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亡者塚①




「アッシュさん、ちょっと待って。このお薬も鞄に入れておいてください。あ、もうほら下着も忘れている。普段、エステルさんに全部やってもらっているから、こうなるんですよ?」




 ブリタ・ラベリはアッシュの薬の配合を変えるため、ここ数日間、館を空けていたのだが昨日戻って来たのだ。帰ってきて早々にアイネが巻き起こした騒動のことを聞き不安そうにするエステルと共にアッシュ達の帰りを待っていた。

 そして明け方。帰って来たアドルフから「ブリタさん、帰っていたのですね。もう知れませんが——」と、王都への同行依頼を受け、それを快諾した。


 夕方には、翌朝に出発することが決定し館中が蜂の巣を突っついたような慌ただしさとなった。アッシュの主治医のようなブリタは、皆が慌ただしくしている中、ゆっくりと、そして不器用に身支度をするアッシュに世話を焼いていた。

 なんでだか、私生活では鈍臭いアッシュの行動が気になって仕方がない様子だ。





「いや、そんなことは無いのですけれども、なんで皆さんは、そんなにキビキビと支度出来るのです? 旅慣れているということですか?」

「いいえ、違うと思いますよ? ほら、胸当てまで忘れてる。旅行じゃないのですから、しっかりしてください」

「あああ、すみません、すみません——」




 アッシュが身支度を済ませ、ブリタと共に大広間に姿を現したのは、そろそろ夕食の支度が終わり旅立ち前の晩餐が始まる頃となった。

 ブリタを連れ立ってやってきたアッシュにエステルは憮然とし「何してたの?」と冷たく突き立てるとアッシュは「ごめんなさい、なかなか支度が終わらなくて」と、しどろもどろと答え、苦笑いをした。


 大広間に集まった面々へ粗方の旅程をアドルフが説明し終えると、リリーが「それじゃ難しい話は終わりにして食事にしましょう」と仕切り、一同はしばらくの間の別れに一路平安を願い大いに呑み、大いに食べた。

 セレシア、ポーリン、ステラ、トマ、クレモンの五人は暫くの間、エステルとアッシュの側から離れず、事あれば泣き出したりもしていた。しかし、夜も遅くなってくると、すっかりと、しっかりと、船を漕ぎ始め最後にはカミルとアイネが五人を部屋に連れて行ったのだ。


 それをアッシュは心配そうな面持ちで眺めていた。

 本当に子供達を残していって良いのだろうか? 大人の都合に巻き込んで、言い包め、呑み込ませ、彼らの言い分は聞いてやらない。それが果たして——そんな風に考えると、胸の奥がチクリと痛み、表情が曇ってしまう。


「大丈夫よアッシュ。後は私達に任せて、あなた達は……すっかりと、しっかりと役割を果たしてきなさい」


 アッシュの心持ちを知ってか知らずか、そして顔を赤らめたリリーがアッシュとエステルの間に立って、乱暴に二人の体を揺すってみせた。それにアッシュとエステルは「は、はい」と面食らい、それに答えた。

「あの子達、あなた達を両親のように慕っているけれどね、わかっているのよ。いつかは——そうね、今生の別れではないのだけれど、いつかは巣立たなければいけないってことをね。だから、特にアッシュは、ここで後ろ髪引っ張られていては駄目よ。アッシュは優しすぎるんだから。それって時には美徳ではなくなってしまうものよ」


 酔っているからなのか、それとも半ば素面なのかはわからなかったが、リリーのそんな説教じみた激励の言葉にアッシュは、どこか背中を押してもらえた気がした。そしてそれは、そこはかとなく、この先にあるエステルとの暫くの別れについても触れられているようにも思えた。

