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アイネと巨魔と大人達③




 間に合わなかった。

 すまんな相棒。

 お前の嫁さんに娘に謝ることもできなかった。

 俺ももう駄目だ。

 蟲が身体中を這い回りやがる。

 もう脳味噌まで喰い散らかしているのかもな。

 頭が熱い。

 クソが。白仮面に狐女。どこかで、せせら笑っていやがるんだろうな。



 巨魔トロルの視界が真っ赤に染まった。

 グルンと瞳が裏返ったかと思えば、橙の瞳は赤く染まり瞳孔が縦に絞られた。






 巨魔トロルとの死闘は苛烈を極めた。


 初撃を右太腿に受けた巨魔トロルは身体をよろめかせたのだが、転倒するのを踏み留まると、宙で身体を捻ろうとしたアドルフを裏拳で吹き飛ばしたのだ。打撃自体はカミルが張った<魔力の殻>のおかげでアドルフの身体には通らなかったが、二度も三度も身体を転がしたアドルフは洞窟の奥で大の字になった。

 巨魔トロルは巨躯に似合わず、目にも留まらぬ素早さで追撃に出た。


「アドルフ!」


 アッシュは左手で左脚を叩き術式を展開すると、雷撃のように巨魔トロルに飛びかかり背後から肩を斬りつけた。それはうなじを両断する一撃であったはずだが、巨魔トロルはわずかばかり左に身体を弾き致命の一撃を逸らした。

 そして、硬い皮膚は黒鋼の刃をいとも簡単に弾き、アッシュは堪らず宙で身体を開いてしまった。巨魔トロルは、今では赤黒くなった蛇のような瞳でそれを捉えると、咄嗟にアッシュの脚を捕まえ、起きあがろうとしたアドルフに投げつけた。二人が激突すると、それぞれが纏った<魔力の殻>が破られてしまう。


「すみません、アドルフ!」

「大丈夫です! 来ます!」


 二人は互いに視線を絡ませると、迫り来る巨魔トロルを、アドルフは右にアッシュは左に身体を旋回させて回避する。それに巨魔トロルはアドルフを標的に左脚を軸に身体を捻り、大木のような腕を振り抜いた。凄まじい早さに、そして鋭さだった。下手に跳躍すれば神速の動きで捕らえられ、背後を取ろうとすれば、それは気付かれる。

 だから振り抜かれた腕をアドルフは回避することを諦め、短剣を十字に構え、打撃を受け止めた。


 しかし、それはあまりにも重く鋭かった。

 構えた短剣は弾かれ、アドルフは身体を仰け反らせてしまう。

 胸がガラ空きになってしまった。


「クソ!」


 アッシュは、巨魔トロルの動きに罵声を浴びせ、今まさにアドルフの胸を目掛けて突き出されようとした左の手刀を背後から斬り付けた。


「駄目ですアッシュ!」


 アドルフの絶叫に巨魔トロルは甲高い咆哮をあげ、左腕を突き出す動作に重ね左脇下から右腕を潜らせるよう身体を反転させたのだ。


 それは巨魔トロルの誘いだった。

 元は<外環の狩人>。相当な戦いの経験から徒手空拳の型が身に染みているのだろう。巨魔トロルは、そのまま前に出た左の手刀でアッシュの肩を撃ち抜いた。声も出せず地面に叩きつけられたアッシュは、追撃にきた巨魔トロルの左の踏みつけを、身体を転がしかわすのがやっとだった。

 そこまでの瞬く間に体勢を立て直したアドルフは、それ以上の追撃を阻止するため「おい! 木偶の坊!」と短剣を投げ捨てた。こうなっては間合いを活かした闘いはこちらの不利となる。相手はその巨躯を自在に、神速で操る鬼神のような化け物だ。


 ならば相手を受け流し、一撃必殺を撃ち込むしか方法は無い。そう判断したのだ。アドルフは左の手刀を前に突き出し、右拳を脇に絞った。

 巨魔トロルは、それに小さく呻くと両腕をだらりと垂らし前屈みになる。右脚を後ろに引き、どうやらアドルフとの間を測っているようだった。


「アドルフ——」


 弱々しく云ったアッシュ。

 なんとかその場に立ち上がり額から滴る血を腕で拭いさる。


「下がっていて下さい。ネリスさんお願いします」


 アドルフはネリスにそう云うと、ネリスは「おう」と、よろよろとしたアッシュに肩を貸し後退をした。それにアッシュは「大丈夫です、まだいけます」と振り解こうとしたがネリスに「あの間に入ったら駄目だアドルフの邪魔をしちまう」と止められた。

