その朝、村の広場は、これまでにない異様なざわめきに包まれていた。
普段は威勢のいい戦闘職の剣士や魔法使いたちが、まるで暴徒のようにNPCの薬屋の前に群がり、何かに怒鳴り散らしている。中には、壁に貼り出された紙をぐしゃぐしゃに丸めて投げつける者までいた。
そこに大きく書かれていたのは、冷徹な通告だった。
《重要なお知らせ:NPCによる回復アイテムの販売を終了しました》
「マジかよっ! こんなのなきゃダンジョン行けねぇだろうが!」
「誰か! 誰か薬草持ってないのかよおっ!?」
「毒食らったらどうすんだ、ふざけんな運営っ!」
広場の中央にまで響き渡る、焦りと怒りに満ちた叫び声。それをよそに、秋月悠真は広場の片隅で、ひっそりと大きなカゴを降ろした。
夜明け前、まだ薄暗い森の中で黙々と摘み取った、瑞々しい薬草がぎっしりと詰まっている。
「……やっぱり、こうなるよな」
甘く青い香りを放つ、まだ露に濡れた葉の束を、露天の粗末な台に整然と並べていく。
そして、手際よく札に文字を書き、掲げた。
《薬草 一束 30銅貨》
その瞬間、まるで魔法がかかったかのように、広場の空気が一変した。
「おい、あそこだ! 薬草売ってるぞ!」
「俺が先だ、全部くれ! はやく!」
「待て! 俺にも頼む! 頼むから売ってくれ!」
飢えた獣のように、戦闘職たちが一斉に悠真の露天へ押し寄せてくる。誰もが必死の形相で、銅貨や銀貨を叩きつけるように差し出した。
悠真は、そのただならぬ熱気に飲まれそうになりながらも、無言で薬草を渡し、代わりに金を受け取った。
カゴの中身はみるみるうちに減っていき、手のひらには冷たい銅貨がどんどん積み上がる。
ほんの数分。あっという間の出来事だった。薬草が完売すると、名残惜しそうに列から離れるプレイヤーたちが、口々に感謝の言葉を投げていった。
「助かった……あんたがいなかったら、今日でゲームオーバーだったぜ!」
「ああ、本当に感謝する! 明日も必ず頼むぜ!」
その言葉を聞きながら、悠真は空になったカゴにそっと手をかけた。
疲労と共に、ある確信が胸に広がる。
――この世界で、俺が唯一生きていける道は……これしかない。
◇ ◇ ◇
その日から、悠真のゲーム内での生活は、劇的に一変した。
まだ夜が明けきらぬ薄明かりの中、誰よりも早く森へ向かう。カゴいっぱいに薬草を摘むため、腰が悲鳴を上げるまでかがみ込み、土に爪を埋めながら、黙々と作業を続けた。
そして朝になれば村の広場の露天に並べ、飛ぶように売れていく。
その繰り返しを、毎日、毎日、ただひたすらに続けた。
数日が経つ頃には、広場を行き交う人々の、悠真を見る視線が変わっているのが分かった。
「あの人、すごい薬草屋さんだ」
「マジかよ、毎日あれだけの量を……」
最初は嘲りや侮蔑の眼差しだったものが、いつしか尊敬と羨望の混じったものに変わっていた。銀貨もあっという間に貯まり、宿の部屋は広くなり、食事も豪華にできるようになった。
戦闘職たちからも、直接「ありがとう」と感謝の言葉を向けられる。
悠真は、黙ってそれを聞いた。胸の奥に、静かな達成感が満ちる。
◇ ◇ ◇
だが、この平穏が長く続くほど、ゲームの世界は甘くなかった。
ある朝、いつものように露天を広げようとした悠真の視界に、見慣れない光景が飛び込んできた。
広場には、彼と同じようにカゴを並べた露天が、すでにいくつも出来ていたのだ。
そこには、かつて彼を嘲笑っていた戦闘職たちの姿はもうなく、代わりに彼の真似をして薬草を売る、見慣れない顔ぶれが腰を下ろしている。どうやら、彼らは戦闘職を諦め、生産職――悠真の真似をして薬草売りを始めたようだ。
《薬草 一束 28銅貨》
《薬草 一束 25銅貨》
札に書かれた値段を見て、悠真の眉間に皺が寄る。