 だから、アッシュはいつになく腹の底から「確かに、そうですね」と声を漏らした。







 子供達が目覚める前にと、少々朝早く館を出発をしたアッシュ、アドルフ、エステル、ブリタの四人は、今もなお災厄の爪痕が残るクレイトン市街を馬で駆け抜けた。途中、市場へ立ち寄り旅に必要な保存食や飲み水の補給をすると、昼下がりを数刻過ぎた頃にはクレイトンの南大門を抜けていた。

 行手には、もくもくと白い雲が空のあちこちに山を作っている。その周りには兎に猫、はたまたは見る人が違えば憧れの人だったり、引っ叩きたくなる憎たらしいアイツの顔も雲が作り出す。


 つまり、最高で完璧で抜け目のない夏の空である。

 その完璧さと人の愚かしさが造った瓦礫の境界線を四人は思い思いに外套を羽織り馬を駆るのであった。

 頬を撫でる風は生暖かく少なからず湿気を帯びているのか、素肌に纏わりつくようだ。それに不快さを感じるにも関わらず、我慢をし外套を羽織っているものだから、全身に汗が噴き出てきてしまう。


 どうにもこうにも、やり辛い。

 しかし、前を駆けるアドルフにブリタは、そんな様子は一切感じさせなかった。これも<外環の狩人>の特徴なのかも知れない。アッシュとエステルは前の二人の姿を見て、そんなことを思っていた。


「暑くないですか、アドルフ?」

 汗を滲ませた額にへばり付く前髪を指先で払いのけながらアッシュはアドルフに訊ねてみた。それにアドルフは——確かにコレは狩人の特性ではあるが——まったく暑さを感じない訳ではないと、自身も薄っすらと額に汗を浮かばせた。

 そして、街道の先に横たわる<亡霊塚>と恐れられる洞窟の話しを聞かせ始めた。それは自分達が茹だるような暑さの中、外套を羽織る理由なのだそうだ。



 土鬼ノーム

 最初の種族、エルフの影から産まれた鬼。

 小賢しく猜疑の澱みに身を潜めるこの鬼は、夕闇と共に人里に紛れ込むと裏路地に寝転がる酔っ払い、客引きの娼婦、ゴロツキといった薄ら暗い裏通りの住民を更なる闇に引きずり込むと、貪るように喰らうのだ。

 その容姿は気取った老人のようであり、矮小なのだ。

 穴倉に潜むがゆえに腰が曲がり、それは走り出せば両手を地に付けるほどであるから闇夜で遭遇すれば、まるで猿が疾駆しているのではないかと見紛うこともある。


 しかし、顔を見る事さえできれば、ど真ん中にある気取った長っ鼻で、それが土鬼ノームであると気がつくことができるだろう。

 土鬼ノームは普段から闇に潜むが故に視力が退化している。しかし、それと引き換えに強力な嗅覚が備わるようになった。土鬼ノーム達は人の匂いを嗅ぎ分け、その集落を見出す。

 夏場にもなれば露わになる肌から香る匂いも強くなり土鬼ノーム達はより狡猾になり、自分達の好物である肌の柔らかい女子供を求め活発に巣から這い出てくる。

 そしてこの近辺にもそのコロニーが存在し、それは<亡霊塚>と呼ばれ人々はそこに寄り付かない。何度も狩人が討伐に向かうが、討伐されればまた違った氏族が巣食うのだ。いってみれば永遠と続くいたちごっこなのである。



「ですので、僕やアッシュさんは良い——訳でもないですが、ブリタさんやエステルさんは肌をできるだけ隠して頂いて——本当であれば十薬草どくだみそうの葉汁を肌に塗って欲しいのですが——街道を抜けたいのです。なので、昨晩は香油を使わないでとお願いしたのです。あれは、土鬼ノームも学習して人間の女性の匂いだとわかっているはずなので」


 颯爽と馬を駆るアドルフは巨魔トロル騒動のことはもうすっかり気にしていないようだった。方やのアッシュも、すっかりとすっきりと、という訳でもないのだろうが今は、わだかまりを心の隅にしまいこみ、懇切丁寧に説明をしてくれたアドルフの話に耳を傾けていた。

