あの日、瀬川達也は私を冷たい雨の降る墓地に一人置き去りにした。
びしょ濡れの服で重い足を引きずり、夜がすっかり更けるまで、やっとの思いで借家の前まで戻った。
その瞬間、焦った様子の人影が私をぎゅっと抱きしめた。
「晴子!すごい熱だよ!」
「拓真、もう来ないで!私のことは放っておいて!」必死に突き放そうとしたけれど、力も出ず、結局その温かな腕の中に沈み込んだ。
再び目を覚ましたとき、私は見知らぬ高級そうなベッドに横たわっていた。ここはどこ?
ドアが静かに開き、瀬川拓真がコップ一杯の白湯を持って入ってきた。
「晴子、ほんとに心配したよ。熱が四十度近くて、仕方なくここに連れてきたんだ。医者も診てくれて、大事には至らなかった。」
呆然としながら、「ここ……君の家?」と尋ねると、
拓真は少し気まずそうに「うん」とだけ答えた。
私ははっとして、慌てて起き上がろうとしたが、彼がすぐに押しとどめた。「父も母もいないし、無理やり何かするつもりはないよ。」
「ごめん、もう行く。」私は首を横に振った。両親のことよりも――ここもまた、瀬川達也の家なのだ。
上着を手に取り、ほとんど逃げるように螺旋階段を駆け下りる。
一階に差し掛かった時、階段下に現れた人影に足を止めようとしたが間に合わず、足を滑らせて転びそうになった。
瀬川達也は無表情で、長い腕を伸ばして私をしっかり受け止めた。
「晴子、無理するな。まだ熱が下がってないだろ!」背後から拓真の声が追いかけてくる。
二人に挟まれ、逃げ場はない。
その時、達也の手にあったティーカップがふと傾き、熱いお茶が私の首筋を伝って胸元を濡らした。
私は驚きで目を見開き、声を上げるのをこらえながらも、彼の不敵な瞳を真っ直ぐに見返す。
わざとだ――私をここに留めようとしている!
拓真が私を引き寄せ、心配そうに「大丈夫?どこか打ってない?」と服の上から確かめるが、その裏の意図には気付かない。
私はただ唇を噛みしめ、冷たい視線で達也をにらみつける。
達也は気だるげに「お茶をこぼしちゃったみたいだし、このままじゃ帰れないだろ。一階のゲストルームでシャワーでも浴びたら?」とつぶやく。
「うん、晴子。着替えを持ってくるよ。」拓真はそう言うと階段を駆け上がっていった。
達也が近づこうとしたその時、私は素早く身をかわして「近寄らないで!」と遮った。彼の意図――浴室でさらに辱めるつもりなのは分かっている。絶対に思い通りにはさせない。
彼は冷たく笑い、「拒否できる立場なのか?お父さんはまだ病院にいるんだろう。入院費、もう二千万以上滞納してるぞ。」
昨夜、私の顔に叩きつけられた紙切れ――それは病院からの督促状だった。
これが私の弱みだ。どれだけ勉強しバイトをして、昼夜問わずデザイン画を描いても、医療費の穴は埋まらない。それでも、父が生きている限り、私は希望を捨てない。
彼の報復が父に及ぶのが怖い。
耐えるしかない、でも私にも誇りがある。彼は一度、拓真の前で私を辱めた。二度と許さない。
私は突然、微笑みを浮かべた。昔、皆が「晴子の笑顔は百合の花のように美しい」と言っていた。
その瞬間、達也の目が一瞬だけ揺れた。
私は携帯を取り出し、素早く操作して、ブラックリストに入れていたあの嫌な番号へ電話をかける。
電話の向こうから、いやらしくも嬉しそうな声が響く。「おっ、晴子ちゃん!自分から電話してくるなんて、何かあったの?」
高橋啓介の名を思い出すだけで、吐き気がこみ上げた。「お金が必要なの。二千万円。」
「金ならいくらでもあるさ。ふふ、晴子ちゃん、今まで清純ぶってたけど、オレはずっと君を味わいたかったんだ。考えただけでゾクゾクするよ!」
私は吐き気を抑え、「明日の夜八時、帝国ホテル最上階のスカイラウンジで」とだけ告げた。
「二千万、思いっきり楽しませてもらうからな……」
最後まで聞かずに通話を切った。高橋啓介のベッドでの嗜好は、東京中で有名だ。
達也は信じられないといった表情で口を開け、言葉をなくしていた。
こんな彼を見るのは初めてだった。
「これでいいでしょう!」私は自嘲気味に笑った。
しばらくして、達也はようやく声を絞り出す。「金のためなら、なんでもするんだな。」
「驚いた?あなたは最初から私をそういう女だと思ってたのでしょう?誰に汚されても同じ。売る相手が誰であっても一緒よ。あなたたち、みんな同じ!」
私はもう何も気にしない、どうにでもなれ、と思った。
「……!」達也は言葉に詰まり、反論もできない。
その時、拓真が着替えを持って戻ってきた。
私は適当に一枚手にとって羽織る。
「服は今度返すね。」そう言い残し、振り返りもせず家を飛び出した。
「晴子!晴子!」
――拓真、ごめんね。傷つけたくなかった。
瀬川家の門を出た瞬間、こらえきれなかった涙が、冷たい雨と一緒に頬を伝った。