案の定、値段は徐々に下がり始めていた。広場のあちこちで、薬草が並べられる光景が当たり前になっていく。
「ちっ……真似しやがって……!」
胸の奥に、煮え立つような苛立ちがこみ上げてくるのを感じた。
数日、ほんの数日で、すぐに自分に追いつけるとでも思っているのか――。
だが、悠真は知っている。
まだレベル1の、スキルも未熟な後発組に、自分と同じ効率で、自分と同じ品質の薬草を摘むことなど、決してできないということを。
「見せてやる、この積み重ねの差を……!」
悠真は、誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。
◇ ◇ ◇
その夜、悠真は再び深い森の奥へ入っていた。
昼間まで感じていた苛立ちを鎮めるように、ただひたすらに薬草を摘み続ける。
薬草採集人としてのスキルレベルが確実に上がっていることを、全身で感じていた。
今や、薬草の輪郭は視界にくっきりと金色に光り、以前よりも遥かに広い範囲が見渡せるようになった。まるで、森全体が自分に語りかけてくるかのようだ。
腰を落とし、いつものように熟練した手つきで薬草を摘みながら、ふと森のさらに奥深く、誰も足を踏み入れていないような場所へ視線を向ける。
そこには、これまで見たこともない、見慣れない輪郭が茂みの向こうでゆらゆらと、より強くゆらめいていた。
近づいてみると、その葉は通常の薬草よりも赤みを帯び、茎はひときわ太く、しっかりとしている。香りも格段に強い。
《上薬草》
悠真は、思わず口元を緩めた。
「ようやく見えるようになったか……俺にも」
慎重に根元から引き抜き、大事にカゴに収める。
さらに奥へ、奥へと進むと、また別の、今まで以上に異質な輪郭が見えた。灰緑色の葉が特徴的で、近づくとツンと鼻を刺すような鋭い香りがする。
《毒消し草》
視界に浮かぶその輪郭は、通常の薬草よりも遥かに深く、わずかに不気味な赤みが差していた。
悠真は、慎重に、まるで宝石でも扱うかのように根元を掴むと、ゆっくりと、丁寧に引き抜いた。
香りが格段に強い。そして、手の中に伝わるずしりとした重みが違う。
それだけで、悠真の胸の奥が、じんわりと、しかし確実に熱くなるのを感じた。
悠真は、新たな薬草を摘み取りながら、心の中で確信めいた呟きを繰り返す。
――これこそが、俺の積み重ねだ。そして、誰も追いつけない唯一の優位。
カゴは、通常の薬草、そして貴重な上薬草、さらには毒消し草でいっぱいになった。
ずしりとした心地よい重みが、彼の努力の証として、胸に誇らしく響く。
◇ ◇ ◇
翌朝、村の広場。
悠真の露天の前には、いつものように、いや、昨日までとは違う、特別な期待を込めた視線を向ける戦闘職たちが長蛇の列を作っていた。
そして、悠真は彼らの目の前に、堂々と札を掲げる。
《薬草 一束 30銅貨》
《上薬草 一束 120銅貨》
《毒消し草 一束 200銅貨》
並べられた、見慣れない貴重な薬草の数々を見て、誰もが息を呑み、そして感嘆の声を上げた。
「上薬草……! まさか、もう手に入るのか!?」
「毒消し草まであるぞ……! これなら深層ダンジョンもいける!」
一方で、後発の露天を広げていた他のプレイヤーたちは、自分のしょぼくれた薬草しか並べられない現実に、悔しさと焦りが入り混じったような視線で、悠真の露天を睨んでいる。
悠真は、群衆に薬草を渡し、銅貨と銀貨の山が積み重なっていくのを眺めながら、胸の奥で小さく、しかし確かな勝利の笑みを浮かべた。
――これで、俺が、先に進んだ。
青く、赤く、そして灰緑に輝く特別な薬草たちが、朝日に照らされて露天に堂々と並んでいた。
悠真が築き上げたその優位は、誰にも、決して崩せなかった。