 それにブリタは、アドルフやアッシュが居るのに、何故そこまで警戒する必要があるのか? と訊ねた。

 アドルフは土鬼ノームの怖さは単体の強靭さではなく、その数であると答えた。


「彼等の個体は、それほどの脅威ではないのです。ですが、その数と狡猾さに翻弄されると厄介です。彼等は縄張りに幾つもの抜け道を準備し闇に紛れてしまいます。そうなってしまうと、僕達でも見つけ出すのに時間がかかってしまいます」

「ど、どれほどの数がいるの?」とエステルが声を震わせアドルフに訊ねた。

 それに振り返ったアドルフは、なぜか申し訳なさそうに「氏族あたり千は下らないかと……」と答えた。



 次第に西に落ち始めた陽射しが四人の騎影を東に伸ばしていた。

 アドルフはそれに「日が暮れる前には彼等の縄張りを通過しちゃいましょう」と軍馬の腹を軽く蹴り速度を上げた。


「アドルフさん、なぜそんな危険な場所を通って王都に向かうのですか?」

 ブリタが陽射しに輝く青みのある銀髪を靡かせながらアドルフに馬を寄せた。

「ええ、ご尤もな質問ですね」と馬を寄せたブリタにアドルフは静かに答えた。

「どうかしましたかアドルフ?」

 答えたアドルフに何か違和感を覚えたアッシュは、思わずそう訊ねたのだがアドルフは「いえ、僕の外套がブリタさんの邪魔をしちゃうかなって」となぜか照れ臭そうに答え、話を続けた。


「本当は平原を抜けて行きたいのですが、まだまだ災厄の影響で野党やら魔物が多いので陽のあるうちに抜けられる街道を通った方が、結果時間の節約になるかと思いまして。それに——」

「それに?」興味津々といった表情のブリタが更に馬を寄せてきた。

 アドルフは「ちょっとブリタさん、危ないですってば」と、やはり照れ臭そうにそういうと「それに、草原では夜になると塚人やら亡霊の類が徘徊して、やはり危険なので」と答えた。


 そんな様子を後ろから眺めていたエステルは、楽しそうに笑うアッシュの横顔に目をやると()と、何処か心中複雑な思いで怪訝な表情を浮かべた。


 四人はクレイトンを出て南に馬を走らせた。

 しばらく行けば南の大十字路に差し掛かり、それを西に折れれば王都フロンまでは一本道だ。懸念の<亡霊塚>はその少し手前に横たわる。だから早いところ塚を通過し、大十字路を折れようと速度を上げた。







 クレイトン南の大十字路。

 東側には切り立った岩場がそびえ、それを右手に少し北上すると所謂<監視所>と呼ばれる小さな砦が昼夜問わずに<亡霊塚>を監視をしている。腕試しの狩人がやってくれば、丸薬を売りつけ、斥候が偶然クレイトン商人と出会えば大十字路を越えるところまでの護衛を買って出る。勿論それは非公式であるから、報奨金は斥候の懐に消えてなくなる。


 セントバからやってきた商隊の護衛を買ってでたイラーリオ隊は、南の斥候を終え<監視所>に戻る際その商隊と出会った。もう陽が暮れるから十字路の手前で野営をしろと薦めたのだが、商隊はアムルダムに急いでいるらしく、イラーリオに十字路までの護衛を依頼したのだ。


 を抱いたイラーリオであったが、商人の娘に懇願され、渋々承諾をした。しかし、は、その名の通り嫌に的中した。

 その商隊とは、クレイトンの大災厄から逃げ出したとある商会とその家族のもので、セントバに一時身を寄せていたものの、アムルダムのシラク村へ移住をするのだそうだ。つまり、女子供も多く土鬼ノームの好物が集団で列を成してやってくる訳なのだ。



