それから季節はさらに流れて、もう夏が目の前にまで来ている。
真希乃ちゃんと久留生さんはあのあとすぐに交際が始まって、今は順調に愛を育んでいるようだ。
ルイちゃんと想多くんは、先日二人で私たちの家に遊びに来てくれた。変わらず関係は良好なようで、青春を謳歌している二人は見ているだけでキュンキュンとさせてくれる。
私のお母さんも以前より体調が良い日が増え、ときどき外出が許されるようになった。先日、夢が叶って久留生さんの握手会に参加したのだと瞳を輝かせて教えてくれた。
桜井さんは今、新しい映画の撮影に励んでいる。主演ではないけれど、私も脇役として、その映画に出演することになった。
コスモプロダクションには新しいマネージャーさんがひとり増えて、荒木さんとともに私たちのスケジュール管理を頑張ってくれている。
お父さんは起訴され、刑事裁判がかけられた。十年の懲役が決まり、刑務所から出所したあとも私とお母さんには接近禁止命令が下されている。
穏やかな、昼下がりの湖。暑さを紛らわせるためか、水鳥が水浴びをしに来ている。
私と梓くんは、その湖の真ん中。手漕ぎボートに乗っていた。梓くんがオールを漕ぐと、波紋が出来て、太陽の光をキラキラと反射させている。
昨夜、事務所を通して私と梓くんの結婚が発表された。
私たちは荒木さんの薦めで休暇を取って、梓くんの知り合いが持っているという別荘に身を隠しに来ていた。隠れ家に最適だと梓くんは言っていたけれど、その通りで、日々の喧騒から切り離されたような空間が広がっている。隠れ家というだけあり、私たち以外、他に人はいないようだった。
朝の情報バラエティ番組では、急遽私たちの結婚報道が差し込まれるような形で放送されていた。SNSでもずっとトレンドに私の名前が挙がっている。発表したコメントの中で、相手は『一般の方』と表現していたが、水族館や遊園地での目撃情報がこの結婚報道に便乗して上がり、『日下部梓』という名前もチラホラと話題に上がり始めていた。
「さすが敏腕若手投資家セレブ、日下部梓。梓くんも有名人なんだね」
スマートフォンでSNSの投稿を眺めながら言えば、
「雑誌のインタビューとかでたまに顔出ししてるから」
見る人が見れば分かるんだよ、と梓くんは笑った。
「……日下部梓、超イケメンじゃんって言ってる人もいる」
「……ヤキモチ妬いてくれるの?」
「別に、そういうわけじゃ……」
「俺は毎日、祈里のこと好きだなって言ってる人に妬いてるけど」
梓くんがオールを漕ぐ手を止める。彼が少しだけ私に近付くから、ボートが揺れた。
梓くんの唇が触れて、離れる。私の髪をさらりと手で掬う梓くんに「からかわないで」と眉をしかめれば、「本当だよ」と毛先に口づけを落とされた。
仕事では冷酷だなんて言われている梓くん。最初に会ったときは、私のことを睨んでいたのに。それが今じゃ、平気で甘い台詞を吐いて、甘すぎるくらいのキスをしてくるのだから油断できない。
「事務所のほう、大変じゃないかな」
誤魔化すように話題を変える。梓くんは、大してそれを気に留める様子もなく、「さっき城川から連絡あったよ」と言った。
「事務所に報道陣、押しかけてきてるって」
「ええ、みんなに迷惑かけちゃうなぁ」
「だからこそ、俺たちに休暇を取ってって荒木さんは言ってくれたんでしょ」
それに迷惑かどうかは……と言って、梓くんはポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を私に見せる。そこには真希乃ちゃんのアカウントが表示されていて、梓くんはその中からひとつ動画を再生した。
『祈里ちゃん、結婚おめでとうー!』