 そこからの激闘は凄まじい速さの中で撃ち合う格闘戦だった。

 巨魔トロルの一撃は、耳に届くほど「ドン!」と音を鳴らし、その度にアドルフの身体を軋ませた。方やアドルフの連撃は巨魔トロルの防御を誘いながら隙を伺い、蹴りを中心にやはり音を鳴らす一撃を見舞うものだった。

 洞窟内の空気が拳と脚が鳴らす音に震えた。

 アッシュはその神域の闘いにすっかり目を奪われていた。すると、頭の中に何か沸々と湧き出てくるのがわかった。


 <謄写の眼>。

 それはアッシュが記憶を失った際に得たものだ。

 神速の撃ち合いがアッシュの目の前で引き伸ばされ、巨魔トロルの腕が突き出される瞬間、その筋肉が収縮する様子だったり、拳を受け流したアドルフの脚の動きだったり、そんなものが認識できる筈もないのにアッシュにはそれが理解できた。

 その途端だ——頭の中で何かが弾けた。

 アッシュはそれに激しい頭痛を覚え片膝を付いてしまう。


「アッシュさん、大丈夫ですか!?」

「アッシュ大丈夫!?」激しくも繊細なこの闘いに手をこまねいていたカミルとアイネがアッシュに駆け寄った。

「ああ、大丈夫だよ」

 痛みに顔を歪ませてはいたが、アッシュは小さな友人に微笑みかけた。

 そうして、目の前で仁王立ちするネリスの背後で、カミルの肩を借りて立ち上がった。






 出鱈目で考えなしで乱暴に思えた巨魔トロルの拳は正確にアドルフの動きを封じに来た。出鱈目で考えなしで乱暴であったけれども、それは計算されている。

 巨魔トロルの猛攻は続いた。

 左の拳が特に強烈で、まともに受ければ骨が軋む。その音が耳に届く程だ。厄介なのが巨魔トロルの動体視力だ。アドルフは訓練された野伏であり卓越した体術を操る。それは、そんじょそこらの格闘家が相手にできるようなものではない。しかし、この巨魔トロルはそれについてくる。


 むしろ、脚術においてはアドルフを凌駕する。

 回し蹴りは宙で器用に方向を変え、まるで蛇のように動き、確実に顔面を捉えようとする。それを裁くためにこちらの脚を止めれば拳が側面を襲ってくる。

 得物を持てば神速で封じられ、格闘戦に持ち込めば翻弄される。

 完全に封殺されている。これはジリ貧な状態といってよい。

 予断を許さない闘いのなかアドルフは横目に、アッシュが立ち上がるのを見た。


「アッシュさん、大丈夫ですから! 二人を守って下さい!」

「しかし! それでは!」とアッシュがカミルとアイネを掻き分け前に躍り出た。


 アドルフは防御に徹するなか、次第に巨魔トロルの繰り出す型へ癖を認めると、それを測り、牽制のために突き出された右腕を脇に抱えた。すかさず、身体を捻り巨魔トロルの関節を折るとようやく背中を地面につけさせたのだ。


「そうやって、なんでもかんでも拾おうとしないでください! あなたが、ここで命を落としてしまえば、先生が悲しみます! もうこれ以上、先生を——」


 巨魔トロルの巨躯を腹這いにしたアドルフは右腕を捻りあげ、右脚で背中を押さえつけたが、言葉が終わらぬうちに振り解かれてしまった。ダラリとした右腕を鞭のように振るった巨魔トロルは見事にアドルフを捉え、壁に向かって吹き飛ばした。






 なんだって云うんだ。

 アドルフとアオイドスの二人は何時だって大事な時に姿はなく、それが終わる頃にやってくる。そしてこう云うのだ「大丈夫、わかっていたことだから」と。


 大崩壊で命を救われたことも聞いている。

 自分が魔力暴走をした時だって助けてくれた。クレイトンでもそうだ。しかし、どうも腹落ちが悪いのだ。<外環の狩人>の中でも二人の存在は特別に感じている。そこはかとなく、世界を観測し道を外そうとするならば、それを正そうとしているようにも思え、そして、それがどうにも鼻につく。


