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七十一 受け継いだ願い

*********

世界の縫い目、一番深い峡谷の片隅。

紫苑は猫に睨まれた鼠みたいに、葉っぱの山の中に隠れていて、震えが止まらない。

「紫苑さん、どうして隠れるの?もう終わったじゃない。先輩相手によくやったよ!」

幸一は葉っぱの山の外でしゃがんでいて、紫苑を慰めている。

でも、紫苑はただ弱音をこぼし続ける。

「おのれは、どうしてあんこと、あんな話をしたのだろう……世界の意志の挑発で欲張りになって……調子に乗るべきではなかった……おしまいです、もう終わったのです……次に会ったら、絶対修良様に滅ぼされます……」

「先輩はそんなことを……」

幸一は流れで「しない」と言いたかったが、途中で自信がなくなり、話を変えた。

「先輩は誰かを恨んでも、俺を恨むから、紫苑さんと関係ないよ!」

「いいえ……修良様なら、きっとおのれを恨んでいます!戦ったことがなくても、おのれは幸一様と一緒にいるだけで、修良様の抹消名簿に入ります!」

「先輩はそんな理不尽なことを……」

幸一はもう一度「しない」と言いたいけど、やっぱり自信がなくて、方向を変えた。

「俺は紫苑さんを守るから、心配しないで!」

「守らないでください!!余計に修良様の恨みを増やします!!」

紫苑は思わず大声を出した。

「それに、幸一様は、もうすぐ神様になるのでしょ?もう、おのれは……きっと、修良様に……いいえ、それ以上……生きることも、死ぬことも……」

力を出し切ったのか、紫苑の声がますます小さくなり、体も更に縮んだ。

幸一は苦笑した。

「心配しすぎるよ。だって、紫苑さんは先輩を止めたんじゃないか。もう一度戦っても、きっと負けない……と思う」

「もう一度だなんて……!幸一様、もうご要望の通り、修良様を止めてあげました。もう勘弁してください……おのれを帰らせてください」

もう二度と修良と対面したくない。紫苑さんは懇願した。

「でも、紫苑さんは旧世界の力を求めていて、強くなりたいだろ。強いものと戦うのは、強くなれる近道なんだ!」

幸一は前向きに紫苑を励んだ。

「……後悔しました。諦めました。修良様の心に触れたから言えます。彼の心は底のない闇の空洞。怖すぎます。彼に悲惨に滅ぼされるのなら、弱いままでいいです……何処かの好色怨霊の愛玩物になったほうがましです!」

「……紫苑さん、さすがそんな言い方は酷いだ。先輩より好色怨霊のほうを選ぶなんて……」

「どのみち、おのれは役立たずです。もう勘弁してください!」

やさしい慰めでも励みでも効かなかったので、幸一は少々厳しい態度を取った。

「だめだ。俺を護衛するって、紫苑さは自分で言ってたじゃない。先輩の相手といい、旧世界への護衛といい、紫苑さんは一番適切な人物……魔物なんだ!自信を持ってください!」

「……」

(正義感の強いいい人なのに、いざとなったらなぜこんな強引だ!強大な力を持ってるのに、なぜ弱いおのれを……)

紫苑は自分の不幸を嘆いたら、ふいと妙な感覚がした。

(あれ、そう言えば、このような場面は、一度遭遇したような……)

(そうだ。神探しの任務を押しつけた時の修良様もこうだった!)

紫苑は葉っぱを掻きわけて、隙間から幸一を覗く。

(この二人、外見が全然違うけど、ひょっとして、中身は似たもの同士!?)

幸一は月形の光玉を手に持って、独り言を言っている。

「あれだけの福徳を受け取るのは時間がかかりそうだな……早く瞑想に入らないと……」

(あれ?幸一様の、心は……)

幸一の本質を見抜くように精いっぱい彼を観察したら、紫苑は更に妙なことに気づいた。


「うん?紫苑さん、もう大丈夫?」

いつのまにか、紫苑は葉っぱの山から出てきて、幸一の目の前に立った。

紫苑は表情を影に隠して、抑え目の声で幸一に言った。

「幸一様、貴方はおのれの恩人です。この世界が失われた神様です。おのれは力を手に入れるために、従わなければならない人間です。でも、これだけを言わせてください――」

「?」

紫苑は拳を握りつぶして、大きく息を吸って、一生の勇気を絞って大声を出した。

「修良様と痴話喧嘩するなら、ご自分たちでやってくださらないですか!?おのれは、貴方たちがやり合うための道具ではありません!!」

「――え?」

幸一は呆れた。

従順で弱気な紫苑だったが、今は明らかに怒っている。

恐怖の限界が切れたのかなと思って、幸一はとにかく紫苑に説明した。

「し、紫苑さん、落ち着いてください。先輩とは、痴話喧嘩じゃないし、俺も実際に幸一じゃないよ。だから……」

しかし、紫苑は静かになるどころか、逆に怒りの目で幸一に言い返した。

「幸一様、おのれは心魔です!おのれの目に映している貴方の心は一つしかない!貴方は一つの意識しか持ていません!つまり、貴方は還初太子という人物ではなく、幸一様です!!」

