人混みがはけると、星野美友紀は物理の問題集を取り出し、黙々と解き始めた。
その視線の外で、さっき質問していた女生徒がこっそり階段の隅へと向かった。曲がり角にもたれる加瀬敦司の姿を見つけ、目を輝かせる。
近づいた瞬間、言葉を発する前に分厚い札束を手渡された。
「よくやったな。」加瀬は余裕の笑みを浮かべて、「ご褒美だよ。」
立ち去ろうとした加瀬の服の裾を、彼女が勢いよく掴む。
振り返ると、少女は頬を赤らめ、恥ずかしそうに声を絞り出した。「お、お金はいらないの。良かったら……ご飯でもどう?」
加瀬はその意図を察して、優しく手首を握り、服を引き戻した。
「君はいい子だけど、ごめんね。」彼は穏やかながらも距離を感じさせる口調で答えた。「同じクラスの子には手を出さないんだ。」
それが彼なりの断りだった。
「じゃあ、クラス変えたら?」彼女は諦めきれずに言う。
だが、加瀬はもう振り返ることなく去っていった。
……
気のせいだろうか。
星野美友紀は今日一日、中島陽介の視線が自分に向いている気がして仕方なかった。
聞く勇気も出ず、きっと自意識過剰だろうと思い込もうとした。
午前の授業をなんとかやり過ごし、午後の音楽や美術の授業は休みを取り、まっすぐ物理研究部の部室へ向かった。
部屋に入ると、渡辺雅彦がコントロール台の前で真剣な面持ちで立っていた。
昨日からの疑問が頭をよぎったが、今は邪魔をしないほうがいいと判断し、部屋の隅のコントロール台に向かった。
実験データの更新がうまくいき、星野美友紀は満足げに手を振った。
そのとき、渡辺の声が突然耳元で響いた。「また新しいアプローチを見つけたのかい?」
前回とは違い、今回は少し誇らしげに、実験の手順や方法を細かく説明した。
前回は前世の記憶に頼った部分があり、どこか後ろめたさがあったが、今回は自分で見つけた成果だったからだ。
「君はいつも驚かせてくれるね。」
渡辺が彼女の耳元に近づき、温かい吐息が頬に触れた。思わずその距離感と声色に身を引きたくなる。
だが、彼の大きな手が先に彼女の肩にそっと触れた。その温もりがじんわりと伝わり、彼女は反射的に身をよじった。
しかし、動く間もなく、渡辺はすぐに手を離した。
「でも、その考え方なら、別の道も見つかるかもしれない。たとえば……」
今度はコントロール台に向かい、さっきの距離も空気もなかったかのように話し始める。
星野美友紀は気を取り直し、渡辺の言葉に従って一つ一つ推論を重ねていく。
「じゃあ……試してみる?」
二人は息を合わせ、新しい案を探りながら何度も失敗と修正を繰り返した。
「ダメか……じゃあ、こっちの方法は?」
「これも無理か……」
……
「できた!」
星野美友紀は興奮を隠しきれず、振り向いて渡辺とハイタッチをした。
渡辺は手を上げたまま少し呆然とし、彼女がすぐに成果物を見に戻る姿を見つめていた。
不思議と、彼女の笑顔が頭から離れなかった。
浮かせた手を無意識に胸に当てる。
なんだろう、この気持ち……
星野美友紀は作品をじっくりと確認し、満足して息をついた。そのとき、ずっと気になっていたことを思い出す。
振り返ると、渡辺がどこか上の空の様子。声をかけようとした瞬間、彼が先に口を開いた。
「美友紀、ネットでのエントリーは済んだ?」
星野美友紀はきょとんとし、すぐさま首を振った。「そんなのあったの?」
「早めにやったほうがいいよ。」渡辺は変わらず穏やかな口調だ。
「でも、やり方が分からなくて……」
「スマホ貸して。手伝うよ。」
困っている様子を見て、渡辺は微笑みながら言葉を遮った。
星野美友紀はためらいもせず、スマホを差し出す。
「渡辺くん、ちょっとトイレ行ってくるね。パスワードは190401、エントリーお願い!」
彼女が迷いなく立ち去る背中を見送りながら、渡辺はまた胸に手を置いた。
嬉しかった。
こんなにも自分を信頼してくれている。
スマホのパスワードまで教えてくれるなんて。
ただ――
素早くパスワードを入力し、画面が明るくなる。可愛らしい壁紙と整然としたホーム画面に目を落とし、ふと考え込んだ。
このパスワード、何か意味があるのか?
知る限り、星野美友紀の誕生日は4月1日じゃない。
中島陽介も違う。
と、ふと思い至る。
星野美友紀が高2の4月1日に入学したのは確か、2019年――
じゃあ、4月1日は……
彼女の入学記念日?
指先に力が入り、今すぐパスワードを変えたい衝動を堪えて、LINEを開く。
LINEにはパスワードロックがかかっていなかった。
一番上にあるのは星野玲子と木下教授。
意外にも、中島陽介はピン留めされていない。
もちろん自分もだ。
複雑な気持ちを抱きつつ、エントリーページを開きながら、連絡先をスクロールしていく。
自分の名前は「渡辺先輩」と登録されており、どこか不満を感じた。
自分でこうなら、中島陽介はどうなっているのだろう。
妙な嫉妬心に駆られて、下まで探してみたが、中島陽介の名前はどこにもなかった。
「ダーリン」や「ベイビー」みたいな特別な呼び名も見当たらない。
つまり――
彼女の友達リストに、中島陽介はいない?
その事実に、ほんの少しだけ満足感を覚える。
だが、エントリーを書き込んでいる最中に、不意にメッセージが届いた。
【今夜8時、学校の屋上で待ってる。必ず来て。】
念のため、誰か分かるように署名もある。
【中島陽介】
やはり、中島陽介は彼女のLINE友達じゃなかった。
なぜか、星野美友紀にこのメッセージを見せたくなかった。
この約束に行かせたくない。
指先が震え、躊躇していると、トイレのドアが開いた。星野美友紀が戻ってきたので、渡辺は慌ててメッセージを削除し、エントリー画面に戻した。
「もうエントリーできた? 渡辺くん。」