耳の奥で、千の風鈴が一斉に鳴り響くような音がした。それは現世(うつしよ)の音か、はたまた夢と現(うつつ)の狭間を彷徨う魂の響きか。真田一真(サナダ カズマ)は、その問いに答えることもできぬまま、ゆっくりと瞼を開いた。
目に映ったのは、古木の精を宿したかのような木造の天井。煤(すす)けた梁(はり)には、清らかな神棚が祀られ、そこから揺らめく白い紙垂(しで)が、遠い記憶の残滓(ざんし)のように揺蕩(たゆた)う。
「……ここは、どこだ?」
ぼやけた視界を拭い、身を起こせば、懐かしい畳の香りが鼻腔をくすぐった。見知らぬ和室。されど、どこか魂の奥底に触れるような、不思議な安寧がそこにはあった。
窓の外には、深き翠の森がどこまでも広がる。高層の建屋も、信号の光も、けたたましい車の音もない。ただ、蝉時雨(せみしぐれ)と、風に運ばれる幽(かす)かな鈴の音だけが、古(いにしえ)の調べのように響き渡る。
「……たしか、あの時、事故に遭ったはず……」
高校からの帰り道、彼の愛車たる二輪が、坂を下る。その刹那、闇を裂くように飛び出してきた巨(おお)いなる轍(わだち)の光に、視界は焼かれた。あれが、この世との別れを告げる刻であったはず。にもかかわらず、今、カズマは、どこかの清浄な社で目覚めている。
「ようこそ、選ばれし魂よ」
不意に、澄んだ声が響いた。
振り返れば、襖の向こうに、一人の乙女が立っていた。純白の衣に身を包み、夜闇を束ねたかのような黒髪が、背で揺れる。その凛とした眼差しには、古よりの重責を背負いし者の気配があった。
「……誰?」
「私は葦原姫(あしはらひめ)。この日ノ本の地に連なる国の巫女にして、あなたを召喚(よ)び寄せし者」
「……俺を呼んだ? ここは、いわゆる異界というやつか?」
「あなたが生きていた現世とは異なる世界。この地を、葦原の国と申します」
カズマは息を呑んだ。にわかには信じがたい、夢物語のような話。されど、乙女の真摯な瞳が、そのすべてを現実であると告げていた。ここは現実。されど、己の知る現実とは異なる、神々の息吹が宿る世界。
「我が国は今、古より伝わりし魔王“八岐大蛇(ヤマタノオロチ)”の復活により、八つの災厄に呑まれんとしております。あなたには……その闇を打ち払う力がある」
そう告げ、姫は一振りの太刀を差し出してきた。その柄には、荒ぶる雷雲を模(かたど)ったかのような彫刻が施され、漆黒の鞘には、神代(かみよ)の文字が妖しく浮かび上がっていた。
「これは、“天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)”。かつて、八岐大蛇を打ち滅ぼした、神威(しんい)を宿す宝剣(ほうけん)。今こそ、その継承者に託されるべき時なのです」
「オロチ……まさか、“ヤマタノオロチ”って、あの日本神話の……」
「神話は、ただの物語にあらず。この世界では、すべてが真実(まこと)となる」
その瞬間、カズマの内で、古の鼓動が覚醒した。記憶でも、感情でもない。もっと深く、もっと古く、血潮の底から沸き立つような“衝動”が、全身を駆け巡った。天叢雲剣を握る手に、灼熱の熱が宿る。
これは……偶然にあらず。必然なり。
「……わかった。俺がその魔王を、この世から消し去ればいいんだな?」
葦原姫の目に、わずかな安堵の光が浮かんだ。そしてカズマの背後、社の神鏡(しんきょう)に、荒々しい雷鳴のような紋様が浮かび上がり、彼の背中に、深く、確かに刻み込まれた。それが、荒ぶる神、スサノオの魂を継ぐ者の“証”であることを、彼はまだ知る由(よし)もなかった。
第一章:蛇炎の村、最初の神威
出雲の深き山道は、夜明け前の朝靄に深く包まれていた。草木が擦れる幽(かす)かな音に混じり、遠く、鹿の呼び声がこだまする。苔むした古の石段を、カズマはゆっくりと踏みしめながら、常世(とこよ)の社から続く山路を下っていた。
腰には、かの天叢雲剣。未だ神威を秘めたままのその剣は、まるで永き眠りにつく古の神のように静謐(せいひつ)だ。されど、その柄に触れるたび、魂の奥底で何かが呼応するような気配がする。
「ここから南へ下りし先に、日巳(ひみ)の村がございます」
