【1】
「ここ、絶対何かあるだろ……」
暗い通路、天井の明かりは気休めにもならない。蛍光灯の点滅するこの地下通路を通るのは男にとって本当に嫌なことだった。二人の一般人はその感情を表面に出すか出さないかの違いはあれど、内心では暗がりを恐れていた。
「みっちゃんビビり過ぎ」
普段、ここを恐れる男は迂回して別の道を利用している。危険な雰囲気に満ち満ちた場所ではあるものの、不思議なことにホームレスは一人も見かけない。普通であれば溜まり場になりそうだが、。
隣を歩く女の足音と彼の足音。二人分の音だけがこの地下道を響かせている。
「弱っちいなー地元民は普通に通ってるよ」
「昔はここの駅から家まで行けたのに」
経営難、不祥事、需要の少なさによってこの上にある駅がなくなってしまったことにより、この辺りは一気に活気がなくなった。元からそこまで人気の多い町ではなかったのだが、駅の廃止が追い討ちをかけるようにして人を奪っていったのだ。便利だった周辺の店も客足が遠のき店を畳む者は増えた。
「まあ、
この地下道は不審者情報から無暗に近寄らないようにと学校で注意喚起が行われている程だ。大人であれば大丈夫だという保証はないというのに、二人はその地下道を歩いている。
「夏なのに寒いぜ」
友人の女が彼の隣を歩く。この世とは思えないこの空間も、彼女が居るだけで彼にとって二割はマシだ。しかしせいぜい二割だ。人数が多ければ不審者が手を出す可能性が下がるかもしれないが、そもそも人に危害を加えようとする者が人の数で諦めるのかは疑問だ。
割れ窓理論という言葉がある。割れた窓のある家を放っておくと、次第に周囲の治安が悪化するという考え方だ。この惨状を見るとその理論も自然に頷けてくるだろう。こんな現実とは思えないおどろおどろしい光景を目の当たりにしては、誰だろうと感覚がおかしくなってしまう。
二人がシャッターの横を通り過ぎた。
「あっやば……仕事のミス気付いた」
「マズいじゃん……でも和んだわ」
彼女の背中から暗い地下道へと振り返る男。二人の足跡をおもむろに飲み込むその暗がり。点滅する遠くの弱々しい灯りが、スポットライトのように通路を照らす。それは何か、これから起きる不吉なことを男に予感させるようなものだった。
「和むな、人のミスで……」
そう言って彼が振り向いた時、そこに彼女は影も形もなかった。ただの暗闇、人一人を隠すには十分過ぎる程の暗い空間。足音も服の擦れる音も、全ては黒が掻き消した。地下道に満ちるどこまでも黒い純粋な黒が。
彼女が居ない地下道を見て彼は出口を目指した。静寂を足音で切り裂きながら、駆け出したのだ。
【2】
「はあ……」
横たわり、
彼女が天井に手を伸ばす。マンションの五階でも何故か虫の鳴き声は聞こえる。
「遠いなあ……先輩」
縮まっていた筈の距離が再び遠のき、そして一歩前に進んだ。長い目で見ればこれは確かな前進なのかもしれないが、それは実際に体感すれば途方もない絶望感を味わうことになる。彼女は彼の上辺をなぞっていただけに過ぎない。
「(分かってた気になって……馬鹿みたい私)」
ここから先はまだまだ遠い。彼女からすれば、自分が深く踏み込むことができた他人の心は姉と彼の二人だけだったというのに、いきなり突き放された気分だろう。
天井に向けピンと張った腕が柔らかいベッドに落ちていく。彼女は、あの炎天下の駄菓子屋でようやくスタートラインに立ったのだ。
『え……ど、どういうことっすか?』
炎天下の橋の上で男二人と、谷口の手の上にあるラジオの話は続く。
『低確率だが人は、ある日突然『
『人間ではあるぜ?色々とできるけど』
あの化け物染みた彼らの動きはそれが理由だというのかと粳部は理解する。現実味のない新たな概念の唐突さに戸惑う彼女だったが、受け入れ難くとも現に見てしまっている。その姿を、あり得ない現象の数々を、確かに起きた怪物の異常行動を。既存概念では到底説明し切れないそれらを空虚の一言で片付けることはできない。