「女子供を馬車の中へ! 武器を持てるヤツは馬車を取り囲むんだ! 火をもっと掲げろ! そうだ! 松明でもなんでもいい、アイツらは光を嫌う! 積荷の中に何か匂いのキツイものはないのか!? なんでも良いから匂いのキツイものを身にすり込め! まだ間に合う、急げ!」


 周囲に不穏な空気を感じたイラーリオは、時すでに遅しと判断し大声を張り上げ、商隊の面々へ指示を飛ばした。あと少しで<監視所>に辿り着くというところであったから、早馬を一騎走らせ援軍の要請もした。


 黄昏時の街道。

 商隊はそれに、にわかに騒めきはじめたが、それだけだった。

 草むらに耳を澄ませば、夏虫の鳴き声と微風に葉が身を擦らせる軽やかな音だけが聞こえた。

 だから、野営をしろと云ったんだ。とんだものを拾っちまったなこりゃ。

 その静けさに、むしろ違和感を感じたイラーリオは心中そう思い、少々苛立った。

 先ほどの商人の娘が駆け寄ってきて「戦士様、大丈夫でしょうか?」と訊ねると「馬車に入ってろと云ったろう、死にたいのか」と苛立ちを露わに娘を突っ返した。


 云い過ぎたか。


 イラーリオは表情を曇らせ振り返り馬車に小走りする娘の背中を眺めると、そこはかとなく後悔をした。しかし、これで良いのだ。何もなければそれで良い。しかしだ、先程から草むらから感じる気配は、そうでないことをイラーリオへ知らせている。


 そしてその時は突然やってきたのだ。

 小走りをした娘の身体が不自然に左にくの字に曲がったかと思うと、草むらに引き込まれ「きゃあああ!」と悲鳴をあげたのだ。

 それを合図と一斉に草むらが騒めき始め、黄昏時の陽の光の中に無数の小さな黒い影が現れたのだ。


 皆一様に大人の腹くらいまでの背格好で肌はどす黒く、思い思いに革の鎧や、くたびれた衣服を纏っていた。それらは素早く動き、手にした錆だらけの短剣でイラーリオ隊に、武器を手にした商隊の男供に襲い掛かった。


土鬼ノームだ! 迎え撃て!」


 イラーリオは力の限りの声を張り上げた。

 草むらに影という影から湧き出てくる土鬼ノームの数を十までは数えたが、それ以上はもう数えられない程にわらわらと湧き出てくる。

 どれほどの土鬼ノームの頸を斬り飛ばしたかわからない。

 それでもあちこちの馬車から悲鳴があがり、その周囲では隊の戦士が土鬼ノームと切り結ぶが、それでも間に合わない。どんどんと馬車という馬車の中に土鬼ノームが飛び込んでいくのだ。


 数が多過ぎた。


 それはまさに数の暴力であり、数の蹂躙だった。

 隊の戦士が土鬼ノーム一体と切り結べば、そこへ数十体の土鬼ノームが飛びかかる。それに翻弄された戦士は、最初は軽い切り傷を見ない振りをし踏みとどまるのだが、それが重なれば重なるほどに傷が深くなり、最後には土鬼ノームの塊の中に姿を沈める。


「一人で相手にするな、背中を護れ!」

 それにイラーリオは単身、分厚く数が固まる土鬼ノームの中心で数多くの頸を飛ばしながら戦士達、男達に声を掛けた。


 しかし——。


 ローブを引き剥がされた女達が馬車から飛び降り悲鳴をあげ逃げ出した。

 泣き叫ぶ子供達は馬車から転げ落ち、馬車の下へ身を隠すが、それは土鬼ノームに見つかり引きずり出された。戦士達は数に圧倒され、一人また一人と街道の血溜まりをつくり沈んでいった。

