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第四章:闇の森と悲しき首

 そこは、常に夜に包まれた場所だった。朝も昼も、陽の光は決して差さず、空は厚い鉛色の雲に覆われたまま。木々は葉を失い、枝は不気味に捩(よじ)れ、幹からは黒い雫が、まるで血潮のように滴(したた)っていた。

 名を「夜泣きの森」という。

 かつてこの森には、千の祠と百の集落があり、神々と人が共に安寧の時を歩んでいたと伝えられる。だが、ある日を境に、すべてが深淵の闇に呑み込まれた。

「この森には、もう人は住んでおりません。……住める状態ではないのです」

 葦原姫が、小声で告げた。その顔に、いつになく強い緊張が走っている。

「何か……違うな。前の“首”たちと」

「はい。この首は、“悲しみ”を喰らうと言われています。燃やすでも、毒すでもない。ただ静かに、人の心を蝕(むしば)むのです」

 そのとき、森の奥深くから、澄んだ鈴の音が聞こえた。チリ……チリ……と、その音色はどこか懐かしく、優しく、そして、異様に哀しかった。その音に誘われるように、カズマは一歩、森の奥へと踏み出した。

 森を進むにつれ、空気がどんどん重く、粘つくようになる。木々は不自然に歪み、影はどこまでも長く伸び、風も吹かない。鳥のさえずりもなく、虫の羽音もない。なのに、声だけが、彼の耳に届く。

「お父さん……帰ってきて……」

「姉ちゃん、痛いの……どうしてこんなことに……」

 それは、かつてこの森に生きていた人々の、無念の叫び。断ち切られた祈りの、残響だった。ただの幻聴か、あるいは

「っ……なんだこれ、頭が、重……!」

 突然、カズマの視界が歪んだ。目の前に、人々の姿が幻のように現れる。燃え盛る家、泣き叫ぶ幼い少女、大地に倒れ伏す男たち。どれも知らないはずの記憶。だが、それらはまるで自らの体験であるかのように、カズマの心に深く深く刺さった。

「これは……誰の記憶だ……俺のじゃ、ない……」

「カズマ様!」

 姫の叫びが響いた瞬間、空気が爆ぜた。森の中心、かつて社があった場所に、“それ”はいた。

 他の首とは違う。巨大ではない。どちらかといえば、細く、なめらかで、まるで、ひとの形をしていた。

 それは、女の姿をした蛇だった。下半身は禍々(まがまが)しい蛇の躯(むくろ)、上半身は息を呑むほど美しい人の女。目元には黒い布が巻かれ、手には澄んだ音色の鈴。その唇は微かに笑んでいるようで、その存在そのものが、深い哀しみを帯びていた。

「……これが、“第三の首”……?」

 女の蛇は、音もなく首を傾(かし)げる。その動きはまるで、神楽(かぐら)を舞うように、あるいは誰かを深く偲(しの)ぶように、静かで、優しかった。だが、その足元には無数の白骨が転がっていた。幼子、女、男、老いも若きも……すべて、その鈴の音に誘われ、自ら命を落とした者たちの骸だ。

「……なぜ、こんな……!」

「この首は……“憐憫(れんびん)”の姿をしているのかもしれません」

 姫の声は震えていた。

「恐怖でなく、哀しみで人を殺す――心の奥底に入り込み、自ら命を絶たせる。……だから、“悲しき首”と呼ばれているのです」

 それを聞いたカズマの剣が、わずかに震えた。今までの首とは明らかに違う。目の前の存在は、明確な“敵”として剣を振るうには、あまりに人に似すぎていた。

「……斬れるのか、俺に……こんなもの……」

 天叢雲剣を構えたまま、カズマの足が、止まった。鈴の音が、静かに、しかし絶え間なく響く。カラン……コロン……と、まるで遠い昔の誰かの帰りを待つような、郷愁を誘う音色だった。

