梅雨時にも拘らず、遠くまで澄み切る高い青空には、ツバメが舞っている。
風は涼やかに吹き抜け、人々の明るい声が新緑に映えていた。
6月11日。軽井沢の郊外に建てられたチャペルは多くの参列者を迎え、何とも賑やかだ。
初夏の陽気に誘われたのか、花々には蝶が舞い踊っている。木々の梢には、小鳥の鳴きかわす声が響きあっていた。
昇吾はこれから執り行われる式のためのタキシードを身にまとい、静かに目を閉じる。
意識を集中させてみたが、隣室でウエディングドレスに着替えているはずの紗希の心の声は、全く聞こえてこなかった。
紗希が連れ去られた日から時は経ち、あの5月10日に自覚した通り、昇吾は心の声を聞きとる力――『
それでも心は落ち着いている。紗希とは何でも話し合えるし、もしすれ違ったとしてもやり直せるという自信があるせいかもしれない。
死を乗り越え、新たな運命を歩みだしたことへの実感が、2人を強く結びつけていた。
「昇吾さん」
母、静枝の呼び掛ける声に昇吾は振り返る。
青木家先祖伝来の黒紋付を身にまとった静枝は、凛とした息子の立ち姿に目を細め、ため息をついた。
「素敵ねぇ」
「母さんにそう言われると、なんだか背筋がかゆくなるな」
「まあひどい」
親子は戯れるように話しながら、肩を並べて外の景色を眺めた。
「……昇吾さん。青木家で、人の心を読む力が発現した人が、あなた以外にもいたのはご存知?」
突然の問いかけに、昇吾は驚いて母の顔をまじまじと見つめ返した。
「知らなかった。というより、俺が尋ねた時、何も言わなかったじゃないか」
「話していいのか、当人に許可を取っていなかったのよ」
つまり、昇吾以外にも声が聞き取れる人間は、存命ということになる。俄然興味がわいてきて、昇吾は母に勢い込んで尋ねた。
「いったい誰なんだ?」
紗希の力が血によるものだったように、昇吾の力もおそらくは血によるものだ。
今後。紗希と昇吾の間に子供ができた時、もしどちらかの力が受け継がれていたら、どうするべきか。
話し合っていくためにも、ぜひとも聞いておきたかった。
静枝はあっけらかんとした表情で言う。
「あなたのお父様よ」
覚悟してはいたが、実際に聞くと衝撃的で、昇吾は黙り込む。
昇吾の実父である青木家の現当主・青木昇。彼にも同じ力があったのなら、昇吾に遺伝していても、不思議ではない。
「結婚する前くらいかしら。ある日、急にあの人が家を飛び出していったの。何があったのかと待っていたら、私がその時ふと食べたくなったチーズケーキを買って帰ってきたの。それも、お店も、ピースの大きさも、何もかも正解だった。昇さんも、私以外の声は聞こえなかったみたいね」
実の両親にそんな時期があったとは、昇吾も想像さえしていなかった。2人は常に青木家の家長とその妻にふさわしい振る舞いを心掛けており、甘酸っぱい時期があったなんて思いもしなかった。
教えておいてくれれば、と思う反面、知っていたら昇吾は自分がどう行動したのか分からなかった。
静枝は明るい表情で語るが、あえてそうしているのだと、なんとなく表情から読み取れる。
「ごめんなさい。あなたには、血のことなど、考えずにいてほしかった。礼司を迎えて、あなたと共に育てていくうちに、血なんて関係ない、ただ自分に正直でいてほしいと思うようになった……」
紗希に対する気持ちが変わって以来。昇吾は両親が自分に、常に青木家に縛られない生き方をしてほしいと考えているのだと理解しつつあった。
それは弟の礼司に対しても同じだ。両親は一度も、礼司のことを、スペアとして扱ったことなどなかった。
昇吾も、礼司も、周りの声に影響を受けていたのだと今なら分かる。両親の本心ではなく、周囲の目が作り上げたかりそめの本心が、2人の目を曇らせていた。
紗希もそうだ。昇吾が心の声を聞きとることがなければ、今ごろ昇吾は真琴と結婚していたのかもしれない。
「……いつ、父さんは【心読】が使えなくなったんですか?」
「さあ、いつかしら。私も詳しくは知らないけれど、あなたが尋ねてきたときにはもう、使えなくなっていたみたいね」
「なら、安心しました」
時期が分からずとも、使えなくなる可能性がある。それが分かった今、昇吾の状況は異変の前触れではない。
自分の力の変化が決して悪いものではないと理解して、昇吾はホッとした気持ちでいっぱいだった。
すると礼司が駆け寄ってくる。もうすぐ式の時間だ。
「もう! そろそろ行かないとまずいぞ」
「お前が迎えに来ると思ったんだ」
笑いながら、兄弟は会場に向けて歩き出す。待つであろう、花嫁の元へ。
パイプオルガンが奏でる荘厳な曲が聞こえてくる。紗希の前に立つのは、莉々果だ。
「いくよ」
「……ええ」
深く頷いた紗希の眼前を、白いレースが覆っていく。ベールダウンと呼ばれる、花嫁をバージンロードへ送り出す前に行われるベールをおろす行事だ。
クラシカルなボール・ガウンのウエディングドレスを身にまとった紗希は、静かに控室を出る。
デザイン。丹念な刺繍。ベールをとめる小さなティアラ。すべてが彼女に良く似合っていた。
実父の蘇我俊樹は、不正会計の件で式には出られない。そのため、最初から昇吾と共にチャペルへ入場する手はずとなっている。
2人は顔を合わせ、お互いに、時が止まったような感覚を覚えていた。
僅かに潤んだ眼で昇吾は紗希の姿を見つめる。ベールに身を包まれた紗希は、想像以上に、そして、式の用意をするリハーサルの段階の、いずれよりも美しかった。
誰もいない場所にこのまま、連れ去ってしまいたいと思うほどだった。
式場へ向かうしかないと分かっていても、昇吾はなかなか紗希の顔から視線を逸らせない。
たとえ心の声が聞こえなくなったとしても、紗希がどんなふうに思っているのか、今の昇吾なら想像できる。
彼女もまた、自分に見惚れているらしい。なかなか動きださない2人に、こほんっ、と小さな咳払いが届く。
咳払いの主……莉々果が『いきなさい』と口パクで伝えて来た。
2人は手を重ねあう。ゆっくりと、2人は進んでいく。寄り添いあう姿を見送りながら、莉々果は小さく涙を浮かべていた。
やがて神父の前にたどり着き、誓いの言葉を交わしあう。キスを促された2人は、互いを見つめあった。
大きく紗希が目を瞬かせる。美しい目の奥に、昇吾は悲しみも喜びも、全てをまぜこぜにした複雑な思いを感じ取っていた。
―― たとえどんなことがあったとしても、彼女を守り切ろう。
そんな思いを込めて、昇吾は唇を近づける。目を閉じた紗希の瞼の上に、6月の陽ざしが散っていた。
幸福感が溢れ出してくる。紗希を抱きしめてしまいたくなるような衝動に駆られながらも、必死で昇吾はこらえていた。
重なった唇に、紗希の目元から涙が零れ落ちる。
それは。きっと生涯、いやたとえ【死に戻り】をしたとしても、忘れられないキスだった。