隣を歩く葦原姫が、深き森の奥を指し示しながら言った。
「そこが、八岐大蛇の最初の“首”が出現せし地。火の災厄が続き、村の田畑は灰燼(かいじん)と化し、山は荒れ果て、家々は影も形もございません」
「……それ、本当に蛇の仕業なんだよな?」
「ええ。あれは、オロチより生まれし“火蛇(ひへび)”。八つの首の一つにして、灼熱の呪いを振り撒く存在。これを討たねば、村のみならず、この周囲一帯が炎に呑み込まれましょう」
カズマは息を呑んだ。神話の記述ではただ一匹の巨大な化け物として語られていたヤマタノオロチ。それが八つの首に分かたれ、それぞれが異なる災厄を振りまいているとしたら……この世界がどれほど深い恐怖に覆われているか、想像に難くなかった。
「……倒せるんだよな。俺で」
「あなたは、荒ぶる神、スサノオの魂を継ぎし者。天叢雲剣が、その証でございます。されど……その力は未だ、深き眠りの中。剣の封印を解き、神威を覚醒させねばなりません」
「封印って、どうやって解くんだ?」
「剣が“蛇の血”を飲む時、その封印は一つ、また一つと解かれていくでしょう」
それはつまり……生(なま)の戦いを経てこそ、真の力を得られるということ。
だがカズマの心には、不思議なほどに恐怖の念はなかった。むしろ、鼓動は早まり、血潮が熱く滾(たぎ)る。まるで身体の奥底が、古の戦いを求めているかのように。
「はっ……まるで自分じゃないみたいだな。なんでこんなに落ち着いてんだか」
「スサノオ様の御魂(みたま)が、あなたを導いておられるのでしょう」
姫が微笑む。その横顔には、一点の曇りもない信頼と、希望の光が宿っていた。
だからこそ、負けるわけにはいかない。
数刻の後、彼らは峻険な山を越え、見るも無残な焼け野原と化した日巳の村へと辿り着いた。辺りは焦げ付く炭の臭いに満ち、黒焦げた家々が、まるで怨嗟(えんさ)の叫びを上げるかのように崩れ落ちている。ところどころ、炎に焼かれ、炭化した死体が、無言のまま横たわっていた。
「っ……」
目を背けたくなるような惨状。されど、目を逸らせば、また誰かの命が失われる、カズマの胸には、そんな確信が宿っていた。
「来ます……!」
その時、大地が大きく震えた。地の下から、ゴゴゴ……と、悍(おぞま)しい響きが轟く。次の瞬間、村の中心に開いた巨大な亀裂から、漆黒の塊がずるりと這い出してきた。
蛇だ。
全身を赤黒く光る分厚い鱗に覆われた、異様なるほど巨大な蛇。体長は二十メートルを優に超え、両目は燃え盛る業火のように禍々(まがまが)しく輝いている。その口からは、灼熱の火炎が、まるで溶岩のように噴き出していた。
「これが……火蛇か……!」
カズマは剣の柄に手をかけた。天叢雲剣が、かすかに脈動(みゃくどう)する。心の奥底で、何かが囁くような声がした。
『汝、斬る覚悟、あるか』
「……あるさ。俺はもう、決めたんだ」
迷いなく、鞘から剣を抜く。刀身は、どこか懐かしさを感じる和の輝きを帯びていた。だが、それ以上に恐ろしいほど冷たい、峻烈(しゅんれつ)な殺意が宿っている。
カズマが一歩踏み出した瞬間、火蛇が地響きのような咆哮を上げた。灼熱の炎が、彼を飲み込もうと襲いかかる。業火が、村の広場を包み込む。焼け焦げた大地がさらに崩れ、赤熱した瓦礫が空に舞った。その猛炎の中を、真田一真は一歩も退かずに立っていた。
「うおおおっ!」
カズマは、咄嗟に跳ねて横に転がった。炎の波が彼のいた場所を黒焦げにし、遅れて襲いかかる熱風が、肌を焼くように痛めつける。しかし、天叢雲剣を握った手は、不思議なほどに冷静だった。
「こいつ……まるで、考えながら動いてる」
火蛇はその巨体に似合わぬ俊敏さで地を這い、口からの炎だけでなく、肥大した尻尾を振り回し、周囲を薙ぎ払う。まるで人の動きを知り尽くしているかのように、狙いすました攻撃を繰り出してくるのだ。
「やっぱり、ただの化け物じゃねぇ……」
「カズマ様、左!」
姫の声と同時に、カズマは身を低くしゃがみこみ、蛇の猛り狂う牙を、紙一重でかわした。続けざまに、地を叩きつける尾が迫る。避けるよりも先にカズマは、剣を振るった。
「斬れろッ……!」
ガギィン!
