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最終回

 隼人が向かったのはナイトフォールである。


 今、そこでは機関によって送り込まれた選りすぐりの執行人ブレイカー献舞者デディケーターたちと現実世界へ向かおうとするナイトフォールの生き物たちとの間で、激しい死闘がくり広げられていた。


 全体指揮をとっているのは長谷川 政秀、拝み屋だ。

 機関の人間ではない、部外者であることに加え、中には彼の拝金主義的な日ごろの態度にひそかに反感を抱く者もいたが、半断力に優れた適格な指示と中型を1人でも倒せる実力で、瞬く間に信頼を勝ち取っていた。


「中型以上は必ず復数名であたれ! 突出するな! 荷が勝ちすぎると思ったならそのまま行かせろ! 向こうのやつらに任せるんだ!

 いいか、ここにバックアップはない、霊力が切れたからと交代してくれる者も回復してくれる者もいない! 俺たちだけだ! そして俺たちの仕事は命を賭すことじゃない、やつらの数を減らすことだ!」


 門を背に立ち、霊力切れを起こさないよう立ち回り、各自己の能力とこれまでの経験則から多彩な戦闘方法で眼前の敵を滅することに集中する。

 そうして何時間、何十時間が過ぎたか。誰もが何がしかの傷を負っていた。霊力の大半を失い、乱れた息も戻らず、顔を伝う汗をぬぐう力も惜しんで武器を構え、ひたすらに前方にある下り坂を下りて来る化け物たちに向かって霊力を放つ。

 果てがないと思われたこの闘いも、やがて変化が訪れた。

 坂の上にスライが現れたのだ。

 この事件を起こした者、全ての元凶。今までどこに姿をくらましていたのかと思ったら、ナイトフォールにいたのか。

 彼が何者か、その正体を知る者はいない。そのスライが現れたことにざわつく者たちを下に見て、スライはにやりとわらった。

 自分がほんの少し、姿を見せただけで動揺する者たちを見るのは気持ちがいい。

 笑いがおさえきれずぷっと吹き出し、声に出してあははと笑った。


「どいつもこいつもばかばっかり。ばかが頑首そろえて空騒ぎしてるのを見物にきてやったのさ。

 化け物たちをおさえられた? 自分たちの勝利だ? どいつもこいつも早合点して浮かれちゃってさぁ。ほんと、ばっかみたい。

 あんまり見苦しいから、おまえたちに真実を教えてあげる」


 スライが指を鳴らすどそれを合図に彼の後ろからずらりと黒い人や化け物たちが現れた。

 赤ぃ目を光らせた、人の形をした化け物たち。その後ろには、小山のような中型・大型もいる。その数、数十。見えない後方にもいるとしたら、数百か。

 その光景は、疲れきった彼らを絶望させるに十分だった。


「あははっ。ねえ、驚いた? 絶望した? その顔が見たかったんだ」

 言葉を失った彼らを見て、スライが腹を抱えてひとしきり笑った、そのときだ。


「うるせえよ。この程度で調子に乗んな」

 そんな言葉とともに黄金色の霊力が空を裂き走る雷のように飛来し、スライの背後にいた化け物たちをなぎ払った。

 同じ丘の、少し離れた場所に足をかけた隼人がいつの間にかいて、グローブをした右手を前に出している。そして、こちらを向いたスライが顔をこわばらせ、言葉を失っているのを見て、見せつけるようにその右手を固く握り込んだ。


「いくらでも連れてこい。すべて俺が滅してやる」





「またきさまか!」


 最初の驚きが過ぎ去れば、怒りが取って代わる。

 隼人の出現に激怒し、咆哮したスライの全身から黒い靄がほとばしった。周囲一面を覆い尽くさんばかりの靄は不吉な風をはらみ、強く吹きつける。だがその風も、黄金の気に包まれた隼人には、前髪を震わせるそよ風でしかない。

 白い髪に金色の目という姿もだが、もはや別人としか思えないほどかつて相対したときよりもはるかに強大な氣の流れを視て、スライは忌々しげに吐き捨てた。

「後回しにしたりせず、さっさと片付けておけばよかったよ、安倍 隼人」

「不意打ちでも倒せずに逃げることしかできなかったやつが、大きな口をたたいてんじゃねえよ、ガキ」

「ぼくはガキなんかじゃない!」

 スライの振り切られた腕から黒い靄がほとばしり、隼人へと飛んだ。

 正面からきたそれを、隼人は軽く右手でいなす。だが次の瞬間、靄の後ろから急接近していたスライが現れた。顔面へきた左フックを後退してかわした隼人に、一拍の間を置いて苛烈な回し蹴りが襲いかかる。