 目の前の蛇女は、たおやかに舞っていた。その動きに敵意は感じられない。むしろ慈しみすら感じさせる。だが、だからこそ恐ろしい。人の心に入り込み、死へと誘う。斬るべき魔でありながら、カズマの足は、一歩も動かせなかった。

「……これが、“悲しみ”の首かよ」

 剣を握る手が震える。火蛇や毒蛇のような殺意や暴力性は一切ない。目の前にあるのは、“嘆き”の化身。

 果たして、これを、斬るべきなのか。

「カズマ様……」

 姫の声が届いた。振り返ると、彼女もまた、苦悩の色を深く浮かべていた。この首が、ただの“敵”ではないことを、彼女もまた感じ取っているのだ。

 そのときだった。頭の奥に、別の、古の記憶が、濁流のように流れ込んできた。

 ……黒髪の少女が、静かに泣いている。その傍らで、若い男が、悲壮な面持ちで剣を抜いていた。

『……すまない。俺が、この手で、お前を封じねばならぬ』

『やめて! 私は……あなたを信じていたのに……っ』

 剣が振るわれる。少女は、その身を禍々しい蛇へと変え、そして、斬られる。視界が赤く染まる中、男が、力なく呟いた。

『……憐れなものだ。神ですら、斬らねばならぬ時があるのか』

「……スサノオの記憶……?」

 気づけば、カズマは膝をついていた。剣はまだ手の中にある。だが、それを振るうべき理由が、今は全く見えなかった。

 これは、本当に“魔”なのか?

 だが、次の瞬間。蛇女が、ゆっくりと動いた。その目元の黒い布が、するりとほどける。現れた瞳は涙で、深く濡れていた。

 同時に、彼女の黒い影が大きく広がり、周囲に漂う人々の残響たち、森に彷徨う無数の亡霊たちが、次々とその影へと吸い込まれていく。

「っ、これは……!」

 カズマは咄嗟に立ち上がった。鈴の音が加速する。亡者の声が悲鳴のように叫び、夜泣きの森そのものが、深い悲哀を込めて軋(きし)んだ。

 このままでは、森そのものが、“悲しみ”に完全に呑み込まれてしまう。

「……わかったよ。斬るよ、俺が」

 カズマは、静かに、しかし確固たる意志を込めて剣を構えた。

「たとえその姿が人に見えても、その魂が悲しみに沈んでいたとしても……」

「生きている人たちを護るために、俺は“斬る”」

 その声に応えるように、天叢雲剣が淡く、しかし力強く光を放つ。蒼白の神気が、剣の周囲を包み込み、風のように舞い上がった。

「第三解放。《斬憐華(ざんれんか)》ッ!!」

 剣が閃いた。悲しみの気配を纏う風が、女の首を、音もなく貫いた。

 一瞬だけ、女は微笑んだ。まるで、「ありがとう」とでも言うように。

 そのまま、音もなくその美しい躯は崩れ落ち、淡い霧のように消えていった。

 静寂が戻る。

 そよ風が吹いた。それは、この森で久しくなかった、“本当の風”だった。木々がざわめき、厚い雲の隙間から、かすかな陽光が差し込む。

「……斬ったんだな、俺」

 カズマは、力なく地面に膝をつき、剣を静かに地に立てた。手はまだ震えていた。だが、心は、奇妙なほど静かな安堵に包まれていた。

 天叢雲剣の刀身には、新たな紋様、涙をかたどった「憐(あわれみ)の文様」が浮かび上がり、淡く輝いて、やがて剣の中に溶け込むように消えた。

「あなたは……強くなられました」

 葦原姫がそっと膝をつき、彼の手に触れる。

「優しさを捨てないまま、剣を振るえる強さ。それこそが、“人の英雄”の姿です」

 カズマは何も言わなかった。ただ、空を見上げた。その先に広がる空は、まだ曇っていたが、どこか遠く、微かに、希望の光が見えていた。

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