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第2話:エドナール

 三人は鬱蒼とした森の道を抜け、徐々に視界が開けた場所へと進んでいく。木々の合間から、突如として壮麗な城壁のような建造物が姿を現し始めた。どうやら目的地の街が近いらしい。

「見えてきたな。あそこが俺たちの拠点にしてる街、“エドナール”だ」

「結構大きな街なんだね……。ああいうところに、ギルドがあるのか」

 守は愛用の釣竿を握りしめたまま、遠くの城壁を見つめた。見慣れない石造りの町並みが、少しずつその全貌を現していく様子は、まるでファンタジー映画の世界に迷い込んだかのような錯覚を覚える。

「街に入ったら、あんたの正体を変に疑われないようにな。まずはギルドで身分登録をするんだ。おまえが“転移者”だってのは、厄介ごとの種にもなりかねねぇから、しっかりした手続きはやっとけ」

「転移者か……確かに俺、見た目も服装も全然ここの人間っぽくないもんな」

 改めて自分のアウトドアウェアを見下ろす。普段着慣れたはずの服が、この世界では奇妙で浮いた服装にしか見えないらしい。少し恥ずかしい気もするが、今さらどうしようもない。

「でも、今日の釣り……じゃなくて、あの魔物を相手にしたところを見ると、確かにあなたはただの“異世界人”ってわけでもなさそう。あんな不思議な力を持った釣竿は、私も初めて見たわ」

「いやいや、俺自身は何も変わってないんだ。釣り道具の方に、何か起きたとしか思えない。今のところ、俺にできることは“釣る”ことくらいだから……でも、釣りがこんな形で役に立つなんて、夢にも思わなかったな」

 守は手にしたロッドを見つめながら、苦笑いを浮かべた。まさか魔物を引き上げることになろうとは、本当に想像すらしていなかったのだ。ガーランもまた苦笑しつつ、一瞬だけ興味深そうにロッドを見やった。

「ま、あの技をバトルで応用できるんなら、俺たち冒険者にとってはありがたい話だ。これから危険な依頼が舞い込んでも、おまえがいれば対処の幅が広がる」

「そっか……。最初は呑気に“釣りできるかな?”くらいに思ってたけど、色々な依頼を受けてお金を稼いだりするのが、冒険者の仕事なんだもんな」

 守は自分の置かれた新しい立場を、少しずつではあるが理解し始めていた。生粋の釣りバカとしてのこだわりは強いが、今はまず食い扶持を確保しないといけない。しかもここは見知らぬ世界だ。頼れる仲間を得て、共に生きていくためには、自分も役に立たなければならない。

「ただし、魔物を釣るなんてのは前代未聞だ。もう少し慎重に使い方を考えろよ」

「はいはい、気をつけるよ……」

 ガーランに釘を刺され、守は苦笑しながら頷く。とはいえ、どう考えても釣り竿が変化している事実は明らかで、また試してみたいという好奇心がむくむくと湧き上がるのを止められそうにはなかった。

 正門に近づくにつれて、人々の姿は徐々に増えていった。馬車に大量の荷物を積んで行き交う商人らしき者、ごつい防具を身につけた冒険者風の屈強な男たち、そして布のローブをまとった魔法使い風の女性など、見るからにファンタジーな装いの人々が行き交っている。

「ん? そいつぁ、また変わった格好だな」

「釣り竿……? 何をする道具なんだ?」

 門の近くを通るだけで、守はその奇抜な服装と釣り竿で、珍しそうな視線を集めてしまう。リーリアは小声で「気にしなくていいわよ」とフォローしてくれたが、守は若干恥ずかしかった。

 門の近くには頑丈そうな衛兵が立っており、入城料の徴収と身分確認を行っていた。ガーランとリーリアは冒険者登録証を提示して、あっさりと通される。守も二人の連れとして案内される形で入城を試みるが、衛兵は訝しげな視線を守に向けた。

「見慣れない衣装だな。商人か? それとも漁師か?」

「うーん……今は、ただの釣り人、かな?」

「釣り人……?」

 衛兵は怪訝そうな顔をしていたが、「まぁ、いい。怪しい真似をするなよ」とだけ言い残し、そのまま通してくれた。こうして守は、初めて異世界の街“エドナール”に足を踏み入れることになった。

 中へ入ると、石畳の道がどこまでも続いていた。道の左右には、食料品店や雑貨店、そしてカキンカキンと音が響く鍛冶屋らしき店舗が軒を連ねる。人々の活気が街中に溢れ、どことなく中世ヨーロッパ風の情景を思わせるが、魔法道具を扱う露店などもあって、やはりここは紛れもないファンタジーの世界だ。