 スライの踵と隼人の肩が触れあった瞬間、スライの穢れの黒い靄と隼人の黄金の氣の間で強烈な反応が起きて火花を散らし、反発した力が双方を引き離した。

 はじき飛ばされる間も、スライは黒靄を続けざまに放つ。隼人はそれを手のひらで払い飛ばした。


「ハッ! なんだよおまえ、威勢がいいのは口だけで、避けるだけか?」

 靄を連発して攻撃する合間に、スライが嗤って挑発する。

 隼人が攻撃できない理由わけを、スライは見抜いていた。

 スライの体は綾乃から奪ったものだ。幻術で姿を変えているが、隼人の真実を見抜く目には、今の青年の姿をしたスライに重なって、本物の綾乃の姿が視えていた。


 生半可な攻撃ではスライには通用しない。かといって、今の力でへたに攻撃すれば綾乃を傷つけてしまう。


 その葛藤から隼人は防戦一方にならざるを得ないのだが、そうと見抜けない者たちの1人が、押されている隼人を助けようと矢を放った。

 その視覚外からの攻撃は、隼人に意識を集中していたスライの左肩をかすめて飛ぶ。

 わずかに服を裂いただけで、血を流すには至らない。

 伝わった衝撃にいら立ったスライが舌打ちをしながら矢のきたほうへ振り返るより早く。


「よけいなことするんじゃねえ! これはこいつと俺の闘いだ!」


 隼人の怒声が飛んだ。

 同時に、坂の下のほうでは矢を放った者の手をつかんだ政秀が、「よせ」と制止をかける。

「あれは、俺たちが手を出せる闘いじゃない。へたな手出しは、邪魔になるだけだ」

 先手を打って隼人が怒りを示し、スライの意識を自分に引き戻すことで事なきを得たが、そうでなければスライの怒りを買って、攻撃の矛先がこちらへ向かうことだって十分あり得たのだ。

 政秀はそこまでは口にせず、ただ視線を隼人とスライへ戻し、自分たちはこの闘いを見守るしかないとほかの者たちに知らせた。


「闘いだって?」スライが嘲る。「こんなのが闘いであるもんか。おまえがぼくのサンドバッグになってるだけだろ」

 右のこぶしが隼人のみぞおちを狙って突き込まれる。隼人は右にずれて打点をずらすと同時に掌打で肘を払い、手首をつかんだ。

「俺に本気で相手してもらいたいなら、綾乃から出ろ。そうすりゃいくらでもたたきのめしてやる」

 顔を突き合わせて言う。

 スライはカッときて、力ずくで隼人の手を振り払った。


「これはぼくの体だ!」

「違う。綾乃の体だ。おまえは彼女の体を奪っただけだ。

 綾乃、いるんだろう? 出てこい」

 スライの近接攻撃を捌きながら、隼人は呼びかける。

「こんなやつに体を乗っ取られて、いつまでも大きい顔させてんじゃねえ」


「あはははっ! 無駄だって! あいつはとーっくに闇の淵で溺れてるよ。自我も魂も飲み込まれて溶け込んで、今ごろは闇の一部になっちゃってるさ」

「うるせえ。俺はてめえに言ってんじゃねえ、綾乃に言ってるんだ。

 さっさと出てこい。こいつを向こうの世界へ出してもいいってのか?」

 そうしたらどうなるか、おまえにも見当がつくだろう。


「うるさいっ!! この体はぼくのだって言ってるだろ!!」


 いら立ち、吼えるスライの体から輻射された霊波が隼人を押しやる。隼人は頭をかばい、足に力を入れて踏ん張ったが、それでも数メートル後ろへ押しやられた。


 政秀は目を細めてスライを見上げる。

(……惜しいな。あれだけの霊力の持ち主は世界でもそうはいない。正しく道を進んでいれば、希代の霊能力者として世界に名を知らしめることもできただろうに)

 だがその力は今はもう、取り返しがつかないほど黒く穢れてしまっていた。


「綾乃! 目を覚ませ!! 兄だとか妹だとか、関係ねえ!!

