ぎょわわわ! ぎょわわわ! ぎょわわわ!
三本の蟲はぬらりとした身体を互いにぶつけ合いながら目の前の男に襲い掛かる。しかし、それを迎え撃つアッシュが赤黒く輝く——まるで燃えているような——左の瞳を更に激らせると、蟲は何かに激突するように弾かれ身体を弓形に歪ませた。
蟲は口から這い出て蠢く白い細い触手を激しく動かし、自身を阻んだ見えざる壁に不快を露わにする。ぎょるるる! と小さくそれぞれが唸ると、次は身体を伸ばしアッシュの背後から頭を向かわせた。真上、左、右から蟲の頭が背後から急激に襲いくる。
アッシュはそれを目視する訳でもなく、その場で大きく跳躍すると身体を捻り、そして狩猟短剣——自身が造り出したアーティファクトだ——で蟲の一本を斬り落とした。
「そんな中途半端な侵蝕で全力は出しきれないだろ」
軽やかに着地をするアッシュは
「偉そうに。いけすかない狼ね。そういうあなたはどうなのよ」
「儂とて、完全ではないがな。だが、
斬り落とされた一本の蟲は、鮮血を噴き上げ跳ねるように地で、のたうちまわる。跳ねるたびに、ベチャベチャと耳障りな嫌な音をたて、アッシュとその周囲のアドルフ、ネリス、カミル、アイネの不快を誘った。
アイネはそれに堪らず目をそむけカミルの背中に顔を埋めた。
アッシュの言葉が終わるか終わらないかの間際、残りの二本の蟲が触手を撒き散らしアッシュに襲いかかる。
左から来た一本をアッシュは左の掌底で叩き落とす。
そのまま左に身体を旋回させながら右の一本の口を斬り裂き、その勢いのまま左脚の背面回し蹴りで同じく蟲を叩き落とし踏みつけた。
「もう一度訊くが、退いてはくれないか?」
アッシュは腹の底から響く一言でそう訊ねると、目を細め
「それもそうか」
「それに、その身体は魔女のものでしょ? あなた、魔女を裏切るつもり?」
「どうだろうな。儂が世界へ放たれた時に課せられた
「忘れた?」
「ああ、聖霊の手でここに封じられた時にな」
「ここ?」
「生命の起源、原初の海、その贋作。人が人の意志で触れられるだけの領域。その深淵はあの魔女でも知り得ぬようだがな——まあ良いさ。退く気がないのであれば——」
狩猟短剣がその言葉と共に青い粒子を巻き上げる。
短剣は消えてなくなる訳ではなく一層その厚みを増していった。そしてアッシュはそれを踏みつけた蟲の頸に当てがい「この場で消えろ」と短く吐き捨て、一文字に狩猟短剣を引き抜く。
瞬く間の静寂のあと、耳をつんざく奇声が蟲から放たれ、鮮血が飛沫をあげアッシュを赤黒く染め上げた。
頭を無くした蟲の胴は鞭打つように上下させる。
アッシュは、その合間を縫うようにゆっくりと
残された一本は狂ったようにアッシュに猛攻を仕掛けるのだが、一閃一閃その全てが子供をあしらうかのように去なされ、ついには「鬱陶しいぞ、狐」と斬り落とされた。
「嗚呼、
「お前は儂に『魔女を裏切るのか』と云ったが、お前らはどうなんだ」
「
「嗚呼、お前に暴食、傲慢は魔女の
「さあ、どうかしらね。何れにせよ、この場は退散するわ。憤怒また、合間みえましょう」
すると
アッシュは「嗚呼」と小さく漏らし、
「バーナーズ。その人を外環に還せないのですか?」
先ほどまでの腹の底から響くような声ではなく、どこか儚げで壊れてしまいそうな——本来のアッシュの声音が、そう口にした。
しかし、自らの問いに自ら答えるよう、今度は低い声で「お前のその力は厄介だな。そうも易々と儂の意識を掻き分けるか。まあ良い、この
「駄目だバーナーズ」
「黙れ。こうでもしなければ、この男の死はこの世で漂い不浄となるぞ」
「でも」
「でももヘチマもあるものか。黙ってろ」
赤黒い左目の瞳を忙しなく動かしたアッシュは、一人芝居のような問答を繰り返したかと思えば、沈黙し左腕を振りかぶった。すると、そのまま垂直に
その奥深くまで到達した左手が大きな肉塊を、むんずと掴んだ。それはドクドクと脈打ち、まだそれが鼓動していることをアッシュに知らせる。しかしアッシュはそれを感じると目を細め、ゆっくりと引き上げた。