「ここから少し歩いた先に、“冒険者ギルド”があるわ。そこで登録してもらって、宿や今後のことも相談するといいわね」

「ああ、助かる。正直、こっちの貨幣価値も何もわからないから、まずは案内してほしい」

 守は辺りをキョロキョロと見回しながら、なんとも言えないワクワク感に包まれていた。釣りバカでありながらも、どこか旅人気質な部分もあるのだろう。新しい世界、新しい景色を見ていると、自然と胸が高鳴るのを感じていた。

 道を進むうちに、ひときわ立派な建物が見えてきた。二階建てで正面の扉が大きく、看板には剣と盾のシンボルマークが掲げられている……これがおそらく、冒険者ギルドだろう。

「さ、着いたぞ。俺は報告がてら、受付の知り合いに声をかける。おまえはリーリアと一緒に登録しに行きな」

「うん、わかった」

 ガーランが重厚な扉を押し開けると、中からにぎやかな声が漏れ聞こえてきた。数多くの冒険者らしき人々が、テーブルを囲んで酒を飲んだり、情報交換をしたりしている。そんな活気に満ちた光景を見た瞬間、守は若干気後れしながらも、一歩足を踏み入れた。

「やあ、いらっしゃいませ。……あら、リーリア、ガーラン、おかえりなさい。お疲れ様」

 カウンターには、落ち着いた雰囲気の女性が微笑んで立っていた。胸元にはユリナという名札が見える。淡い茶髪を肩口まで伸ばし、ギルド受付嬢らしい端正な服装を身につけていた。

「おう、今戻った。少し依頼報告があるんだが、その前に新入りの登録を頼みたい。こいつがそうだ」

「は、はじめまして。岸井 守と申します」

 守が恐る恐る挨拶すると、ユリナは目を丸くして、守の姿を上から下まで興味深そうにチェックした。

「……珍しい衣装ですね。もしかして異国から来られた方でしょうか?」

「ええと、そんなところ……です」

 どうにも言いづらいが、まあそう言うしかない。ユリナはにこりと微笑み、「では早速登録を進めましょう」と奥から用紙を取り出してきた。

「名前と年齢、職能(職業)を記入していただきます。あとは身分証用に血液判定の魔石を使いますが……痛みはありませんからご安心を。念のために確認しますが、冒険者として活動する際はどのような得意分野がありますか?」

 得意分野……。守は一瞬迷ったが、書類に書かれた「戦士」「魔法使い」「盗賊」などの選択肢を見ても、どうにもピンとこない。結局、一番しっくりくるものを言うしかなかった。

「得意分野……“釣り”……ですかね」

「釣り、ですか……なるほど」

 ユリナは少し意外そうな表情を浮かべたが、嘲笑するような態度は見せない。むしろ、その言葉に興味を抱いたようだ。

「では、冒険者カードには“フィッシャー”という分類で登録しておきますね。あまり数は多くありませんが、川や湖の依頼を受ける方もいらっしゃいますから。はい、これをどうぞ」

 そう言って渡されたのは、簡易的な魔法で作成されたカードだった。名前の欄には「岸井 守」、職能欄には小さな文字で「フィッシャー」と記されている。まだ仮登録の段階らしく、ランクは一番下の“F”だ。

「一番下……だよな、やっぱり」

「最初はみんなそうですよ。依頼をこなし、実績を積めばランクも上がり、受けられる仕事の幅も広がります。まぁ、焦らずこつこつですね」

 ユリナは優しい笑顔を向けてくれる。すると、ガーランが横から顔を出した。

「そういや俺たちも“ウルフの群れを討伐した”って依頼の報告をしときたいんだが……こいつがやった分も追加で頼むわ。何せ、釣り竿で魔物を釣り上げるなんざ前代未聞だ。下手したらボーナスがつくかもな」

 その言葉に、周囲の冒険者たちが「魔物を釣った……?」「釣り竿で?」とざわざわと囁き始める。そんな好奇の視線を感じて、守は少し恥ずかしくなるが、同時に妙な誇らしさも感じていた。

「噂が広まるのも時間の問題かもね。ねえ、守さん、少しギルド内を案内しましょうか?」リーリアが楽しそうに声をかける。

「うん、助かる。なんせ右も左もわからなくて……」

 こうして冒険者ギルドへの登録を済ませた守。この街での生活や仕事の流れを学びながら、“釣りバカ”としての新たな一歩を踏み出すことになる。

 ふと視線を落とすと、タックルボックスの中からはまだ見たことのないような輝きを放つルアーが何個か覗いている。使っても使っても自然に補充される道具、そしてロッドは自在に形状を変化させる。