 もう駄目だ——商隊の半分でも逃げ出せれば御の字か。

 イラーリオの目の前が真っ赤に染まった。

 背中に冷たく熱いものを感じた。きっとそれは土鬼ノームのあの錆びた短剣の刀身の感触だ。


 毒よりもタチが悪いじゃねぇか、クソッタレ。







「アドルフ!」

「わかっています! ブリタさんとエステルさんは後ろに!」


 街道を南下していたアッシュ達は岩場に穿たれた<亡霊塚>を通過すると、<監視所>からわらわらと軍馬が南に駆けていくのを見かけたのだ。それを追いかけるように南に速度を上げてみると大十字路の先に喧騒を感じ、そこへ急行したのだ。


 アッシュが目にしたのは黄昏の中燃え上がる幾つもの馬車に、ぼろ雑巾のように朽ちた戦士、あちこちを食い破られた女に子供、そして——それに群がる黒い人型の何か。


土鬼ノームです」


 アドルフは顔を歪め短くそう云った。

 アッシュは素早く軍馬の首へ<言の音>を書き殴った。

 軍馬はそれに力を得たのか、他の馬を置き去りにし、あらぬ速さでその群れに突進していったのだ。顔を上げてみれば南に伸びた隊列の半分はまだ無事のようだったが、それに気がついた黒い群れがそちらに押し寄せようと動き始めた。


 アッシュは、その惨劇に目を白黒させた。

 駆ける背景に流れて行く死屍累々の光景に吐き気を覚え嘔吐しそうになるが、しかし、行手で死肉を喰らう土鬼ノームを見つけると、短剣を呼び出し馬上から素っ首を斬り落とした。そしてそのまま、今まさに南に押し寄せようとする黒い群れに追いつくと馬から飛び降りたのだ。

 先行してしまったアッシュにアドルフは「駄目ですアッシュさん!」と叫んだが、アッシュの耳にその声は届かなかった。


「アッシュさん!」

「アッシュ!」


 ブリタとエステルも、それに悲痛の叫び声を上げた。


 アッシュは黒い群れのど真ん中に降り立った。

 無数の土鬼ノームは、それに面食らい奇声を発しアッシュを威嚇する。

 その群れの中では、人を喰うものも人を犯すものもいた。

 アッシュはその光景に目を大きく見開くと「お前達、何をしているんだ」と小さく口にした。土鬼ノームはそれに、ギャギャと奇声を発し短剣やら斬り落とした男のかぶりを突き出し威嚇をやめない。


「何をしているんだと訊いているんだ!」


 アッシュの怒声が街道に響き渡った。

 西の地平線にそろそろ陽が落ちてゆく。

 それまで騒ぎ立てていた土鬼ノーム達の奇声はアッシュの怒声に瞬く間なりをひそめた。夏虫の鳴き声が落ちてゆく陽を惜しむように大きくなった気がした。


 それが起きたのは、とある土鬼ノームが隣の土鬼ノームを小突き何かを促した時だった。緑色に輝いたアッシュが忽然とその場から姿を消し、群れのあちこちで土鬼ノームの断末魔の声が上がり、無数の頸が宙を舞ったのだ。


 ギャギャギャギャギャギャギャギャ!


 それと同時に再び辺りが騒然とするとアドルフ達も群れに追いつき土鬼ノームを、狩り始めたのだった。

 突然吹き荒ぶ死の嵐。

 アッシュの剣戟はまさにそういうものだった。いや、剣戟というにはあまりにも一方的で土鬼ノームは、それに気がつく間も与えられずに死を迎えていった。







(ありゃ一体なんだ……死神かなんかか?)


