空は冬の気配が色濃くのこっている。紗希はリビングとキッチンの掃除を終えたところで、ノンカフェインのコーヒーを飲みながらカレンダーに目をやった。
総一郎による誘拐や真琴との別れ。何より5年目を乗り越えてから、もうすでに半年以上が過ぎている。紗希はあの死に戻りからとうとう、6年目の冬を迎えようとしていた。
時哉の監視下に置かれた総一郎は、責任能力があるとみなされ、いくつかの裁判を控える身だ。優珠からは離婚され、宮本総一郎はただ宮本家の血を引く男となった。
それが彼にとって一番の罰なのだと、昇吾は言っていた。紗希はもう思い出したくもないので、それで構わないと思っている。
とはいえ、時々、総一郎に連れ去られた日の夢を見る。しかし背中に冷や汗をかいて飛び起きるたび、隣に眠る昇吾の存在とぬくもりを感じて、自分が今ここに生きているのだと思い返せた。
スマホから、スケジュールを知らせる通知音が響く。時刻は午後1時。今日はこのあと、青木産業が手掛けるアフタヌーンティーサービスの試食会へ向かう予定だ。だが予定までたっぷり2時間はあった。
ふと、紗希は思い立つ。そろそろ、本当に、すべてに決着をつけるべきかもしれない。
紗希は立ち上がると、普段はほとんど使わない固定電話を手に取った。
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午後1時30分。
河川敷には枯れたススキの葉が揺れており、どこからか飛んできたゴミが木にひっかかって揺れている。
紗希は、青木家執事の田中に頼み、この河川敷に連れてきてもらっていた。田中は紗希の行動を気にかけたものの、何か事情があると汲んでくれたらしい。
そんな彼の懐の深さに感謝しながら、紗希は周囲を見回す。
間違いなく、ここは紗希が最後に訪れた、あの河川敷だ。
河原に座り込み、泣きじゃくり。そうして冷たくなる体、遅すぎた後悔の末に見た、昇吾と真琴の幸せそうな様子。
だが今の紗希には、おぼろげに当時の自分の姿を思い出すだけだった。いや、思い出そうとしても思い出せない、という表現の方が正しいのかもしれない。
そんな出来事があった、と思いだせるが、詳細な様子までは記憶の中に残っていないのだ。
まるで、未来が変わったからこそ、起きなかった出来事だといわんばかりに。
(何もかもが違う……だから、本当に、今ここは新しい未来……)
均と莉々果は関係を深めていき、もうすぐ結婚式を執り行う予定だ。
莉々果は最初、結婚式を生配信しようと目論んだらしいが、均に説得されて小さなチャペルでごく親しい友人だけを集めた結婚式をおこなうことになった。
後で莉々果に「誓いのキスが恥ずかしいの。配信してたら勢いでできるかと思って」と半泣きで打ち明けられ、説得に奔走したのは良い思い出だ。
それから。蘇我不動産は自己破産を選ぶことになり、蘇我家の名は分家が受け継いでいくことになった。
いくつかの事業は従業員ごと青木家の不動産事業に吸収されている。
従業員たちからの不満などの矢面に立ってくれたのは、明日香と俊樹だ。ようやく支えあう夫婦らしくなった2人のおかげで、歴史ある蘇我家の邸宅も不当な扱いを受けずに済んでいる。
明音は真琴と共に、海外でゼロから再出発を目指しているらしい。時哉が気にかけてくれているので安心だろう、と昇吾が言っていた。
スマホを手に取ると、白川篤が主演を務める新作映画の宣伝広告が目に留まる。前世では篤のことなど、一度も思い出さなかった。関わる機会さえもなかった。
そして。紗希はまだ見ぬ6年目に至ろうとしている。それも、青木紗希となってこの場に立っている。
紗希は思い切って河川敷に降りる階段へ足を踏み出した。
コートを着ていても分かるほど冷たい風が、容赦なく吹きつけてくる。紗希の長い黒髪を巻き上げて、北風が冷たさを増した。
瞬間。
濡れた草原のような柔らかなものが、頬を撫でていく。ハッとして目を閉じた紗希が次におそるおそる目を開けると、そこはどこまでも白い空間だった。
上下左右、白い霧が続く。
「ここ……あの世界、よね?」
紗希の声が霧の中に響いた。身構える紗希だが、何も起こらない。