真希乃ちゃんの明るい声とともに、その背後に映し出されるカメラを持った報道陣たち。「おめでとう」とも「うおー!」とも取れる野太い歓声が、報道陣側からも上がっている。周囲の景色から、どうやら事務所の前で撮影されたもののようだ。
『報道陣と一緒にお祝いしてる人、初めて見た』
『マスコミに羽柴祈里の結婚のお祝いさせてて草』
『俺も一緒にこの場でお祝いしたかった』
そんな真希乃ちゃんの投稿には、その動画を見た人たちからそんなリプライまでついていて、呆気に取られる。
「迷惑どころか楽しんでそうだよ」
梓くんはもう一度、真希乃ちゃんの短い動画を再生してクスクスと笑い声を上げた。
「楽しんでもらえてるなら、よかったけど」
自分で言っておいてあれだけれど、よかったかどうかは分からない。でも、何だかそのお祝いの仕方が真希乃ちゃんらしくて、私も段々と面白くなってきてしまった。
あとで、「ありがとう」ってコメント残しておこうかな。
柔らかな風が吹き抜ける。木々を揺らして通ってきた風は、深緑を纏い、爽やかな香りを運んできてくれる。
深く深呼吸をして、青い空を見上げた。
「何だか、変な感じ」
そう言って、少しだけ目を閉じる。
「なにが?」
「梓くんと、結婚したんだなぁって。まだ、信じられない感じ」
中学のとき一度別れて、もう二度と梓くんに会うことはないと思っていた。もう二度と、出会わないほうが良いって思っていた。
一緒にいても、梓くんを傷つけるだけだって思っていたのに。
再会して、想いが通じ合って、『日下部くん』から『梓くん』と呼ぶようになった。気が付けば、左手の薬指には結婚指輪と婚約指輪が光っている。
婚姻届けを出したのは昨日の朝。あの瞬間から私は、『羽柴祈里』から『日下部祈里』になったんだ。それもまだ、実感がない。けれど、胸の中には確かな幸福感が満ちている。
「俺も、まだ変な感じ」
「梓くんも?」
「うん。本当に、祈里が俺のお嫁さんなのかなぁって」
夢じゃなければいいなってずっと思ってる、と梓くんは笑った。
「これが夢だったら一生覚めたくない」
「夢じゃないよ」
梓くんの手を握った。梓くんの左手には、私の結婚指輪と同じシルバーのシンプルな指輪がついている。二人で一緒に選んだものだ。指で優しくそれを撫でる。
「帰ったら結婚式の準備もしないとだね」
梓くんが言う。
「何だか緊張するね」
私はそう返す。
「今のうちに少し練習しておかない?」
「いいね」
私の提案に、梓くんは可笑しそうに笑いながらも頷いてくれた。
向かい合った私たちは、両手を握り合う。
「汝……ええと、こういうとき神父さんってどんなことを言ってくれるんだっけ?」
「何となく、それっぽくやろう」
私も分かんないし、と笑った。「そうだね」と言った梓くんは、「じゃあ、祈里からお願い」と続けた。私はそれに頷いて、「ゴホン」と一度咳払いをする。
「えーと……あなたは、この者を妻としますか?」
「ふふ……」
「こら、笑わない」
「はい、すみません」
「あなたは、この者を妻としますか?」
「はい」
「汝、病めるときも健やかなるときも、常にこの者を愛し、守り、慈しみ、支え合うことを誓いますか?」
「はい、誓います」
「じゃあ、次は梓くんだよ」
うん、と梓くんは頷く。それから、ひとつ大きく深呼吸をした。そして、優しい声色で紡ぐ。
「あなたは、この者を夫としますか?」
「はい」
目が合うと、梓くんは長い前髪に隠れてしまいそうな瞳を柔らかく細めた。
「祈里、俺と幸せになってくれる?」
それは、私がさっき紡いだセリフとは全く違うものだった。
けれど、私の答えは決まっている。
「はい、誓います」
繋いでいた手を離して、梓くんの首元に抱き着く。
ボートが大きく揺れたけれど、何も怖くはなかった。
「誓います」と返事をして、今、ハッキリと分かったことがある。
私は、梓くんと幸せになるために、今日まで生きて来たんだ。
【了】