 彼らは、にエステルを駒のように使おうとしている。

 それがアッシュは許せなかった。しかし、それを承諾したエステルの気持ちがどこにあるのかは分からない。だから、今はそれを尊重し、自分は自分の役割を果たそうと、アッシュは思っている。

 しかし——先生を悲しませるな? 自分とアオイドスの間に、どんな関係があると云うんだ。アッシュがそう憤る頃、闘いの場の空気が一変した。






「ご、こ、ご、ころして。殺してくれ。蟲が、蟲が」


 アドルフを吹き飛ばした巨魔トロルは、右腕をダラリと垂らし前屈みのまま動かなくなると、突然に唐突に忽然に言葉を発したのだ。そして、沈黙が訪れた。

 壁際でぐったりとしたアドルフは、その沈黙の間に起き上がると、体勢を整え投げ捨てた短剣を拾い上げた。ネリスはそこへ駆け寄り咄嗟に<言の音>を紡ぎアドルフの傷を塞ぐ。

 アドルフはそれに「ありがとうございます」と小さく云うと、茫然としたアッシュを一瞥し、目を伏せ、立ち尽くした巨魔トロルをもう一度見据えた。


「頼む、このままだと——」

「やっと見つけた。あら、宵闇の鴉がそこに居るのかしら?」

「やめろやめろ」

「もっと良く見せて貰える?」


 奇妙な光景だった。

 立ち尽くした巨魔トロルは一歩も動かず、かぶりを垂らしたまま口を動かすと、まるで一人芝居のように語り出したのだ。一方は許しを乞うように言葉を口にし、一方は高慢で鼻持ちならない口調だ。その言葉の中に<宵闇の鴉>が聞こえると、アッシュは短剣を構え「どういうことですか」と慄いた。


「あなたを追うのを止めろとメリッサが云ったから、そうしたのだけれど。大収穫ね」

「頼む、もう許してくれ、殺してくれ」


 巨魔トロルはそう云うと、何かに抗っているのか首をぎこちなく動かし、顔をアッシュにむけると目を見開いた。


「ああ、初めましてねアッシュ・グラント。宵闇の鴉」腹の底から這い出るようなしゃがれた声が、巨魔トロルの口を伝いそう云うと、アッシュは「あ、あなたは誰ですか」と声を低く訊ねた。


「そうね、ごめんなさい。ミネルバ・ファイアスターター。白銀の魔女の獣よ」


 その名を耳にしたアッシュ、アドルフ、ネリスの三人は、雷に身体を打たれたかのように身体を動かしていた。三人の黒鋼の軌跡は光の速さで巨魔トロルの首に腕に脚に到達する。





 立ち尽くして見ていたカミルとアイネの目にもいつそうなったのかが認識できない程、それは瞬く間に起きた。


 刃が巨魔トロルに触れた途端だった。


「私に刃を向けるなんて。そんな男は死んでしまいなさい」

 しゃがれた醜い声がそう云うと、飛びかかった三人は何かに撃ち抜かれるように後方に投げ飛ばされ、血飛沫をあげ地面に転がった。

 そしてカミルとアイネは、そのおぞましい姿を目の当たりにする。

 巨魔トロルの背中を食い破り飛び出した三本の蠢く蟲が、うねうねとぬらぬらと踊り狂っていたのだ。


 口そのものが頭のような奇怪な蟲。

 それは丸く収縮する口から乳白色の触手を幾多も出したり引っ込めたりを繰り返すと、ぎょわわわわぎょわわわわと耳障りな水気を含んだ高音の唸りを響かせた。




「カミル、アイネ——」


 アッシュは何度も立ち上がろうとした。

 しかし蟲の強打に全身をやられ思うように身体が動かせない。

 気持ちだけが急いて頭が回らない。横を見れば、アドルフもネリスも苦悶の表情で身体をピクリとも動かせないでいる。


「あら、面白いお嬢さんが居るわね。女には興味がないのだけれど、あなたはちょっと違うわね」


 もはや蟲の苗床となった巨魔トロルは顔を動かすこともなく、口だけを動かす。きっとその視覚は蟲が補っているのだろう。三本の蟲はカミルとアイネの方へと身体を伸ばすと、二人の前で奇妙に蠢いたのだ。