 片腕を斬り落とされ、なおも左腕を喰い千切られそうになっていたイラーリオだったが、木霊した誰かの声に、突然逃げ惑う土鬼ノームの合間で狂おしく頸を斬り飛ばしていく男の姿を見つけた。


 その男は、緑色に輝く魔力の残滓で軌跡を描き、どす黒い赤い華を咲かせていっているように見えた。無心に静かでそして狂おしい。相反する様相は、その男の心情を表しているのか。イラーリオは沈んでいく自分の意識の中で(なんだ、そうか、ありゃ魔神か)と、どこか腹落ちをしたようにそう思った。


「大丈夫ですか!? 今手当を!」

「おお、今度はなんだ赤髪と銀髪の女神様か、随分とてんこ盛りな戦場だな」

 ブリタに抱きかかえられたイラーリオは朦朧とした意識の中、手当を始めたエステルを眺めるとそんな減らず口で強がって見せたのだが、とうとう意識を失ってしまった。


「エステルさん?」

「大丈夫、傷は塞がりましたが腕は駄目でした——」

「お二人とも大丈夫ですか?」

 手当をした二人を護ったアドルフは土鬼ノームと斬り結びながら最後の頸を跳ねると、声をかけ「足を止めたら不味いです」と意識を失った戦士を抱きかかえた。二人は「はい」と立ち上がり、戦士を抱えたアドルフの周囲に注意を払い移動した。







 ただただ猛り狂う何かがアッシュを突き動かしていた。

 惨劇を目の当たりにし、最初は泣き叫ぶ女子供の声に耳を塞ぎたくなる思いだった。

 助けて助けて! 殺してくれ! お母さん! お父さん! やめて! あなた!

 様々な絶叫が頭の中を駆け回ると、頭の中で何かが弾けたのだ。

 怒り、憤り、壊してやれ、何もかも。

 幾つもの土鬼ノームの頸が跳び、腕が宙を舞う。

 そして心に去来する声が囁いた——何で私を助けてくれないの?


 わからない。ここに居たのは偶然なんだ。助けてやりたいさ。でもどうすれば良かったんだ。この惨劇はせいだというのか?

 転がった土鬼ノームのかぶりを踏みつけ砕き、次の土鬼ノームの腑を抉る。


 その時だった背中に何かを感じたのだ。

 条件反射的に、その何かを鷲掴みにしたアッシュは黒鋼の刃をそちらに向けた。


「アッシュさん、気を確かに! 私ですブリタです!」

「ブリタさん?」


 アッシュが鷲掴みにしたのは、背中を合わせたブリタの肩だった。

 気がつけば、今腹を抉ったのが最後の土鬼ノームだった。

 身体のあちこちが鋭く熱い。気を緩めれば次第にそれは痛みに変わっていった。

 無心に無謀に狂ったように土鬼ノームの群れの中で斬り結んだアッシュは、気が付かないうちに有象無象から刃を浴びていたのだ。


 アドルフに護られながらエステルは怪我人の手当をする最中、次第に腕や脚から血飛沫を上げたアッシュの姿に悲鳴をあげ、それにブリタは堪らずアッシュの背中を護りに加勢へ入ったのだった。薬師であるブリタであったが、そこは外環の狩人。戦いの場には馴れているようで器用に立ち回りながら一心不乱に闘うアッシュの補助を見事にこなした。


「大丈夫です、もう大丈夫です。だから短剣を降ろしてください」

 ブリタはそう云うとアッシュの右手に手を添え、ゆっくりと下に導いていった。

 放心状態のアッシュは、導かれるままに手を下ろし、そして「僕は何を」と小さく呟いた。


土鬼ノームの群れを壊滅したのですよ。商隊の生き残りもちゃんと居ます。だから大丈夫。よく頑張りました」


 アッシュはその言葉を聞くと、ぐるりと視線を回し——そして、その場に崩れ落ちるように膝をついた。

 すっかり陽は暮れてしまったが、燃え盛る馬車があちこちで篝火となりこの惨劇の様相を闇夜の中で浮き彫りにしていた。生き残った商隊の人々はそこへ駆け寄り、思い思いにまだ息のある者の手当や、姿が見えなくなってしまった友人知人を探したりをした。


 満天の星々は地上の光景とは無縁とばかりに、冷ややかに街道を見おろしていた。




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