 これから、どんな未知の依頼がやってきても、この釣り道具さえあれば何とかなるかもしれない。そんな根拠のない自信が、守の胸の奥で静かに湧き上がっていた。

 だが、そう楽観していられるのも今だけかもしれない。すでに街のどこかでは、この異形の釣竿の噂を嗅ぎつけ、裏で不穏な動きをする影もいるというのだから。


「それじゃあ、ギルドの中をひと通り案内するわね」

 リーリアが柔らかな笑みを浮かべ、守を連れてカウンターの奥へと歩き出す。ガーランは受付で依頼の報告を進めるらしく、ユリナと何やら話し込んでいた。

 ギルドの広間には、いかにも屈強そうな戦士や、ローブを纏った魔法使い、斥候風の軽装な冒険者などが思い思いに雑談したり、食事を取ったりしている。壁には「クエストボード」と呼ばれる大きな掲示板があり、そこには「オーク討伐依頼」や「素材収集依頼」など、さまざまな紙がびっしりと貼られていた。

 リーリアは手近な掲示板に目をやりながら、守へと説明する。

「あそこにあるのが、一般的な依頼の一覧よ。冒険者は、自分のランクに合った依頼を選んで受けるの。守さんはまずFランクだから、あまり危険度の高いクエストは受けられないはずよ」

「なるほどね……。仕事の種類も色々あるんだな。でも、俺の“釣り”が役に立つ依頼なんてあるのかな?」

 くぐもった声で呟く守に、リーリアはふっと笑みを返す。

「あるわよ。“川や湖で暴れている魔物魚の討伐依頼”とか、“珍しい水産物を仕入れてほしい”って依頼もあるから。たとえFランクでも、あなたの釣り道具が本物なら、十分こなせると思うわ」

 そう言われ、守は少しだけ気持ちが浮き立つ。見慣れない世界とはいえ、釣りで貢献できるなら、なんだかんだでやっていけそうな気がしてきたのだ。

 掲示板にちらりと目をやると「下水道の大ナマズ討伐」という紙が貼られている。まるでギャグのような依頼だが、今の守にはむしろ興味が湧いた。

「へえ……“下水道の大ナマズ討伐”か。面白そうだな……って、いや、汚いし匂いもきつそうだし、実際はキツいよな……?」

「あはは、そうね。しかも下水道は細い通路が多いから、あのロッドがどこまで活かせるか……。でも大ナマズは危険な魔魚だから、まともにぶつかると厄介よ?」

 リーリアは笑いながらも、守の無謀な好奇心を少し心配そうに見つめる。

 すると、不意に背後から低い声がかかった。

「おい、そこの“フィッシャー”とかいう新人」

 振り返ると、筋肉質で背の高い男が腕を組んで立っていた。二、三人の取り巻きを連れており、皮鎧と大振りの戦斧を携えている。見たところ経験豊富な冒険者のようだが、その顔つきにはどこか貫禄というより、威圧感が漂っていた。

「あ、はい……。なんでしょう?」

 守が反射的に答えると、男は鼻で笑う。

「さっき受付の姉ちゃんから聞いたが、魔物を“釣った”って話は本当か? ウルフをロッドで引き上げたって? 寝言もたいがいにしろよ」

 挑発めいた口調に、周囲の冒険者たちも好奇の視線を向けてくる。リーリアが眉をひそめ、口を開こうとするが、男は構わず続けた。

「ま、俺には関係ないがな。ただ、ヘンテコな噂が流れると、ギルドの秩序が乱れるんでな。“魔法の釣竿”なんて与太話を信じる奴が出てこないように、最初に釘を刺しておきたいだけだ。わかったか?」

