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第二章:神の社と峻厳なる試練

 日巳(ひみ)の村に、静かな復興の息吹が宿り始めていた。焼け残った蔵を中心に、村人たちが炊き出しを囲み、灰にまみれた幼子が懸命に土を掘り返す。老いたる背は、折れた柱をひとつ、またひとつと積み上げていた。

「まさか……かの邪なる蛇を、まことに……」

「火の厄災が止んだ……山が、嗚咽(おえつ)を上げなくなったのだ……」

 村人たちは呆然とした面持ちで、カズマと葦原姫を見送った。彼らの胸中には、感謝も畏敬も、未だ言葉にならぬ想いが渦巻く。されど、確かに彼らの魂の奥底に、“希望”という名の光が芽生えたことを、カズマは肌で感じていた。

「これが……伝説の始まりになるのかもしれないな」

 山道を登りながら、カズマは静かに呟いた。

「始まりに過ぎませぬ。されど、あなたの一太刀が、この日ノ本の地に、確かな希望の火を灯しました」

 姫は、そう言って穏やかに微笑んだ。

 日巳の村を発って二日。ふたりは、深い霧に包まれた険しき山を登っていた。ここは“神の試練”を受ける聖地、「御神山(みかみやま)」。古の昔、神々がこの世に降り立ったと伝えられるこの山には、今もなお、神秘を宿した古の社が眠る。

「……山の空気、やけに重いな」

「神気(しんき)が濃いゆえです。社に近づけば近づくほど、人の身では耐え難きものとなりましょう」

「おいおい、それって……俺、本当に試練を受けられるのかよ」

「神の刃に選ばれし者であれば、その資格は必ずございます。……問題は、その試練を受ける覚悟があるかどうか、です」

 冗談めかした問いかけに、カズマは静かに、しかし力強く頷いた。

「もう、一人でも多くの命を助けるって決めたからな。何かを斬り裂く力も、護り抜く力も、その両方を手に入れてやるさ」

 そして、ついに山頂へと辿り着いたとき、それまで彼らを包んでいた深い霧が、音もなく、ぱたりと消え去った。

 眼前に広がっていたのは、荘厳な石畳の広場。その中心には、風雨に晒されながらもなお、古の美しさを保つ社が、厳かに佇んでいた。社の前には、苔むした石灯籠(いしどうろう)が左右に整然と並ぶ。どれもが時を経た古き佇まいながら、永きにわたり、誰かに守り継がれてきた気配を纏(まと)っていた。

 姫は社の前で深く跪(ひざまず)き、厳かに手を合わせた。

「大山津見命(おおやまづみのみこと)……山の神よ。我ら、御身(おんみ)の試練を求め、参上いたしました」

 風が止み、時間が凍てついたかのように思えた。やがて、社の奥底から、地の底を揺るがすような、重く響く声が応える。

『よくぞ来たな。神の剣を持つ者よ。人の身をもって、この力に踏み込む覚悟……見せてみよ』

 声と同時に、広場の空気が一変する。社の背後から、分厚い霧を突き破るようにして、巨大な影がその姿を現した。

 それは、まるで岩と古木を束ね合わせたかのような、途方もない巨躯(きょく)の巨人……まさしく“山の神”だった。 

 その眼窩(がんか)の奥では、深淵の如き光が輝き、手には、山の一部を削り出したかのような石の斧を携えている。  その威容は、先日の火蛇などとは比べるべくもない。ただそこに立っているだけで、山そのものが動くかのような、圧倒的な重圧がカズマを襲った。