どろどろとした赤黒い血溜まりの脇を鮮血が流れ落ち、ぐちゃぐちゃと嫌な音をたてながら、アッシュが掴んだそれは胸板から引き出された。
アッシュの左手に握られたのは、子供の頭ほどある心臓だった。
細々とした繊維質の血管や筋、左房右房から体内に張り巡らされた太い血管、そういったものが纏わりつく心臓はアッシュの左手の中で、奇妙に脈打っていた。
「あいつらは、これから<外環の雫>を引き出そうと? 随分と酔狂な話だな」
アッシュは静かにそれを引き上げ、眺め、呟くと、一時沈黙する。
そして、目を見開く。
足元の巨躯が少しばかり動くのを感じたのだ。アッシュは
言葉は失われていたはずだった。
しかし、
アッシュ——いや、憤怒のバーナーズはこれの介錯を買ってでたのだ。
ダフロイトでは終ぞそんな情を抱いたことはなかった。
それすらも今では遠く霧の向こう、追憶の向こう側の儚い影。その影を辿れば、ネリウス将軍が抱いた無念と憤怒に感化され、しょぼくれた狼は彼を喰らい復讐を果たそうとした——その想いだけは確かな記憶として、見ることができた。
だが、今のそれはまた違った。
アッシュが記憶を失ったように、憤怒もまた何かを失い今ここに居る。だからこそこの想いは真っ新な図録に書き加えられた雑味もない素直な気持ちなのかもしれない。
「戦士よ、己が矜持と共に逝け」
お前の世界に聖霊の原があるかどうかはわからない。だが戦士の魂は、かけた命の分だけ名誉と誇りと共に祝福され次の世で華開くだろうよ。アッシュは、ゆっくりとかぶりを縦に振り——そして、
※
アイネは小さく「やめて、やめて」とカミルの背中から目だけを覗かせ巨躯に立つアッシュの姿を見ていた。
左手に握られた心臓を、彼がどうしようとしているのか、アイネはわかっていた。ほんの僅かな時間、それこそ数刻もない合間の会話であったが、アイネは
だからアイネは「やめて」と小さく連呼していた。
しかし豹変したアッシュが迎えた結末は違った。
握り潰された心臓はまるで水袋が勢いよく破裂するように、心臓に溜まった血液を撒き散らし、今でこそ血塗られたアッシュの姿を赤黒く塗り重ねた。
巨躯に立ち尽くし、俯くアッシュの姿は、まるで悪魔のようで、こちらから垣間見える赤黒い瞳は狂っているように思えた。
それに堪らず目を逸らしたアイネは嗚咽を漏らし「なんでなんで殺したの」と非難の呟きを、嗚咽の合間に縫い込んだ。
その様子を背中で感じたカミルは何も云えなかった。
その気持ちはきっとアッシュが兄の頸を落とした時に感じたそれと一緒なのだ。そう思えばアイネの言葉は、その時に自分が口にしたのか、しなかったのかの違いだけだ。今ではアッシュが何故、兄の頸を落としたのかを理解しているからこそ、掛けてやれる言葉が見つけられない。
※
「アッシュさん……」
互いに寄り掛かり身体を支えあったアドルフとネリス。
アドルフはアッシュの姿に身震いをさせ、そう呟いた。荒神とは良く言ったもので、巨躯に立ち尽くすアッシュの血塗られた姿は、悍ましさと神々しさが鬩ぎ合い、まるでそれそのものが神話を描いた絵画のようだった。
「おい、アドルフ。ありゃ一体なんなんだ」堪らずネリスは身体を震わせアドルフを見上げた。
「わかりません。でも先生は、アッシュさんはそのうちに——」
「そのうちに……ってなんだよ? ——」
ネリスは理解の範疇を超えた存在に畏怖を抱き、それがどのような脅威であるのかを測りたいのだ。しかし、言葉を濁したアドルフに苛立ち急かすが、それを途中で諦めた。
アッシュが巨躯から降りこちらに向かってゆっくりと歩いて来たからだ。
※
「あ、アッシュさん?」
自分には目もくれず背中に隠れたアイネにだけ視線を落としたアッシュに、カミルはおずおずと声をかけた。しかし、それに返ってくる言葉はなく、アッシュはカミルとアイネの前に立ち尽くし彼らを黙って見下ろした。
赤黒い左の瞳をぐりぐりと動かしたアッシュは「やはり」と小さく漏らす。
