──一年後、北海道。
夏の陽光が、リンゴの木々の隙間から柔らかく降り注いでいた。芝生の上に揺れる木漏れ日は、まるで幸福の粒のように、祝福の空気をまとって地面を照らしている。
リンゴ園の中央に設けられた白いアーチの下で、弘一は何度目かの蝶ネクタイの調整をしていた。遠くから、エンジンの野太い唸りが響いてくる。あの音は、祖父が自慢のトラクターを婚車にしようと、張り切って運転している証だ。
「……緊張してる?」
背後から聞き慣れた声とともに、ふわりと腕が彼の腰を抱いた。
九条琉璃──いや、今は“弘一琉璃”が、真っ白なサテンのウエディングドレスを纏い、花嫁として現れた。髪にはリンゴの花が挿されていて、陽光に照らされたその姿は、どんな宝石よりもまぶしく映った。
「なんだか、まだ夢みたいだよ」
弘一は振り返ると、彼女の肩にそっと落ちた花びらを払い落とした。
一年前、人前で恥をかかされた一介の社畜が、今や自らの農業ブランドを持ち、財閥令嬢を伴侶に迎えている。誰がこんな未来を想像できただろう。
琉璃がつま先立ちになり、耳元で小さく囁いた。
「ひとつ、秘密を教えてあげる」
いたずらっぽく笑いながら、彼の喉仏を指先でなぞる。
「あなたに最初の“恥辱値”を与えた理由、実はね……いつも私の脚をこっそり見てたからよ」
弘一の顔が一瞬で真っ赤になる。
「そ、それって……システムが起動する前じゃないか……!」
「でも、私って根に持つタイプなのよ」
肩をすくめるように笑って、さらりと言い足す。
「ちなみに、雪菜は来月帰ってくるらしいわ」
そのとき、遠くから司会の声が響いた。
「新郎新婦、準備はよろしいですかー!」
琉璃は彼の腕に手を添え、ふと真顔になって問いかけた。
「ねえ、最後にもう一度だけ聞くけど……後悔してない? 私みたいに性格の悪い女と結婚すること」
弘一は傍らの枝から青リンゴを一つもぎ取り、そっと彼女の手に握らせた。
「このリンゴみたいなもんさ」
ひと口かじる。酸っぱさに顔をしかめながらも、どこか嬉しそうに言葉を継ぐ。
「どんなに酸っぱい初恋でも、時間をかけて発酵させれば、きっと甘くなる」
その言葉に、琉璃の目がほのかに潤んだ。けれど、その空気をかき消すように、トラクターの「トットットッ」という音が近づいてくる。
ブカブカのスーツに身を包んだ祖父が運転席で手を振りながら叫んだ。
「乗れ乗れ! 九条家のお嬢様がトラクター乗る姿、全国の記者が楽しみにしとるぞ!」
──ピコン!
「最終羞恥シーンを検出しました」
「システム通知:本プログラムはアンインストールされましたが、愛情値は永久に満タンです」
急に笑い出した弘一の顔を、琉璃がじと目で睨んだ。
「ねえ、また何か変なこと考えてたでしょ?」
彼は彼女をそっと抱き上げ、そのままトラクターへと歩き出す。
「考えてたのはね──」
唇を重ねるその瞬間、エンジン音が祝福のファンファーレのように響き渡った。
「これから毎日、君を恥ずかしさで泣かせてやるってことさ」
草の香りとリンゴの風が、二人の未来を包み込んでいた。