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第23話 ウェディング

──一年後、北海道。


夏の陽光が、リンゴの木々の隙間から柔らかく降り注いでいた。芝生の上に揺れる木漏れ日は、まるで幸福の粒のように、祝福の空気をまとって地面を照らしている。


リンゴ園の中央に設けられた白いアーチの下で、弘一は何度目かの蝶ネクタイの調整をしていた。遠くから、エンジンの野太い唸りが響いてくる。あの音は、祖父が自慢のトラクターを婚車にしようと、張り切って運転している証だ。


「……緊張してる?」


背後から聞き慣れた声とともに、ふわりと腕が彼の腰を抱いた。

九条琉璃──いや、今は“弘一琉璃”が、真っ白なサテンのウエディングドレスを纏い、花嫁として現れた。髪にはリンゴの花が挿されていて、陽光に照らされたその姿は、どんな宝石よりもまぶしく映った。


「なんだか、まだ夢みたいだよ」

弘一は振り返ると、彼女の肩にそっと落ちた花びらを払い落とした。


一年前、人前で恥をかかされた一介の社畜が、今や自らの農業ブランドを持ち、財閥令嬢を伴侶に迎えている。誰がこんな未来を想像できただろう。


琉璃がつま先立ちになり、耳元で小さく囁いた。


「ひとつ、秘密を教えてあげる」

いたずらっぽく笑いながら、彼の喉仏を指先でなぞる。


「あなたに最初の“恥辱値”を与えた理由、実はね……いつも私の脚をこっそり見てたからよ」


弘一の顔が一瞬で真っ赤になる。

「そ、それって……システムが起動する前じゃないか……!」


「でも、私って根に持つタイプなのよ」

肩をすくめるように笑って、さらりと言い足す。

「ちなみに、雪菜は来月帰ってくるらしいわ」


そのとき、遠くから司会の声が響いた。


「新郎新婦、準備はよろしいですかー!」


琉璃は彼の腕に手を添え、ふと真顔になって問いかけた。

「ねえ、最後にもう一度だけ聞くけど……後悔してない? 私みたいに性格の悪い女と結婚すること」


弘一は傍らの枝から青リンゴを一つもぎ取り、そっと彼女の手に握らせた。

「このリンゴみたいなもんさ」

ひと口かじる。酸っぱさに顔をしかめながらも、どこか嬉しそうに言葉を継ぐ。


「どんなに酸っぱい初恋でも、時間をかけて発酵させれば、きっと甘くなる」


その言葉に、琉璃の目がほのかに潤んだ。けれど、その空気をかき消すように、トラクターの「トットットッ」という音が近づいてくる。


ブカブカのスーツに身を包んだ祖父が運転席で手を振りながら叫んだ。


「乗れ乗れ! 九条家のお嬢様がトラクター乗る姿、全国の記者が楽しみにしとるぞ!」


──ピコン!


「最終羞恥シーンを検出しました」

「システム通知:本プログラムはアンインストールされましたが、愛情値は永久に満タンです」


急に笑い出した弘一の顔を、琉璃がじと目で睨んだ。


「ねえ、また何か変なこと考えてたでしょ?」


彼は彼女をそっと抱き上げ、そのままトラクターへと歩き出す。


「考えてたのはね──」


唇を重ねるその瞬間、エンジン音が祝福のファンファーレのように響き渡った。


「これから毎日、君を恥ずかしさで泣かせてやるってことさ」


草の香りとリンゴの風が、二人の未来を包み込んでいた。


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