アドルフとネリスはこれに得物を構えるが、アッシュはそれに「落ち着け、とって喰ったりせぬ」と云い加えた。
するとアッシュはアイネの目線に腰をおろし、カミルの背中に埋めたアイネの顔を覗き込んだ。
「娘よ。お前の父はコービー・ルエガー。野伏だったな。時間がない。先にお前には謝っておこう。お前の父の命を貰い受けたのは儂だ。お前の父は幾百の儂の兵を相手取り、そして儂との一騎打ちに命を散らした。次の世での邂逅を契りコービーは逝った。わかってくれとは云わぬ。だがこれは戦士の儀礼だ——すまなかった。そしてコービーは素晴らしい戦士だったぞ」
アイネはアッシュの顔を見ることなく押し黙り、口上を聞き届けると「あの時の将軍はどうしたの?」と小さく訊ねた。
棚田から見た父の勇姿。
それに立ち塞がった巨躯の男の姿——皆それをネリウス将軍と呼んだ——は、まるで昨日のことのように思い出せるほど、記憶の入り口に重々しく鎮座している。それはケイネスにエイベル、エメの姿とも紐付いている。想い出せば悲しみに押し殺されそうになり、小さな胸は張り裂けそうだ。だからロアと会った時も、どんな時でも記憶の入り口に蓋をするように明るく振る舞い、鎮座した悲痛の思い出を隠したのだ。
しかし——今まさに、それは顕現し目の前に
それは自分が敬愛するアッシュの姿だ。だからアイネは将軍の姿を求め、辻褄を合わせようとした。小さな胸の中を整理するために。だが、その答えは返ってくることは無かった。アッシュは目を閉じると、へなへなとその場に倒れ込んでしまったのだ。
※
「ネリスさん、アッシュさんの容態を」
アッシュの閉じた瞼を開き瞳孔を確かめるとアドルフは「良かった」と呟き、その後のことをネリスに頼んだ。ネリスは「おうよ」と駆け寄り早速アッシュに術を施す。緑色の仄かな輝きがアッシュを優しく包み込み、激しく消耗した彼の体力を回復していく。
アドルフはその姿に安堵の表情を浮かべ、今ではそのアッシュを心配そうに眺めたアイネのそばに腰を下ろし「ねえ、アイネ」と優しく語りかける。
アイネはそれに、おずおずと「うん」と相槌を打つと「アッシュは大丈夫なの? さっきのはアッシュなの?」と不安そうな表情を浮かべた。
「そうだね、さっきのはアッシュさんじゃないと思う。きっと違う何かだよ。僕たちには難しいから、そのことはアオイドスさんに任せよう。それでね、アイネ——」
その言葉に少なからず安堵したアイネはカミルを見上げ、微笑むと「うん」と相槌を打ちアドルフに顔を戻した。
「その短剣のことなのだけれども」
「うん。これ、お父さんの形見だよ」とアイネは足元に置かれた黒鋼の短剣——野伏の短剣——の柄を弄り、それに視線を落とした。
「それは、どこから取り出したの?」
「うん、こうやって。でもたまに失敗もするんだよ」
アイネが柄をきゅっと握ると、それは青い粒子となり消え去り、そしてアイネはそれを見届けると立ち上がった。一歩下がると両手を胸に掲げ力強く打ちつける。すると、再び青い粒子が弾け飛び、次の瞬間には黒鋼の短剣が二振り握られた。
「凄いねアイネ。それは僕たち狩人の業だよ。それをどうやって学んだの?」
「お父さんがいつもやっていたもの、見ていたら覚えていたよ」
「そっか。お母さんは?」
「ん? お母さんは出来ないよ。だってお母さんは病気で寝てばかりだったからね」
「そかそか。コービーさんもそうやって短剣を取り出していたのだね」
「うん。だって、
「ああ、うん——」
アドルフはその問いに曖昧に返した。
それよりも別の事に気持ちを持っていかれていたからだ。
コービーが<外環の狩人>だという事実は無いはずなのだ。
初めて農園で顔を合わせたとき、アドルフはコービーの名を知ることはできなかった——狩人同士であれば、初見であっても名を知ることができる。しかし、コービーは狩人の業を使っていたとアイネは云った。
一体何が起きているのか。
アドルフは、とある話を想い返していた——。