『この身を斬れるか。ならば、次なる力を授けよう』

「神を……斬るのかよ……!」

 思わず息を呑むカズマ。だが、天叢雲剣はすでに、彼の手に確と握られていた。刀身は淡い光を放ち、まるで主の意志に応えようと、微かに脈打っている。

「……やるしかねぇ。ここで逃げたら、今まで俺が斬ってきた、あの村の命に顔向けできない!」

 カズマは大地を蹴り、神の前へと、迷いなく跳び込んだ。

 神の斧が、唸りを上げて空を裂いた。その重さは風圧となり、広場の堅固な石畳を粉々に砕く。遅れて響く衝撃音が、大地を深く震わせた。

「っぐ……!」

 カズマは寸前で身を捻り、斧の直撃を辛うじてかわす。しかし、その余波だけで地面に叩きつけられた。全身が軋み、肺が、新鮮な空気を求めて悲鳴を上げる。

「こいつ……マジで山そのものじゃねぇか……!」

 だが、逃げ場はない。山の神・大山津見命は、ただそこに立っているだけで、天地の重みを、その身に背負っていた。

『人の身で神を討とうというのか。無謀か、愚かか、それとも』

 その声は怒りではない。すべてを見透かすような、静かで、しかし深い問いかけだった。

「愚かでも、無謀でも、構わねぇ……!」

 カズマは、痛む身体を奮い立たせ、天叢雲剣を構える。

「助けたい奴がいるんだ。護りたいものがあるんだ。だったら、ここで立ち止まるわけにはいかねぇ!」

 再び、カズマから踏み込んだ。今度は彼が、自ら仕掛けたのだ。剣が振るわれる。神の巨体に、渾身の一閃が刻まれる。

 だが……斬れない。

 神の皮膚は、山そのものだった。いかなる刃も、その堅牢さを穿(うが)つことはできない。それは単なる物理的な硬さではなく、“神格”という、人の及ばぬ壁そのものだった。

『人よ、知るがよい。人の力では、神を穿てぬ』

「……なら、どうすりゃいい!人間じゃ……超えられねぇってのかよ!」

 声を上げた瞬間、天叢雲剣の柄が、激しく脈打った。再び、あの雷のような音が、耳の奥深くを打つ。

『ならば、我が力を示そう』

 大山津見命の右手から、眩いばかりの光の粒が溢れ出す。 次の瞬間、カズマの身体が、抗う術もなく宙へと浮かび上がった。

「なっ……なんだ、これっ……!」

 世界が反転する。意識が白く染まり、時間も空間も消え去る。そこに存在したのは、ただ一つの問い……

「おまえは、神になりたいか」

 その問いに、カズマは即答することができなかった。だが、彼の脳裏に浮かんだのは、日巳の村人たちの顔だった。

 焼けた村を再建しようと、灰にまみれて働く老人。自分の背中を、希望に満ちた眼差しで見つめていた、あの幼子の瞳。そして、葦原姫の、偽りのない真っ直ぐな言葉。

 あれを、裏切りたくない。

 それが、カズマの魂から絞り出された、唯一の答えだった。

「……俺は、人間のままでいい。けど、人の限界を……越えてやるッ!」

 その声と同時に、カズマの胸の奥が、灼熱に焼けるように熱くなる。天叢雲剣が呼応し、再び、深く紅く、そして蒼白く光り輝いた。身体の中心から、何かが力強く立ち上がってくる。それは“神気”。神と真正面から向き合い、己の意志を貫いた者だけが得る、“神なる気”。

 地に足が戻った瞬間、カズマの周囲に強い風が舞い起こり、天叢雲剣の刃が、神秘的な蒼白の輝きを放った。神の目が、わずかに、驚きを込めて見開かれる。

『よくぞ、辿り着いたな。人よ』

 それは、神からの認証だった。

 試練は、今、ここに終わりを告げた。

 広場に静けさが戻ったとき、大山津見命の巨躯は、既にそこにはなかった。ただ社の前に、神秘的な紋様が刻まれている。それは“神気を帯びし者”だけが持つ、山の祝福の神環(しんかん)と呼ばれる、円環の印だった。

 カズマは肩で大きく息をしながら、その印を見つめる。心の内側で、確かな力が脈動していた。目を閉じれば、天叢雲剣の奥に宿る、新たな気配を感じる。

 風と地を斬る力。次なる災厄に立ち向かうための、神のギフト。

「……これが、“神気”か」

 そこへ、葦原姫がそっと近づいてきた。

「あなたの中に、確かに宿りましたね。神と向き合う覚悟、しかと、見せていただきました」

 彼女の言葉に、カズマは軽く笑って見せる。

「疲れすぎて……ちょっと神に文句言いたい気分だけどな」

「その気持ち、大山津見様にもきっと伝わっています」

社の奥から、かすかに風鈴の音が響いた。まるで、神が笑っているかのように、清らかな音色だった。


 夜。

 山を下りる道すがら、神使・アメノトリフネが、道端の木の枝に止まり、小さく口を開いた。

「……カズマ殿。次の“首”について、情報が入りましたぞ」

「次はどこだ?」

「西の毒野(ぶすの)です。広がる瘴気の中心に、第二の首“毒蛇”が潜んでいると。……これはかなり厄介ですな。並の者ならば、その息を吸っただけで即死との噂」

「……俺が行くしかないってことだな」

 カズマは、夜空を見上げた。星が、淡く、しかし力強く瞬いている。どこか遠く、しかしどこか懐かしい、魂を揺さぶる光。

 次は“毒”の災厄。峻厳なる試練を越え、新たな力を得た今ならば、きっと斬れる。

「行こう。八岐大蛇の七つの首を断つまで、俺は止まらねぇ」

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