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第27話 契約の枷

翌日。


気が付けば、私は本当に瀬川拓真に連れられて役所に来ていた。


彼との間で二年間の婚姻契約を結ぶことになった。その間、私は彼の回復を全力で支える。期間中はお互いに自由であり、二年後、過去をすべて水に流し、しがらみがなければ、再び縁を結ぶ。もし心に迷いが残るか、他に選びたい人がいれば、穏やかに別れ、それぞれの道を歩む——そんな約束だった。


それでも、胸の奥には拭いきれない不安が渦巻いていた。


これはただの契約——そう自分に言い聞かせた。


私は拓真に借りがある。その償いのためだ。それに、これで瀬川達也との関係にも決着をつけ、自分を律するのだ。


手続きはあっという間に進み、写真を撮り、書類に記入する。


拓真は、本来なら職員を自宅に呼ぶこともできたはずだが、どうしても自分の手で手続きをしたかったようだ。きっと、何かしらの「けじめ」をつけたかったのだろう。


「瀬川様、奥様、こちらにご署名をお願いします。」


職員がにこやかに促す。


「奥様」——まだ実感のないその呼び名が、どこか気恥ずかしく響いた。


私はペンを持ち、指先が震える。


拓真はすでに署名を終え、私が書くのを待っていた。


迷っていると、突然背後から鋭い声が響いた。


「晴子、サインしないで!」


思わず立ち上がりそうになった私を、拓真が肩を押さえて止める。


振り返ると——


瀬川達也と目が合った。息を切らし、髪も乱れ、いつになく取り乱した様子だった。


呼吸を整えながら、優しい目で私を見つめ、首を横に振った。


「晴子、お願いだ。サインしないで。」


その瞬間、心が張り詰める。「パキッ」と音がして、持っていたプラスチックのボールペンが折れてしまった。


達也がこんな姿を見せるのは初めてだった。


「私……」


頭の中が真っ白になり、何も考えられない。


拓真が新しいペンを差し出し、私は無意識にそれを受け取った。


達也の目には、言葉にできない苦しみが宿っていた。今まで見たことのない真剣な眼差しで、一語一語を絞り出すように言う。


「頼む。サインしないでくれ。」


その言葉に、心が激しく揺れた。


かつて神のようにすべてを見下ろしていた達也。私を憎み、侮辱し、何度も傷つけてきた彼が、いまは誇りを捨ててまで私に懇願している。


胸が締め付けられ、これまでにない痛みが走る。


「兄さん、どういうつもりだ?」


拓真が顔を強張らせ、問い詰める。


「拓真、会社でも、株でも、取締役の席でも、君が望むものは何でもやる。だが……彼女だけは……」


達也が低い声で答える。


だが拓真は冷たく遮った。


「俺が欲しいのは、彼女だけだ。理由は……兄さんが一番分かってるだろう?」


そう言って、口元に皮肉な笑みを浮かべた。


私はもう、頭が混乱して何も考えられなかった。


「晴子、君もやっぱり僕が嫌いなんだろう?」


拓真は私の手を強く握りしめ、声を震わせる。


「父が兄さんを瀬川家に連れてきたその日から、僕は皆に囲まれていた一人息子から“次男”になった。何をやっても兄さんには敵わない。勉強も、ビジネスも、交渉も、全部兄さんの方が上だ。最初から僕は、彼の影でしかなかった。でも、争うつもりはなかったんだ。だけど……君まで兄さんを選ぶのか?」


「もし足が動いたなら、まだ戦えたかもしれない。全力を出せば、何かを掴めたかもしれない。でも今の僕じゃ……自分自身が情けないんだ!」


感情が高ぶったのか、拓真は車椅子から倒れ込んでしまった。


「拓真君!拓真君!」


私は慌てて支えた。


彼のやり場のない苦しみに、胸が切り裂かれる思いだった。


すべては私のせいだ。


たった二年の契約——そう自分に言い聞かせ、私は覚悟を決めた。


「サインします。」


申請書を掴むと、勢いよく名前を書き込んだ。自分にもう後戻りできないように。


「晴子……」


書き終えた瞬間、達也の瞳から光が消えていくのが見えた。最初は信じられないという表情、次に苦しみ、そして最後には絶望だけが残った。


私の心も、同じように痛んだ。


私は、取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか?——彼も、私のことを……?

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