで本野翔の「本」のところを消して見せる。
「どうせなら全部消して見せてよ」
先生がそういうので、おれは、「えっ」と躊躇する。
さすがに全部はこわいんだが……。
だけど、従わないとこの消しゴムがやべぇ物として没収され、黒い消しゴム禁止令まで出されるかもしれない。
それに、特に今のところは記憶に異常なし。
ええい、ままよ!
おれは勢いをつけるかのように、自分の名前を消した。
メモ帳はきれいになった。
「うーん。特に変な匂いがするわけでもなさそうねえ」
先生がそういっておれを見る。
「なんの話ですか?」
「だから、この黒い消しゴムよ」
「そんなもの、おれは見たことも聞いたこともありません」
「えっ? だって本野くんが……」
「ホンノって、だれですか?」
「ふざけてるの?」
「ホンノって、だれですか?」
「もういいわ。この消しゴムは返します」
おれはそういわれても、なんのことなのかわからない。
そもそも、目の前の女性もだれなのかわからない。
ってゆーか、おれは一体、何者だ?
記憶が全くない。
ふらふらとドアを開けて、外に出る。
そこは廊下だった。
長い廊下には、まったく見覚えがない。
ここにどうやって来たのか、なんでいるのかもわからない。
「どこへ行けばいいんだ……」
おれはそうつぶやいて、見たこともない廊下を歩こうとしてふと立ち止まる。
「ろうか」ってなんだ?
ふと頭に浮かんだが、そもそも「ろうか」ってどういう意味だ?
この長く続く白い道のことだろうか。
だけど、おれはどこへ向かえばいいのかわからない。
そうだ、だれかに道を聞こう。
おれはちょうど目の前にやってきた女性に声をかける。
「すみません。あの、ここは一体、どこなんですか?」
おれの言葉に、女性――ひどく派手な服装をしているけど、やさしそうだ。
そんな女性は驚いたような顔をした。
「カケル、なにその冗談ー。ぜんっぜんおもしろくないんだけど」
そういって笑いだす。
おれが訳がわからないという顔をしていると、女性はぴたりと笑うのをやめた。
「え、本気でいってる?」
「はい。ここがどこなのか、どうしてここにいるのかも、わからず……」
「じゃあ、わたしのことも?」
「初めて見ます」
「まじかー」
女性は額に手を当てた。
それからこう聞いてくる。
「自分が誰かもわからない?」
「はい。まったく」
「……なるほど」
女性はそういうと、おれの腕をつかんだ。
「着いてきて」