谷口という仮面の男の手の上で、ラジオが異音を混ぜながら話す。
『まず、怪物の話をしましょうよ。あっちの方が訳分かんないですから』
『ふむ……昨日の怪物は覚えているか?』
街灯の下に現れたあの怪物。光の中では実体が消え、暗闇の中では縦横無尽に駆け巡る。どこかの映画で見たようなおぞましい怪物だったが、
あんな怪物を隔離できるというのはどういう施設なのか考える粳部だったが、一呼吸して意識を切り替え谷口の問いに答える。
「忘れるわけないですって」
『あの謎の生物を、我々は『
『……がい、かい?』
名前だけで既に粳部は混乱しているというのに、謎のという修飾語が飛び込んできた。隔離をしなければならないような危険な生物が街に居る。いや、世界中のどんな場所にも潜んでいる。人の寄らない寂れた場所で、彼らはいつも待っているのだ。
それを聞いてあれ程の脅威の正体がよく分かっていないというのは、相当にマズいのではないかと彼女は考える。彼らが本当に自分に理解させる気があるのか分からなくなってきた粳部だったが、説明なのだからきっとあると信じることにした。
谷口が藍川の駄菓子屋へと歩き出す。彼女はその背を疑りながらも後を着いて行った。
『概念の怪物、現実離れした生物です』
『まず、
『概念って、意味内容とかの概念で合ってますよね?』
『人が生み出した概念、昔からあった概念。それらに対応した概怪が居るってこと』
ラジオと共に話を進める谷口に対し、藍川が粳部の耳元で補足説明をする。
『がいかい』という名前は『
冷や汗が粳部の首に流れる。
『心があり、生物全てに殺意がある。物理法則を無視する。大まかにはこれだ』
『無茶苦茶じゃないっすか!』
『だからこそ、俺達がいるんだろ?』
比較的涼し気な店内に足を踏み入れる彼ら。藍川の言葉がただでさえ混乱している粳部に拍車をかけていた。そんな化け物がこの世に存在して良い筈がない。しかし、それは実在している。一般人に伏せられている危険な情報、世界を一瞬で塗り替えかねない存在を彼らは必死に隠匿している。既存の秩序と安寧を守る為に。
谷口がレジのある机に腰掛けた。
『奴らは通常兵器を無効にする』
『……じゅ、銃じゃ駄目とか?』
最早、理屈がどうこうなんて言っている場合ではない。相手は非常識などという域を超えている。藍川達のような超人的な存在が必要とされる理由を彼女はやっと理解した。あれは害獣の駆除業者や警察では手に余る。どうしようもない力に対抗するにはどうしようもない力が必要なのだ。
ラジオのノイズ音が、蝉の声と張り合う。
『弾は弾く刃は折れる。毒は防ぐし酸も気にせず!』
『見えない壁『
『ミ、ミサイルでどうにかなりませんかね……』
何を分かりきったことをという視線が粳部に届く。
未知の仕組みが敵を保護し、普通のやり方ではどうしようもない。ならばそれをどうするというのか。粳部は理屈が分からず混乱していた。彼女が見た『どうにかなった敵』は一体どうやって倒されていたというのか。
ふと、藍川が机からカッターナイフを取り出す。
『それが強ければ強い程、
『なら、どうやって……』
『簡単だ。同じものならこちらにもある』
そう言って藍川はカッターナイフを掲げ、自分の手に振り下ろす。凄まじい勢いで、リストカットの比ではない勢いで。手に向かって落ちていくそれは止まらない。それはきっと深く刺さり、最悪の場合は手を貫通することだろう。
突然の出来事に声も出ず、粳部は何も対応できず反射的に目を瞑る。しかし、すぐにそれが杞憂であったことを認識する。
『……え?』
『奴らの概念防御を司祭の概念防御を以って破る。この手に限るな』
だが、刃は折れた。血の一滴も出さずに傷一つ残さずに、カッターナイフの方が壊れていたのだ。それは最早人の手の硬度ではない。擦り傷が付かない程の硬度が人にあっていい筈がない。まるで全身が鉄でできているかのような今の彼は、人間ではなかった。
