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第32話 置いておけない話


 湊の唇の端に、そっとキスをした煉。

 キスするフリをするのだと思っていた湊は、驚いてパチッと大きく目を見開いた。


「え····?」


 至近距離で見る煉は、鋭い目に熱を孕ませている。少し頬が赤い。

 つられて、湊の頬は真っ赤に染まる。


(今··唇、触れた··よね?)


 確かめようにも声が出ない湊。目をパチクリさせながら煉を見つめる。

 煉は、ムスッとして少し唇を尖らせ、しかめっ面で湊を見つめ返す。


(ンだよ、マヌケな顔して。怒るとか焦るとか、リアクションねぇの? なんも分かんねぇじゃん)


 ふいと視線を逸らす煉。唇は尖らせたまま、ぽそっと呟く。


「わりぃ。当たった····」


(あー····くそダセェ····)


 事故だと言う煉。不思議に思いつつも、怒らないと言った手前責めることはしない湊。

 けれど、本当に事故なのかは疑わしいと目で訴えていた。


「なんだよ。ンなに嫌かよ」

「····そうじゃないけど。本当に事故なの?」


 煉を見上げて聞く湊。その瞳に戸惑う煉は、逆に問う。


「それどういう意味? ····事故じゃねぇほうがいいの?」

「は··?」


 煉の言葉の意味を理解した瞬間、湊の顔はボンッと赤くなった。


「ふはっ、すげぇ真っ赤。林檎みてぇ」


 ケラケラと笑う煉。何事もなかったかのように湊から離れ、湊の隣にドカッと座った。煉の隣で、カチコチに固まる湊。

 煉に揶揄われているのか、それとも真面目に聞いているのか、湊は判断に迷う。


「もう! 意味わかんない事ばっかり言ってないで、さっさと読み合わせするよ!」


 湊の怒った顔に、ふっと表情を緩める煉。どこか吹っ切れたような、晴れ晴れしい表情かおをしている。

 煉は、湊の頭をガシッと掴み、ぐしゃぐしゃと撫で回す。


「わっ、わぁっ····えっ、な、なに!? なんで髪ぐしゃぐしゃにするの?」


 無言のまま、片手に持った台本へ視線を落とし、ぐりぐりと撫で続ける。


「ねぇ、何か言ってよぉ!」

「うるせぇな。読み合わせすんだろ? さっさと台本開けよ。あ、それと····」


 煉は湊の髪をサラッと流し、耳元で意地悪く呟く。


「姫はあそこで『はい』なんて返事しねぇかんな」


 湊は、また顔を真っ赤に染めあげて耳を隠した。あの時、煉の王子っぷりに思わず返事をしてしまった恥ずかしさも相まって、心臓の高鳴りが抑えられない湊。

 威勢よく『煉のばか!』と罵るも、煉はニマッと笑みを浮かべたまま聞き流す。キャッキャと騒ぐ2人は、集中力などどこへやら。

 ろくに読み合わせもできないまま、距離が近づいただけで1日を終えたのだった。


 帰り際、夏休み中は可能な限り来いと、煉から命令を下された湊。半ば強制的に、湊はスケジュールを煉へ差し出す。

 煉の強引さに、湊は困りつつも悪い気はしていなかった。それどころか、煉と過ごす時間を心地好く感じ始めていた湊にとって、呼び出されるのが楽しみだと思えるまでになっていた。


 読み合わせやファンサをさせる為、全ての予定を湊に合わせる煉。数日おきに湊を呼び出していた。その甲斐あって、夏休みに入ってからというもの2人で過ごす時間が階段に増えている。

 煉との時間を、積極的に取りたいと思うようになった湊。だが、サルバテラのメンバーや家族との時間も大切にしたいと思っている。なので、煉にばかりに時間を割くわけにはいかないのだ。


 帰り道、大きな溜め息を吐く湊。煉からの呼び出しやレッスンに家事、いては末っ子たちの宿題の管理まで。今年の夏休みは、とても忙しくなるだろうと覚悟を決めたのだった。

 しかし、湊が思っているよりもずっと、この夏は忘れられない記憶が刻まれていくのだが、それはまだ誰も知りえない話····。




 夏休みも中盤に差し掛かったある日の事。

 ここ数日、レッスンなどで湊の都合が合わず、会えない日が続いている。その所為か、よく眠れずに不機嫌を極めていた煉は、朝早くから湊を呼びつけた。


 この夏休み、湊が煉の家へ来るのはもう数回目。慣れたようで慣れない大きな屋敷に、湊は来るたび緊張していた。

 2人はいつも通り、コの字のソファにL字で座る。湊は、鞄から台本を取り出し、恐る恐る煉を見上げた。

 そして、台本を開く前に煉へ問い掛ける。


「あのさ、何かあった?」

「なにが」


 ツンとした態度で湊を牽制する煉。だが、煉の気分屋な態度に慣れてしまった湊は、臆せず突っ込んでゆく。


「不機嫌そうだから····」

「気のせいだろ」

「ならいいけど。それじゃ、早く読み合わせ始め··──」


 言いながら台本をパラパラとめくると、例のシーンが不意に視界へ飛び込んだ。湊は、先日の事故を思い出してしまう。


「··っ。····ねぇ、煉」

「なんだよ、読み合わせすんだろ。さっさと姫のセリフ──」


 足を組んで偉そうに座り、自分のセリフを確認していた煉。煉は煩わしそうに顔を上げ、視線を台本から湊へやる。

 どういう理由わけか赤面している湊を見て、煉は目を丸くして疑問符を浮かべている。けれど、湊が開いていた台本のページを見た煉は、すぐさまその理由を察した。

 煉は、目が合った瞬間に顔を隠してしまった湊の台本に、そっと指を掛けてぐぃっと下ろす。


 涙目で煉を見つめる湊。自分ばかりがあの事を気にしているみたいだと、込み上げえう恥ずかしさに顔を熱くする。

 会えない間も、湊はずっとあの事故の事を考えていた。それなのに、何事も無かったかのようにしれっとしている煉。湊は、そんな煉に僅かな苛立ちさえ感じていた。

 煉の意図が読めず、心の内も見えてこない。ここ最近の湊は、そればかりが思考を支配していて、何をしていても心ここに在らずな状態だった。レッスンで会う度、綾斗が案ずるほどに。


 今日は、煉の思惑を確かめるつもりで来た湊。ここで押し負けるわけにはいかなかった。


「わ、わかってるよ。けど、始める前にさ、ちょっとだけ····話、してもいい?」


 煉は、ひと呼吸おいて承諾した。何の話かは、おおよそ見当がついている。と言うか、このタイミングならアレ一択だろう。

 そう踏んだ煉は、いい機会だと腹を括った。



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