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第26話 暗き夜の波紋

中村執事は私を拓真の寝室の反対側にある客間へ案内してくれた。部屋は落ち着いた雰囲気で整えられている。


「出て行け!みんな出て行け!」

瀬川拓真の部屋の前を通りかかった時、中から物が壊れる音と共に怒鳴り声が聞こえてきた。


中村執事は深いため息をつく。

「はぁ……若様はこれまで怒ったことなどなかったのに。今回のことはあまりにも大きな衝撃だったのでしょう。元気を取り戻してほしいものですが……。午後には家庭医とリハビリの先生がいらして、詳細なリハビリ計画も立てました。しかし若様は協力的ではなくて、今は車椅子に座ることすら嫌がっていらっしゃいます。」


私は胸が痛んだ。

この優しくて桜のようだった人を、こんなふうにしてしまったのは私だ。どう償えばいいのだろう。


私はドアをそっと開けて中に入った。


瀬川拓真は私を見るなり、瞳に光を宿して

「晴子、来てくれたんだ。もう来てくれないかと心配してた……」

と囁いた。


私は穏やかに微笑み、傍らの車椅子を押しながら言った。

「さあ、外の空気を一緒に吸いに行こう。」


瀬川拓真は一瞬驚いたようだったが、すぐに頷いた。中村執事は嬉しそうに、私と一緒に彼を車椅子へ座らせてくれた。


その日一日、私は拓真のそばにいた。彼の気持ちも少しずつ和らいでいった。


夜、自室に戻り、軽く片づけてから入浴し、就寝の準備をしていた。


ふと、ベランダから物音がした。


不審に思って目を向けると、なんとベランダのドアが外から押し開けられ、瀬川達也が入ってきた。


「ふふ、あの達也さんがこんなふうに塀を越えて部屋に入ってくるなんて?」

私は皮肉混じりに言った。


「晴子、君はここにいてはいけない。できるだけ早く出て行く方法を考えてくれ。」

達也は私の腕を掴み、切羽詰まった声で続けた。

「今は詳しく説明できないが、ここは危険なんだ。」


「むしろ——」私は冷たく手を振りほどいた。「あなたのほうがよほど危険だと思うわ。私が以前あなたを助けたからって……」


言い終わらないうちに、彼の唇が私の唇を塞いだ。


そのキスは激しく、拒む隙も与えなかった。私が抵抗すればするほど、彼はより深く、まるで私を全て自分のものにしようとするかのようだった。


「晴子……君でよかった。無事でいてくれて……」

彼は私の頬を両手で包み、壊れやすい人形のようにそっと抱きしめて、再び深く口づけた。


夜は更け、熱は増していく。


しかし、突然ドアの外からノックの音が響いた。


「コンコン」


私は慌てて彼を押しのけ、乱れた寝間着と髪を整える。


「晴子、僕だ。開けてくれ。少し話がある。」

ドアの向こうから瀬川拓真の声。


達也は眉をひそめ、不満そうに上着を羽織ると、ベランダから静かに去っていった。


私は「はい、今行きます。拓真くん、もう休んでいるのに……」と応えながらドアを開けた。


瀬川拓真は車椅子に乗ったまま入ってきた。


その姿を見た瞬間、さっきまでの余韻は一気に冷めた。なんてことをしてしまったのだろう。私は、私のせいで歩けなくなった拓真くんを裏切って——。


自分を責める気持ちでいっぱいだった。


拓真が車椅子を部屋に入れるのを呆然と見ていると、ベッドが少し乱れていたが、幸い彼は気に留めなかった。


「拓真くん、こんな遅くまで起きていては体によくないよ。目が覚めたばかりなんだから、もっと休まないと。」

私は気まずそうに声をかけた。


「晴子」

拓真は私に手を差し出すよう促した。


私は言われるままに手を差し出すと、彼はそれを強く握った。その瞳は星のように澄んでいる。


「晴子、どうしてももう一度、伝えたいことがあるんだ。」

そう言うと、彼は自ら車椅子から降り、床に正座した。


「拓真くん!」

私は思わず声をあげたが、彼は転ぶことなく、しっかりと座っていた。


私は慌てて近づこうとしたが、彼は上着のポケットから小さなベルベットの箱を取り出し、開けた。中には輝くダイヤの指輪。


「晴子、僕と結婚してほしい。」

彼は私を見上げ、切実な眼差しでそう言った。


心が大きく揺れた。そう、「もう一度」というのは——かつて一度、彼は私にプロポーズしてくれたのだ。今回が二度目。


でも——


喉が詰まる。「拓真くん、私はもう昔の藤原晴子じゃない。いや……あなたは本当の私を知らないの。」

少し間を置き、「私は瀬川達也と……七年前に出会っているの。だから……」と続けた。


彼はそっと指先で私の唇に触れる。

「昔のことは、全部なかったことにしよう。これからは、君は僕だけのものになってほしい。いいかな?」


私は唇を噛んだ。「これから……」——さっきまで達也とあんなにも深く関わっていたのに。自分が嫌でたまらない。


私が黙り込むと、拓真の表情が曇り、一気に両脚を何度も叩き始めた。


「今の僕じゃ、もう嫌いになったのか?!くそっ、なんで立てないんだ!俺なんて……!」


「違う!嫌いになってなんかいない!」

私は慌てて彼を抱きしめ、自傷を止めた。「本当に違うから!」


「じゃあ、明日籍を入れよう。いい?」

彼は私を必死に抱きしめ、まるで命綱を掴むようだった。


私は……もう断りきれなかった。


もしかしたら——瀬川達也との絆を、ここで完全に断ち切るべきなのかもしれない。

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