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第13話 屋上での約束

人混みがはけると、星野美友紀は物理の問題集を取り出し、黙々と解き始めた。


その視線の外で、さっき質問していた女生徒がこっそり階段の隅へと向かった。曲がり角にもたれる加瀬敦司の姿を見つけ、目を輝かせる。


近づいた瞬間、言葉を発する前に分厚い札束を手渡された。


「よくやったな。」加瀬は余裕の笑みを浮かべて、「ご褒美だよ。」


立ち去ろうとした加瀬の服の裾を、彼女が勢いよく掴む。


振り返ると、少女は頬を赤らめ、恥ずかしそうに声を絞り出した。「お、お金はいらないの。良かったら……ご飯でもどう?」


加瀬はその意図を察して、優しく手首を握り、服を引き戻した。


「君はいい子だけど、ごめんね。」彼は穏やかながらも距離を感じさせる口調で答えた。「同じクラスの子には手を出さないんだ。」


それが彼なりの断りだった。


「じゃあ、クラス変えたら?」彼女は諦めきれずに言う。


だが、加瀬はもう振り返ることなく去っていった。


……


気のせいだろうか。


星野美友紀は今日一日、中島陽介の視線が自分に向いている気がして仕方なかった。


聞く勇気も出ず、きっと自意識過剰だろうと思い込もうとした。


午前の授業をなんとかやり過ごし、午後の音楽や美術の授業は休みを取り、まっすぐ物理研究部の部室へ向かった。


部屋に入ると、渡辺雅彦がコントロール台の前で真剣な面持ちで立っていた。


昨日からの疑問が頭をよぎったが、今は邪魔をしないほうがいいと判断し、部屋の隅のコントロール台に向かった。


実験データの更新がうまくいき、星野美友紀は満足げに手を振った。


そのとき、渡辺の声が突然耳元で響いた。「また新しいアプローチを見つけたのかい?」


前回とは違い、今回は少し誇らしげに、実験の手順や方法を細かく説明した。


前回は前世の記憶に頼った部分があり、どこか後ろめたさがあったが、今回は自分で見つけた成果だったからだ。


「君はいつも驚かせてくれるね。」


渡辺が彼女の耳元に近づき、温かい吐息が頬に触れた。思わずその距離感と声色に身を引きたくなる。


だが、彼の大きな手が先に彼女の肩にそっと触れた。その温もりがじんわりと伝わり、彼女は反射的に身をよじった。


しかし、動く間もなく、渡辺はすぐに手を離した。


「でも、その考え方なら、別の道も見つかるかもしれない。たとえば……」


今度はコントロール台に向かい、さっきの距離も空気もなかったかのように話し始める。


星野美友紀は気を取り直し、渡辺の言葉に従って一つ一つ推論を重ねていく。


「じゃあ……試してみる?」


二人は息を合わせ、新しい案を探りながら何度も失敗と修正を繰り返した。


「ダメか……じゃあ、こっちの方法は?」


「これも無理か……」


……


「できた!」


星野美友紀は興奮を隠しきれず、振り向いて渡辺とハイタッチをした。


渡辺は手を上げたまま少し呆然とし、彼女がすぐに成果物を見に戻る姿を見つめていた。


不思議と、彼女の笑顔が頭から離れなかった。


浮かせた手を無意識に胸に当てる。


なんだろう、この気持ち……


星野美友紀は作品をじっくりと確認し、満足して息をついた。そのとき、ずっと気になっていたことを思い出す。


振り返ると、渡辺がどこか上の空の様子。声をかけようとした瞬間、彼が先に口を開いた。


「美友紀、ネットでのエントリーは済んだ?」


星野美友紀はきょとんとし、すぐさま首を振った。「そんなのあったの?」


「早めにやったほうがいいよ。」渡辺は変わらず穏やかな口調だ。


「でも、やり方が分からなくて……」


「スマホ貸して。手伝うよ。」


困っている様子を見て、渡辺は微笑みながら言葉を遮った。


星野美友紀はためらいもせず、スマホを差し出す。


「渡辺くん、ちょっとトイレ行ってくるね。パスワードは190401、エントリーお願い!」


彼女が迷いなく立ち去る背中を見送りながら、渡辺はまた胸に手を置いた。


嬉しかった。


こんなにも自分を信頼してくれている。


スマホのパスワードまで教えてくれるなんて。


ただ――


素早くパスワードを入力し、画面が明るくなる。可愛らしい壁紙と整然としたホーム画面に目を落とし、ふと考え込んだ。


このパスワード、何か意味があるのか?


知る限り、星野美友紀の誕生日は4月1日じゃない。


中島陽介も違う。


と、ふと思い至る。


星野美友紀が高2の4月1日に入学したのは確か、2019年――


じゃあ、4月1日は……


彼女の入学記念日?


指先に力が入り、今すぐパスワードを変えたい衝動を堪えて、LINEを開く。


LINEにはパスワードロックがかかっていなかった。


一番上にあるのは星野玲子と木下教授。


意外にも、中島陽介はピン留めされていない。


もちろん自分もだ。


複雑な気持ちを抱きつつ、エントリーページを開きながら、連絡先をスクロールしていく。


自分の名前は「渡辺先輩」と登録されており、どこか不満を感じた。


自分でこうなら、中島陽介はどうなっているのだろう。


妙な嫉妬心に駆られて、下まで探してみたが、中島陽介の名前はどこにもなかった。


「ダーリン」や「ベイビー」みたいな特別な呼び名も見当たらない。


つまり――


彼女の友達リストに、中島陽介はいない?


その事実に、ほんの少しだけ満足感を覚える。


だが、エントリーを書き込んでいる最中に、不意にメッセージが届いた。


【今夜8時、学校の屋上で待ってる。必ず来て。】


念のため、誰か分かるように署名もある。


【中島陽介】


やはり、中島陽介は彼女のLINE友達じゃなかった。


なぜか、星野美友紀にこのメッセージを見せたくなかった。


この約束に行かせたくない。


指先が震え、躊躇していると、トイレのドアが開いた。星野美友紀が戻ってきたので、渡辺は慌ててメッセージを削除し、エントリー画面に戻した。


「もうエントリーできた? 渡辺くん。」

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