それどころかほんの瞬きのうちに、白い霧は晴れて、殺風景な河川敷に戻ってくる。川のせせらぎ、風の冷たさ、水の匂い。いずれも、現実味のあるものだった。
霧が風に吹き飛ばされ、遠のいていくのが分かる。
死に戻り。
紗希の体に流れる血に宿った不思議な力。それが蘇我家の先祖が引き起こしたものなのか、それとも紗希の激しい後悔が起こしたのか、はたまた紗希の母である琴美の愛がもたらした奇跡なのか。
紗希にはわからないし、今後もはっきりと理解できる日は訪れないだろう。
だが、少なくとも紗希にとっては間違いなく奇跡だった。
昇吾や莉々果のように何が起きたのかを分かってくれる人もいる。
今の紗希にとって、この上ない幸せな日々が続いていた。
紗希は河川敷を眺める。何一つとして、不可思議なものは見当たらない。
「紗希様」
コンクリートでできた堤防を兼ねた道路の上から、田中が声をかけてくる。紗希はそちらを見上げた。
突然、このまま川原にいてはいけないという直感が働いた。
背中を何かに押されるように、急いで川原から離れて階段を駆け上がる。久しぶりに走った気がしてならなかった。
田中が戸惑ったような笑みを浮かべていたので、紗希は何か言おうとして、言い訳じみた言葉しか見つからないことに気が付いた。
(どうして私、この河川敷に来たのかしら……?)
考えても理由がわからない。少なくとも、次の予定が青木産業が手掛けるアフタヌーンティーサービスの試食会であることは確かだ。
その途中で河川敷に何か興味を抱いた……でも、いったい何に?
ほんの数分前の出来事だったはずなのに、どう思い返しても紗希のなかに明確な答えは見つからなかった。
だが視線を河川敷よりさらに遠くへやったとき、あっ、と気づく。
川の対岸には、かつて紗希が莉々果と一緒に動画撮影を行っていたビルがあった。
「あそこでね、莉々果と一緒に事務所を持っていたの。ホームステージングやインテリアコーディネートの動画を撮影していて……なんだか急に懐かしくなってしまったみたい。ごめんなさいね、試食会に送っていってもらう途中だったのに」
紗希は田中に微笑みかける。田中は優雅に首を横に振った。
「お気になさらず。それより、お腹のお子様にも障りますから、車へどうぞ」
「ありがとう」
紗希は微笑みを浮かべて車に乗り込んだ。下腹部を締め付けないように注意してシートベルトを取り付ける。
結婚からおよそ一年後。紗希は待望の我が子を授かっていた。
今日のアフタヌーンティーの試食会は、妊婦でも食べやすいように栄養バランスや食感、味付け、カフェインの量などに注意を払ったものと聞いている。
自分が青木紗希として、昇吾の役に立てているのが何よりもうれしい。
(そうだ。妊娠中でも取り組みやすいインテリアコーディネートについて特集を組むのはどうかしら……)
頭の中で膨らむ想像を急いでスマホのメモ帳に打ち込み、紗希は莉々果へ送信した。彼女とのYouTubeチャンネルの運営は、マイペースに続いている。
もしかすると、あのビルに目を留めたのは、次回の動画撮影のネタを探していたせいかもしれない。紗希はそう思った。
十数分後。アフタヌーンティーの会場に到着し、田中が車を停めた。昇吾が満面の笑みで近づいてきて、ドアを開ける。
「紗希!」
彼は両腕で紗希を包み込むように抱きしめると、鮮やかなエスコートで連れ出した。会場から漂う爽やかな緑茶の香りを身にまとう彼は、途方もなく愛しくて、紗希の幸せの象徴のように思えた。
2人の左手の薬指にある揃いの指輪が、永劫のきらめきを放っている。
「昇吾さん」
名前を呼ばれ笑顔をみせる昇吾に、同じように微笑みかけた瞬間。紗希の中に残っていた死の記憶は、跡形もなく消え去った。
そして【死に戻り】という出来事も、昇吾が自分の心の声を聞き取ったことも、何もかもが紗希の思い出から消えていく。
彼女の中にあるのは、数多の困難を乗り越えながらも、昇吾と最後には心を通わせたという事実だけだった。
幸福な想いに包まれながら、紗希は我が子を思って下腹部に手を当てる。
空は青く澄み渡っていた。
おわり