 こんなやつに好き放題させるような女じゃないだろう! おまえは!!」


 隼人の全身全霊の叫びは糸を伝って黒い闇の淵に浮かぶ綾乃の意識まで届き、揺さぶった。


 スライは綾乃の意識を締め出し、闇の淵へ落とした。だが結局のところ、スライは自分の肉体だと主張したがその肉体の大部分は綾乃のものであり、精神も兄妹の絆という糸でつながっている。

 その糸を断ち切れば肉体は現実世界においてスライを拒絶する可能性が高く、そうなれば唯一自由に動けたたそがれどきの間も現実世界に拒絶されるかもしれないとの可能性から、スライはそのか細い糸を断つことができなかった。

 それが彼の弱みであり、敗因。


 隼人の声に綾乃の意識は闇の中で目覚め、その糸を伝って浮上した。


『ハヤト!』

「綾乃か」

 二重写しになった綾乃の精神が隼人に呼びかけてくる。

 綾乃の意識が覚醒したことにほっとしたのもつかの間。綾乃の意識はとんでもないことを口にした。


『ハヤト、あたしを殺して! 兄を向こうの世界に行かせないように!』


「は!? なにばかなことを言って――」

「黙れ綾乃! 今さら出てきて、勝手なことをしゃべってんじゃない!」

 スライの怒りの波動は綾乃をひるませる。しかしそれでも、綾乃はさらに隼人へ言いつのった。

『兄を向こうの世界に行かせるなんて、絶対だめ! あんたもそう言ったじゃない! 兄は向こうの世界をナイトフォールに変えてしまう!』

 それだけは絶対に阻止しないと!

 だから殺してと、再度言う綾乃に、感極まって隼人は叫んだ。


「できるか! そんなこと!!」


 動揺しているその隙をついて、スライが隼人を攻撃する。

 靄に巻かれ、視界を奪われた隼人はその穢れの濃さに目を眇める。次の瞬間靄を突いて現れたスライの蹴りをまともに受けて、丘の下まではじき飛ばされた。


『ハヤト!

 やめて、兄さん……!』

「ごちゃごちゃうるさいな。そんなにこいつのことが心配か? なら、もう心配しないですむようにしてやるよ。

 こいつを殺せば、おまえも今度こそ闇の淵あそこでおとなしく溶けて消えるだろ」


「……させ、ねえよ……」

 衝撃が内に残る腹部に手をあてて、隼人が立ち上がる。足にきているのか、踏ん張りがきかずよろける姿を見て、スライが口角を上げる。


『ハヤト……』綾乃が奥歯をかみ締め、決意の顔を上げた。『できないなら、せめて、あたしの両足を砕いて!』

「はあ? 何言ってんのさ!」

 体をねじって綾乃を振り仰ごうとしたスライは、足が動かないことに気付く。

 足が重い。綾乃が全力で足の動きを止めているのだ。

『ハヤト! 早く!』


「……ッ!」

 本当にそれ以外方法がないのか? 隼人は煩悶する。だがあせりに支配された頭で最適解を思いつくには、時間が限られていた。

(……くそったれ!)

 丘を駆け上がり、スライへと迫る。

 自分の足を見つめる隼人に、彼の心が定まっているのを感じたスライは、鈍い動きながらも足を動かして逃れようとする。

 だがそんな動きで、逃れきれるはずもなかった。

 隼人は素早く、最低限の動きで、スライの足を折った。


 今までで最低最悪の感触が伝わった。まるで手羽先の骨を折るような軽い音で、足の骨が折れる音が鼓膜を震わせる。


 そしてその行為は、隼人にとって意外な効果を生むことになった。


「いたっ、痛い!!!!」

 スライが涙を流して叫び、その場に仰向けで倒れるや草の中で転がって、もだえ始めたのだ。


 スライはいまだかつて肉体を持ったことがなかった。綾乃の肉体を奪ってからも、傷を負ったことはなかった。

 今初めて、彼は肉体の痛みを知ったのだった。


「なんだよ……なんだよこれっ!! 痛い!! あああああ……っ!!」


 足を折られた痛みは、普通の人でもなかなか耐えられる痛みではない。

 気絶できればまだましだったろう。スライは初めての痛みという感覚に囚われて、頭の中でそれ以外考えられなくなるほどもだえ苦しんだ挙げ句、ついに「こんなものいらない!」と体を投げ捨てた。


「綾乃!!」

 隼人は急ぎ綾乃の体を抱き起こす。

 綾乃はうっすらと目を開けた。青ざめた顔で、足の折れた痛みに耐えながら、それでも笑みを浮かべた。

「あたしは、捨てたりしない……。この痛みごと、これはあたしの体だから……」

 綾乃はこうなるだろうと予想していた。あんなにもあっさり人を殺したり、苦しめることに何も感じないのは、痛みを知らないからだ。そして、痛みを経験したことのない兄は、きっと激痛に耐えられないだろうと。