火蛇の鱗が鋼のような音を立て、剣を弾いた。だが、確かに感触はあった。皮一枚とはいえ、神剣の刃が、その堅牢な鱗に触れたのだ。
「もっと……深く、もっと強く……!」
叫ぶように、もう一度斬りかかる。火蛇の胴が、わずかに揺らぐ。
その瞬間、天叢雲剣がかすかに、そして強く、光を帯びた。耳の奥で、“雷”のような音が、確かに響いた気がした。
『認めよう。汝、蛇を恐れぬ者』
「……声?」
刹那、剣の柄が灼熱を帯び、刀身から淡い火の揺らぎが立ち上った。
『この剣は、災厄(わざわい)を穿(うが)つ神の刃。今ここに、第一の封印、解かれん』
剣の光が強まると同時に、火蛇が怒り狂ったように咆哮する。その身から、赤黒い炎が、まるで煮えたぎるマグマのように噴き出した。周囲すべてを焼き尽くすような、絶望の熱だ。
だがカズマは一歩も退かず、前へ踏み込んだ。
「天叢雲剣、
振り下ろした刃が、真紅の軌跡を描いた。次の瞬間、火蛇の首元が爆ぜた。堅牢な鱗は焼け焦げ、内部から爆風のような炎が吹き出す。剣が、蛇の放つ炎を喰らい、その熱を倍にして返したのだ。
火蛇は断末魔のような叫びを上げ、その巨体をのたうたせる。
「もう一太刀……これで終わりだッ!」
カズマは駆け、再び斬りつけた。首の根本、ちょうど両目の間、そこへ正確に、深く、渾身の力を込めて叩き込む。剣が、肉を裂く音と共に抜き去られた瞬間、火蛇の体が大きく震え、そのまま動きを止めた。
そして、音もなく、その巨大な躯(むくろ)は崩れ落ちた。
しばらくの静寂の後、辺りの空気が変わった。あれほど立ち込めていた硝煙の臭いが、徐々に薄れていく。空に舞っていた火の粉は消え失せ、清らかな夜風が、焼け野原となった村を吹き抜けた。
「……倒したのか」
思わず、カズマはその場にへたりこんだ。身体中が軋(きし)み、火の熱に晒されたせいで、服もところどころ焦げ付いている。だが、何よりも胸の奥が、満たされていた。
「見事です、カズマ様……」
葦原姫が、静かに近づいてきた。彼女の瞳には、確かな敬意と、深い安堵が宿っていた。
「あなたは、スサノオの御霊に選ばれし者。……間違いなく、私たちの希望です」
「……おいおい、期待しすぎんなよ。俺、まだ始まったばかりなんだぜ?」
そう言って笑うカズマの肩に、一羽の黒鴉(くろがらす)が舞い降りた。神使(しんし)・アメノトリフネだ。
「さて、さて。これで一首目。あと七つ……気が遠くなりそうですなあ」
「……ああ。でも、やるしかない」
カズマは、未だ熱を帯びる天叢雲剣を見つめた。剣の中心に、うっすらと火の紋様が浮かんでいた。第一の封印が解けた、その確かな証。
この世界には、まだ七つの首がいる。七つの災厄が、どこかで人々を襲っている。そしてその向こうに真の“魔王”が、静かに潜んでいるのだ。
「さあ、行こうぜ。まだ旅は始まったばかりだ」
夜の静けさの中、焼け焦げた村に、一陣の風が吹き抜けた。