 するとアッシュを先ほど襲った激しい頭痛が再び頭を打った。

 蟲の動きが緩慢となり、慄き後退りするカミルとアイネの動きが随分と緩やかになる。

 アイネは構えるとカミルの前に出て蟲を牽制する。


(あの短剣は——)







「これで何度目だ」


 緩慢とした時の流れのなか瞬きをしたアッシュが次に見たのは、ハーゼと対峙した際に見た不可思議な空間だった。アッシュはその黒々と赤々と渦巻くうねりに力無く揺蕩う。その奥深くなのか、はたまたは目の前なのか。からその声は聞こえた。


「三回目——?」

「随分と呑気な奴だな。最初の一回は儂が儂のためにやったからな。二回目ということになるな」

「バーナーズ」

「嗚呼」と、随分と低い鐘の音のような声が答えた。


 アッシュがその名を呼ぶと、忽然とアッシュの視界に巨躯の白狼が姿を現した。

 渦巻くうねりの中、それは、のしのしと歩き顔を近づけた。


「力を貸してほしい。カミルとアイネが危ないのです」

 赤黒い瞳を細めた白狼は「フン」と鼻を鳴らすと「次は何を差し出す?」と低く答え、その場で身体を丸めた。


「わかりません。バーナーズが望むものは?」


「前回は左耳。今回はそうだな——お前に訊いておきたいことがあるのだが、いいか? 時間は気にするな。お前が差し出すものはでは感覚の共有だ。お前が耳にしたものは儂にも届く。つまり、実際に奪われる訳ではない。しかしだ、お前の差し出すものがとしたらどうする? それでも力を欲するのか」


 アッシュはこれに迷いなく答えた。


「はい。僕の身がどうなってもです。レオンの時もそうでした。彼の——彼の誇りは護らなければ、ならなかった。だから僕は——」

「変わらんのだな、お前は」

「え?」

「いや、なんでもない気にするな。儂にも儂の事情がある。以前の儂はただ怒り狂う獣だったが今は——そうだな、ロアが余計な策を弄したからな、少々思うところが変わった」

「それは、どういう?」

 白狼は溜息をついたのか、ガフゥと声を漏らすと話を逸らすように「お前が対峙するあれは、<強欲>だな。確か——」と声をくぐもらせた。

「……ミネルバ・ファイアスターター」

 アッシュは話を逸らしたバーナーズに怪訝な表情で返した。

「おお、そうだ。そんな名前を与えられていたな。では、あいつを蹴散らすとしようか」

「それで対価は?」





「お前の左目を寄越せ」







「カミル逃げて!」


 アイネは震える身体を鼓舞するように声を張り上げた。

 時折、顔を寄せてくる蟲を短剣で牽制すると、少しづつだがカミルと後退をする。間合いを測りカミルが逃げだせる機会を待っていたのだ。


「駄目ですアイネ、置いていけない!」

 かぶりを大きく左右に振ったカミルは後退するのを辞め、杖を前に振りかざした。<魔力の矢>が迸り、展開された<魔力のつぶて>が、ぬらぬらと動く蟲に目がけ飛びかかった。


 魔力がダンダンダン! と爆ぜる。

 硝煙が撒き散らされ、あたりに薄青い煙が充満した。

 しかし、三本の蟲は器用に身体を動かし、硝煙を霧散させると、その内の一本がカミルの足元を強打した。カミルはこれをヒラリと避けると、二歩後ろに下がる。

 と、再び矢を放つと、次の追撃では杖を横に薙ぎ払う。その軌跡に合わせ研ぎ澄まされた魔力の刃が後を追い蟲の顎下を捉えたが、鈍い弾ける音がオゥンと鳴った。


「魔力が全く通らない!」

 弾かれてしまった魔力の刃は砕け散ると、青い残滓を残し消えてしまった。アイネは、顔を地面にした蟲の身体を掻い潜りカミルの元に駆け寄った。その際に首下の柔らかな皮膚の部分を黒鋼の短剣で斬り裂いたのか、蟲は一瞬悶えると、底から血を噴き出した。