 声、表情からそうと気付いた隼人は、衝動的に綾乃を抱きしめ、そして耳元で言った。

「もう二度と、こんなことを俺にさせるな……!」

「……あんた、泣いてるの……?」

 触れた体から震えを感じ取って、綾乃が言う。

「泣いてなんかない!」

 ばっと体を離すと、綾乃がにやりと笑った。

「痛い、から。……あんま、揺らさないで」

「……悪かった」


 隼人は綾乃を抱き上げると丘を下り、そこにいた執行人ブレイカーの1人に綾乃を渡した。

「一刻も早く、彼女を医者の元へ連れて行ってくれ」

「あ、ああ……」

 ふと思い立ち、儺攤なだ 耶古那やこなの名を告げる。彼女に診せるように、と言い置いて、隼人は彼らに背を向けると再び丘を上った。


 スライをあのまま放置することはできない。



◆◆◆



 スライは元の子どもの姿に戻っていた。


 自分の背丈ほどもある草の中を必死に走って、丘から離れようとする。小石につまずき、転びそうになっても。息が切れて、満足に息ができなくなっても。足を止めることができなかった。

 隼人が追ってきている。振り返って確認せずとも分かっている。

 強大な氣が、すぐ真後ろに迫っている……!


「あっ……」

 草に隠れていた石につまずいて、ついにスライは倒れた。そのまま、横向きに転がる。

 もう、走れない。

 ヒュウヒュウとのどで笛のような音を立てていると、上に人型の影が落ちた。

 隼人だった。


「どう、して……」スライは息も絶え絶えに言葉を口にする。「どうして……ぼくだけ……」

 ぐっとこぶしに力を入れて。ぐぐぐ……と上半身を起こした。後ろ手につき、隼人をにらみ上げる。


「どうしてぼくだけなんだ! ずるいよ! みんな、ここと現世を往復できるのに! なんでぼくだけがここに閉じ込められなくちゃいけない!?

 僕が人として生まれなかったから? でもそれは、僕のせいなんかじゃない! 神隠のせいだ! 僕はだまされた、被害者じゃないか! 僕は悪くないのに、どうして!」

「それで綾乃の体を奪ったっていうのか」

「そうだよ! あいつは……あいつこそ……!

 どうして綾乃はできて、ぼくはできないんだ!? それこそ、不公平じゃないか! ぼくと綾乃は兄妹なのに! 双子なのに!