床に折れた刃の破片が転がる。
『こ、これで無傷ですか?』
『ああ。毒も銃も、カッターじゃ擦り傷も』
『……そりゃあんな化け物と戦えるわけですわ』
概念防御、わざわざ人の手を使って捕獲しているのにはそういったわけがある。どんな手段も通用しない概念防御という完全な鉄壁。このどうしようもない大き過ぎる壁を乗り越えるには、まず同じ土俵に立たなくてはならない。同じ高さに立つ為には、同じ概念防御を持った司祭をぶつければいい。これぞ正に毒を以て毒を制すだ。
ある程度納得がいったところで新たに、彼女の頭に疑問が湧いてくる。
『……概怪って、どこから来るんすか?』
『分かりません。概怪は基本、人気のない場所で勝手に湧きます』
『そして、見えない所で殺して回る』
谷口が答える。
ああなるほどと、粳部の脳内で合点がいった。確かにあの街灯が点滅していた道は人の目もない良い場所だ。街灯の数もあまりない上に劣化からか薄暗く、住人があまり多くない為か家の明かりも外に漏れない。条件が全て揃っているあの場所は人を殺すには丁度良いのだ。そりゃあ、治安も悪いと言われるわけだ。
となると藍川がこの町に引っ越してきたのは、あの概怪の対処をする為だったからなのだろうかと彼女は考える。
『我々の仕事は概怪を倒して拘束し、一般人から遠ざけることです』
『熊の駆除業者みたいなものっすね』
『殺しはしない。研究の目的もあるしな」
藍川が気怠げに答える。
だが、研究の目的があるとはいえあんな化け物を隔離して管理するとなると相当な手間が掛かる。脱走し死人が出た場合、『殺しておけば良かった』とならないのだろうかと彼女は考えていた。それだけのリスクを管理できる規模がその組織にあるのだとすれば、彼女は自分が考えているよりも大きな組織に飲み込まれている。
『だが、あっちは俺達を殺しに来る。殺す為に生まれてきたからな』
『……ず、随分と恨まれましたね』
『恨みじゃないさ。奴らは息をするように人を殺す。そこに感情はない』
藍川が語る。心を読むことに長けた彼がそう言うのであればそうなのかもしれないが、粳部はそこに少し憐れみが混じっているように思えた。怒りで捕獲を行なっているのではなく、仕事として市民の安全の為に割り切ってやっているのかもしれない。
谷口がケースからアイスを取り出しながら答える。
『……そうデザインされたなら仕方がない。生理機能は罪に問えない』
『はい、アイス二百円な』
『ああ今度な』
『今度なじゃねえよ払え』
仕組まれた命、それは誰によって?司祭となる偶然は運命故にか?粳部には分からない、彼女には何も分からない。これは人間の理解を超えた領域だ。何故こんな物理法則に反したものが偶然発生するのか、それともこれは偶然ではないのか。
どうしようもない抗えぬ流れの中で、彼らは身を任せただ殺し合うしかない。
『私もその……司祭なんですか?』
『さあ。そうかもしれないしそうでないかも』
『それはあの案件が解決すれば分かることだ』
仮面をズラした谷口がアイスを食べながら答える。残念なことに、粳部の方からは角度的に丁度顔が見えない。邪魔でしかないと思うのだが何故身に付けているのだろうかと彼女は思っていた。彼女の頭に再び疑問が湧き出してくるものの、今一番気になっていたことはお金を払っていないというのに勝手に食べていることだ。
『案件というと?』
『……』
彼女が藍川に目を向けると伏し目がちな姿が映る。その案件とやらが彼女にどう関係があるのか。露骨に粳部を遠ざける藍川の言動からするに、何か嫌な気配がする案件だ。彼の懸念が杞憂ではないということがその表情と仕草から何となく分かる。きっと、かなり酷い話だ。
粳部は硬く口を閉ざす彼を見つめ、息を呑む。
『概怪の多くは生まれた場所から遠くには行きません』
『今、この町の概怪は動き回ってるんだよ』