「この私から何かを奪おうなどと思わないことね! 私は強欲よ。血の一滴でさえも、奪わせるつもりはな——」


 予想外の斬撃と裂傷に怒ったのか、巨魔トロルは、語気強く言い放ったのだが、それは、云い終わることなく途絶えた。すると、三本の蟲は突然に踠き苦しみ始め、身体を強く地面に打ち付け、しまいには互いの身体を激突させた。


 それに合わせ泥水が飛沫をあげ、あたり一面の壁を濡らす。

 バシャンバシャンと音を立て猛り狂う蟲と蟲の合間に、カミルは彼の姿を認めた。


 いつの間にか気を取り戻したアッシュの姿だった。

 カミルとアイネは、パッと顔を明るくし彼の名前を呼ぼうとした。しかし、その声を二人は呑み込んだ。

 アッシュは沸き立つ赤黒い煙を身に纏い、目を見開く。双眸に浮かぶのは黒瞳であった筈。しかし今それの左は赤黒く燃え盛り瞳孔を縦に絞った。


 ゆらりと立ち上がったアッシュは短剣を構えると、その場から忽然と姿を消し、瞬く間に巨魔トロルの前に立った。カミルとアイネに気を取られていた巨魔トロルは、それに気がつくと、もう言葉を口にすることが出来なくなっていた。アッシュは饒舌に動いた巨魔トロルの口の中へ短剣を埋め込んだ。


「名を与えられて以来、初の邂逅だな<強欲>」


 突き立てた短剣をグイっと押し込みアッシュはそう云った。

 鮮血が噴き出しアッシュの身体を濡らす。


 巨魔トロルは赤黒い目を瞬かせ「んんんん」と何かを口にしようするが、それは出来ない。短剣は喉元奥深くに食い込み、舌の動きを邪魔をし、何よりも溢れ出る血に口を塞がれているからだ。


「これでは喋れぬか」


 それに目を丸くしたアッシュは吐き捨てるように云うと、ぐぐぐと力を込め短剣を引き抜きながら巨躯を蹴りつける。噴き出る鮮血に巨魔トロルはむせ返ると「随分なご挨拶ね」と、ようやくそれを口にした。

 先ほどまでカミルとアイネを追い回した蟲は、今ではアッシュを眼下に見下ろす位置から、威嚇するように蠢いた。


「そうね、気が遠くなるほど昔だったかもしれないし、つい最近だったかもしれない。でも、あなたが<宵闇の鴉>を侵食しているなんて話は聞いていなかったわね。ねぇ憤怒。色欲が消滅しそうになったようだったけれども、あれは、あなたの仕業?」


「いいや。儂ではない。この男の深淵に触れようとした色欲が向こうに取り込まれそうになった。といったところだろうな。儂はこの男の深淵に触れてしまいこの通りだ。尤もこの忌々しい封印は聖霊どもの仕業だがな」


「そう。深淵の向こうには?」


「さあな。それを垣間見た途端、この男が儂に名を与え縛ったのだよ——さあ、お喋りはここまでだ。この男はそこの童を助けたいのだそうだ。そこで相談だが、ここで退いてはくれまいか? そうすれば、ここでお前の自尊心を引き裂くのだけは勘弁してやるぞ」


 狩猟短剣を構え、巨魔トロルに切っ先を向けアッシュはそう云った。

 それに巨魔トロルは「わかりました——」と口にするが、二歩後退すると「と、でも云うと思ったの? 馬鹿馬鹿しい」と三本の蟲をアッシュに眼前で踊らせた。







「アッシュさん——」


 アドルフは吹き飛ばされた際に後頭部を強打し半ば脳震盪を起こしていた。吐き気を覚える意識の中、豹変したアッシュを視界に捉えた。あれは自分の知っている、どちらのアッシュでもない。無骨で粗野で何処か冷ややかな<宵闇の鴉>と呼ばれた男でも、純粋で真っ直ぐで何処か熱さを感じるアッシュ・グラントでも無い。


 アドルフが感じたのは、禍々しさと神々しさの狭間の不確かさだった。

 それは荒神こうじんの佇まいのようで、畏怖と畏敬の念でアドルフは彼を見ていた。


「まるでそれじゃ——」アドルフは呟くと、片膝で身体を起こし隣で転げた酒樽のようになったネリスの脇を支え引き上げると「魔神じゃないですか——」と、最後の方は何を云ったのかは解らなかったが、そう呟いた。




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