 だったら、あいつが今まで現世にいた分、今度はぼくが現世にいたっていいじゃないか!」


 むちゃくちゃだ。論理も何もない、ただの嫉妬の感情論。

 しかもそれを、あんなことをしでかしておきながら、だれにはばかることなく堂々と口にできる――子どもなのだ、スライは。

 ずっとナイトフォールにいて、成長する機会を得られなかった、幼い子ども。


 もし。

 もしも最初にそう言っていたなら、スライのために何ができるか、力になってやろうと考えていたかもしれない。

 しかしスライはこれまで何十人と人をそそのかして怨霊に変え、人殺しに手を貸してきた。それも、楽しみながら。

 そうして、魂を濁らせてしまった。


「すべておまえ自身がしてきた選択だ。それがおまえをへ行き着かせた。

 もう俺がおまえのためにできるのは、滅してやることだけだ」


 ひっ、とスライは息を呑む。

 ずりずりと、尻を地につけたまま後退する。もはやずるさは消えて、隼人を映したその目には、ただただ恐怖が浮かんでいる。

 隼人が伸ばした手への恐怖から、ぎゅっと目をつぶって首をすくめた、そのときだ。



「待って」



 初めて耳にする、穢れない美しい声が上のほうから聞こえてきて、隼人は動きを止める。

 声の主の姿を求めて顔を上げると、はたして、白い着物姿の少女が丘の上に立っていた。

 歳のころは、見たところ15~16歳か。長い髪を背中の中ごろまで垂らし、蝶と水の流れをあしらった、美しい振り袖を着ている。


「だれだ」

 見覚えはない。

 しかしこれまで見たことがないほど美しい、清浄な氣をまとっていた。

 その氣はか細く、少女の周囲をほんの少し、囲っているだけなのに、純粋で美しく、穢れない光であるがゆえに不浄の存在を寄せ付けない強さを感じる。

 人食いの化け物たちが大勢いるナイトフォールにあって、平気でいられるのもうなずける清浄さだった。

 きっと化け物たちは、このまぶしい光に目を焼かれて、見つめることも難しいに違いない。


 少女は隼人の問いかけに、

「わたしは月夜霊つくよみというの。初めまして」

と答えた。

「あなたは?」

「……安倍 隼人」

「そう。よろしくね、隼人くん。

 さっそくで悪いのだけど、その子、わたしにくれないかしら?」

「だめだ!」

 隼人の即答に、月夜霊と名乗った少女は眉を寄せた。


「あなたがそう思うのは分かるわ。先の闘いを、わたしも見させてもらっていたもの。それに、その子の魂の濁り具合を見るからに、相当ひどいことをしてきたのね。その子のせいで現世で何が起きたのか、わたしも少しは理解してるつもり。きっと、彼を憎んでいる人が大勢いるわね。彼がしたことは赦せないことだし、赦していいことでもないと思う。

 だけど……あの叫びを聞いてしまったの。そうしたら胸が苦しくて……、気付いたら声をかけていたのよ」


 そう言うと、月夜霊は草むらに一歩を踏み出した。そのままさくさくと丘を下って、隼人とスライの元までやってくると、スライのそばにしゃがみ込んで、両手を広げた。

「さあ、いらっしゃい。幼い子」

 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、スライは月夜霊の腕の中へ飛び込む。そして膝の上で声を上げて泣いた。

 その横顔に、月夜霊は口づける。

 親指を口にあて、ひっくひっくとしゃくり続けるスライの変わりように驚く隼人の前、月夜霊は膝の上のスライを、泣き疲れた赤ん坊をあやすようになでる。すると、スライの体が光り始めた。まぶしいほどではないが、光は徐々に強まっていくと同時に、スライが小さくなっていく。

 見間違いではない。まるで彼の成長という時計の針が逆回転しているかのように、スライはみるみるうちに幼くなって、やがては胎児となって月夜霊の両手に乗るぐらい小さくなっていた。


「生まれ変わって、もう一度、やり直すのよ。今度は間違えないように、ね」


 両手の胎児にそっと口づけをして。月夜霊は光に変わったスライを、そっと空に放した。

 光は空を飛んでいき、やがて空に溶けて見えなくなる。


 その一部始終を丘の下から見ていた政秀は、苦い物を口に含んだように目を眇めて、月夜霊が政秀に気付いてそちらを向くのと同時に、月夜霊から目を離した。

 「政秀……」と月夜霊が小さくつぶやくが、その声は政秀には届かない。

 政秀は、スライが力を失うにしたがって揺らいで消えていったナイトフォールの門に、仲間たちに作戦の終了と撤収を告げる。そして彼らのほうへ歩いて行った。決して振り返らずに。





 彼の強ばった背中に、月夜霊は大きく息を吸い込み、いっとき、何かに耐えるように目を閉じる。そうして息を吐いて目を開いたときには、元の彼女に戻っていた。

 着物についた土を払って立ち上がる、そんな彼女をじっと見つめて。おもむろに、隼人は言った。

「あんた、怨霊を天に上げることができるんだな」

「ええ。それがだけにできる力なの」

 堕ちた人を救い、輪廻転生の輪へと戻す。これは彼女だけが持つ霊能力であり、それゆえに怨霊事変が終焉を迎えたとき、現世に戻ることを拒んだ理由でもある。

 彼女は怨霊事変で闘い、生き残った数少ない者の1人だった。そして彼女はナイトフォールに残り、ナイトフォールを放浪し、ナイトフォールにいて知り得たことを姫巫女の託宣として、かつて生死をともにした仲間たちへと送りながら、出会った者たちを輪廻の輪へ戻していた。

「1度に1人しかできないけどね」

 隼人の強い眼差しに、そんな大したことじゃないと恐縮そうに笑うが、隼人の厳しい表情はわずかも崩れなかった。


「そんなことをしたって、永遠に怨霊はいなくならない」

「そうね。でも、あなただって。

 永遠に怨霊はいなくならないと知っていて、それでも、闘うのでしょう?」



 人々のために。

 現世を、永遠の夕暮れにしないために。



 月夜霊の言葉に隼人はうなずく。

 そうして、2人だけに通じる思いを視線でかわして、無言でナイトフォールから去ったのだった。

 彼の身を心配して、帰りを待ってくれている者たちの元へ。







【Nightfall-ブレイカーズ- 完】

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