 明らかに絡んでいるだけだが、守はどう返事をすればいいか分からず、とりあえず苦笑いしながら肩をすくめた。

「まぁ……実際に魔物を釣ったのは事実だけど、詳しい仕組みは俺もよく分からないんだ。大げさに言うつもりはないから、安心してよ」

 自分で言っていても不思議な話だが、生粋の釣りバカとしては嘘をつくわけにはいかない。

 男はつまらなそうに口を歪め、「気に入らねえな……」と低く唸る。取り巻きの一人が、ニヤついた笑みを浮かべて口を挟んだ。

「ヘヘッ、じゃあ試してみりゃいいんじゃないスか? ほら、ここで俺らとちょっと手合わせしてみるとか」

「やめときなさいよ! そんなのただの喧嘩でしょ!」

リーリアが鋭い視線で睨みを利かせるが、男たちはひるまない。むしろ面白がっているようだった。

 すると、遠くからそれに気づいたガーランが、地響きのような大声を張り上げた。

「おい、てめぇら! 新人にちょっかいかけてんじゃねえよ。相手が自分より弱いと思ってんのかもしれねぇが、そいつは魔物を“釣り上げた”化け物だぜ?」

 そう言ってニヤリと笑うガーランに、男たちは一瞬むっとした表情を浮かべる。

「ま、釣り人がどうとか興味はねえが……ガーラン、てめぇはいい加減、俺らのパーティに加わらねえのか?」

 男はガーランへ話題をすり替えるように投げかける。どうやら以前から勧誘されていた様子だが、ガーランは即答で首を振った。

「悪いが、俺には相棒がいるんでな。リーリアと組んでる限り、他のパーティには興味ねえよ。で、この釣りバカも俺らの仲間だ。そこんとこよろしく頼むぜ」

 ガーランの一言に、男たちはさらに不機嫌そうな顔になる。だが、今はそれ以上突っかからないようで、最後に「くだらねえ」と吐き捨てて立ち去った。

 その背中を見送って、リーリアがほっと息をつく。

「ごめんなさいね、守さん。あの人たち、ちょっと態度が悪いところがあって……まぁ、実績はある冒険者だから、ギルドではあまり強く言えないの」

「ああ、気にしないで。こっちも特に揉めたいわけじゃないし」

 そう言いつつも守は、釣り竿をどこか落ち着かなそうに抱え直す。先ほどの絡まれ方は、今後も似たようなことがあるかもしれない、と感じさせるものだった。

 ユリナが心配そうにこちらを伺っていたが、ガーランは軽く手を振って「もう大丈夫だ」と合図を送る。それに安堵した表情を見せてから、ユリナは再び受付業務に戻っていった。

 やがて、改めて三人でテーブルを取り、今後の方針を話し合うことになった。ギルドの酒場スペースは昼間でもそこそこ賑わっており、カウンターで頼んだ飲み物や軽食を楽しみながら、情報交換ができるようになっているらしい。

 ガーランが木製のマグを傾け、一気に飲み干してから言った。

「さて……これからどうする? とりあえず守を稼がせるために、簡単な依頼でも受けるか? それとも宿探しが先か?」

 守は考え込むようにタックルボックスに手を添える。

「正直、宿がないと夜を越せないから宿探しをしたい。でも、そのための金も今はほとんど持ってないし……俺、日本円しか持ってないんだよ」

 釣り竿とタックルボックスはあるが、異世界のお金のことなど何も知らないのだ。いくら釣りが得意でも、まずは生活基盤を整える必要がある。

「それじゃあ、報酬が安くても早めに片づけられそうな依頼を受けて、初日の日銭を稼ぐのがいいかもな。そうすりゃ宿代くらいにはなるはずだ」

 ガーランがクエストボードを見やりながら提案すると、リーリアも頷いた。

「そうね。例えば、街の外れにある小さな池で発生している魚型の魔物退治なんてどうかしら。Fランクでも受けられる依頼だし、水辺なら守さんの釣りが活かせるかも」

 守は一気に目を輝かせた。

「おお、魚型の魔物……それって、普通の魚とどう違うんだ?」

「詳しくは報告にあっただけだけど、体が膨れたり、毒を吐いたりするらしいわ。もともとは大人しい魚だったみたいだけど、最近、魔力の影響で凶暴化したって話よ」

 興味津々の守に、ガーランは「また釣ろうとする気か?」と呆れ気味に尋ねる。守は力強く頷いた。

「もちろん! そいつらを駆除するんだろ? だったら俺のロッドとルアーが役立つかもしれない。魔物だって動物的な捕食意欲があるなら、ちゃんとルアーに食いついてくる……かも!」

 釣りバカの血が騒ぎ始めたのか、守の目は期待で輝いていた。リーリアとガーランは苦笑しつつも、なんだかんだで心強いと感じているのか、悪くない反応をしてくれる。

 こうして、早速「街外れの池に棲みつく魔物魚の駆除依頼」を受けることに決まった。

 これが、守にとって正式な“冒険者としての初仕事”となる。さて、果たしてどんな獲物が待ち構えているのか。釣り竿の先に、未知の手応えが待っていることを思うと、彼の胸は高鳴るばかりだった。

 だが、その頃、冒険者ギルドからそう遠くない路地裏では、一人の黒ずくめの人影が、守のチート釣り道具についての噂をじっと聞き耳を立てていた。

「……消費しても勝手に補充されるタックルボックス、自在に形を変えるロッド、か。面白い。これは……高値がつきそうだな」

 ひそやかな声が路地の暗がりに溶けていく。守たちが新たな依頼へ出発する頃には、すでに“釣り竿”をめぐる暗い闇が少しずつ動き始めていたのだった。


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