「!!」

幸一は驚愕で息を止めた。

静寂がしばらく続いたら、幸一はばつが悪そうに笑って、頭を掻いた。

「先輩にもバレなかったのに……」

「やはりっ!」

「ごめんなさい。でも、わざとじゃないんだ。少し前までに、本当に、自分が還初太子だと認識していたんだ。今紫苑さんに言われて、やっと確信できた。俺は、玄幸一だ」

「それは、つまり……意識の融合、ですか?」

紫苑は不確かな口調で確かめた。

「よく分からない。確かに、一度幸一である自覚がなくなった。でも、幸一としての記憶、感情、だんだん鮮明になって、『そうだ、俺は幸一だ』と思い出した。先輩のことを前のように信頼できなくなったのかもしれないけど、俺は幸一であることは変わらない」


真相を告げられて、紫苑はやっと落ち着いた。

「……では、なぜ修良様の傍に帰らないですか?本当に、神様になるおつもりですか?」

「紫苑さん、俺は怒っている」

「!!」

その話を聞いて、紫苑は緊張しそうに幸一と距離を取った。

「あっ、紫苑さんに怒っているのではない!先輩に怒っているんだ!」

「なるほど、前世の意識が抑えられて、父との縁を取られて、母が脅かされて、仙道に入るように仕組まれて、人生が操られたものですね……」

(さすが、怒りますね……)

真剣な話題なのに、紫苑はなぜか語り部たちのネタを喋っている気分になった。

「いいえ。せんじつめれば、先輩がそれらをやったのは俺・幸一の存在を守るためだ。手段が受け入れにくいけど、気持ちは理解できなくもない」

(さすが幸一様ですね……)

紫苑は感心した。

「怒ったのは、先輩は『私』を信じていなかったことだ」

「というと……?」

「母の記憶で、紫苑さんも見ただろ?還初太子の生の最後で、私は『キミのために生きていこう』と、鬼さんに約束した。世界の意志はどうであれ、俺は彼のために生きていく。前世や使命を知ったくらいで、先輩を離れるわけながい。なのに、先輩は最後まで俺の前世を知っていることを否定していた……」

幸一は唇を噛んだ。

「なるほど……怒っているから、わざと修良様を遠ざけて……!」

(って、やっぱり痴話喧嘩じゃないですか!)

紫苑は怒りたい気分がいっぱいだけど、感傷気分の幸一を配慮して、その怒りを抑えた。

「還初太子の意識が目覚めた今、俺はとても重要なことを思い出した。神や世界の意志と関係ないけど、『わたし自身』がやりたいことだ。それを完成するために、旧世界に行く必要がある。でも、実際に行ったことがないし……念のため、いろいろ紫苑さんに頼むしかない。ひどいやり方で、本当に申し訳ない……」

幸一は苦笑して、紫苑に頭を下げた。

「いいえ、おのれは、ただ……」

真摯に謝る幸一に向かって、紫苑は断る言葉を話せなくなった。

「本当は、最後まで先輩と一緒にいたかったけど、俺はまだ怒っているから、先輩を置いて行く。それと、前世で見えなかったことをもっと見たいんだ」

「見えなかったことって?」

にこやかに、軽やかに、幸一は紫苑の質問に答える。

「『私』がいなくなった後、『鬼さん』はどんな表情なのか、もっと見て見たいな」

「!!」

紫苑はぞっとした。

(やはり、幸一様はああ見ても、どこか、変なところが……)

「大人げないよね、先輩に知られたら、絶対叱られる。でも、先輩はいつも意地悪しているから、一度だけ俺がいじわるしてもいいじゃないか……ハハ」

幸一は空を仰いで、ちょっと泣きたい気持ちを笑い声に隠した。


確定ではないが、幸一としての意識に戻った理由は、おそらく、幸一と修良の関係でいたいからだ……

天良鬼・修良のあんな泣きそうな顔、「還初太子」は見たことがない。 

還初太子の生では、修良と良い関係になったものの、一歩止まりの距離に置かれていた。

修良に執着され、暖かく包まれるのは幸一の生のみだ。

還初太子の意識は確かに強い。でも、強いだからこそ、なかったものを誰よりも強く求めている。

修良と隔たりなく一緒に過ごしていた楽しい日々は、全部幸一になってからのものだ。

だから、幸一としての意識が目覚めて、融合したのかもしれない。

還初太子が幸一の意識を受けれた同時に、幸一も還初太子の意識も受け入れた。

還初太子だった頃の「あの願い」は、幸一が受け継いだ。


ごめんね、先輩・鬼さん、わがままだと知っているけど、

俺は・私は、やはりあなたを……してあげたいんだ……


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