「知里さん、それは違います!」
私は必死に首を振った。
「どう違うのか、説明してちょうだい、薫」
誤解を解こうと口を開きかけた瞬間、須賀さんの言葉が脳裏をよぎった。
──戻ったら、すぐに彼女に話すつもりだ。きちんと話をして、僕という人間を見てもらえるようにするよ──
喉まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。……今、私が話していいことではない。
沈黙する私を見つめる知里さんの目が、徐々に冷たさを帯び、鋭さを増していく。
「祐介くんは……社内で春木作品の映像化について探り、次回作を提供するように、須賀さん──いえ、春木賢一朗を口説き落としたってこと? オーディション合格と引き換えに?」
「違います! 知里さん、必ず説明しますから、どうかもう少しだけ待ってください!」
懇願する私を、知里さんは怒りを押し殺した冷たい目で見つめた。その瞳には抑えきれない疑念と苛立ちが宿り、彼女が次第に冷静さを失っていくのがはっきりとわかった。
「あなたも……出雲くんから須賀くんに乗り換えようとしていたんじゃないの? ベストセラー作家と付き合えば、脚本家としての箔もつくでしょうしね!」
「知里さん!」
「触らないで!」
私が伸ばした手を、知里さんは強く払いのけた。乾いた音が響き、一瞬遅れて手のひらに鈍い痛みが走る。
呆然と知里さんを見つめると、彼女もまた、深く傷ついた表情で私を見返していた。
「……知里さん、必ず説明します。だから、少しだけ時間をください」
震える声でそう告げ、私は一礼してドアを開けた。今、これ以上言葉を重ねても、彼女の心に届くことはない──そんな気がした。
そして、知里さんが落ち着くまでの間に、私には確かめなければならないことがあった。
私は街路へと踏み出した。冷たい風が肌を刺し、心が一瞬引き締まる。
スマホを取り出し、メッセージアプリを開いた。
──春木賢一朗とダークレイス社の件、聞きました
送信すると、すぐに返信が来た。そこには会社名だけが記されている。ちょうど通りかかったタクシーを止め、運転手にその社名を告げた。
車内の温かさに、ようやく張り詰めた心が緩んだ気がした。私は両手で顔を覆い、シートに身を沈めた。
ふと、知里さんの手のぬくもりが蘇る。
初めて理央さんに会ったあの日……打ちひしがれていた私の肩に、彼女はそっと手を置いた。あのとき、知里さんが私を受け入れてくれたから私は泣くことができたし、もう一度自分の足で立つための、もがく力をもらえたのだ。
それなのに──誤解とはいえ、私は彼女を深く傷つけてしまった。
胸の奥が締めつけられる。私はこみ上げる涙をこらえるために、唇を噛みしめた。
「着きましたよ」
運転手の声に顔を上げると、目の前に8階建てのビルがそびえていた。エントランスには「根尾頁出版株式会社」の看板が掲げられている。
受付で名を告げると、奥の打ち合わせ室へ案内された。指定された部屋のドアをノックする。中から「どうぞ」と低く落ち着いた声が返ってきた。
扉を開けると、一人がけのソファに座る丸メガネの男性が、手元のプリント用紙の束から顔を上げて私を見た。目尻に刻まれた深いシワが、彼の長年の編集者人生を物語っているかのようだった。
「譲原さん、ご無沙汰しております」
頭を下げると、彼は優しげな笑顔で頷いて、私にソファを勧めた。
「さっき、ダークレイス社の件を聞きました。……本当なんですか?」
私の言葉に、譲原さんは手元の書類をまとめ、小さく息をついた。
「私もまだ詳細は把握できていません。ただ、私の方にもダークレイス社の三浦さんから連絡がありましてね。作者と直接交渉した結果、映像化が決まったと、一方的に告げられました。すでに作者側の要望も受け入れたそうです」
「作者側の、要望……?」
譲原さんは小さく首を振る。
「それについては、先生本人から直接聞くようにとのことでした」
机の上のコピー用紙の束を手で押さえながら、彼は深いため息をついた。
「そして、もう一つ問題があります。まだ先生と編集部しか持っていないはずの次回作の原稿のデータが、すでにダークレイス社に渡っていたんです。作者側から提供された証拠だと言って、三浦さんがメールで送ってきました」
私は言葉を失った。譲原さんは丸メガネを外してこめかみを揉みながら続けた。
「そして……原稿は、間違いなく本物でした」
そのとき、突然ドアが勢いよく開き、息を切らせた男性が飛び込んできた。
冬の冷気をまといながらも、頬には汗が伝い、肩で大きく息をしている。その目には焦りと怒り、そして深い悲しみが複雑に交差して──いつもの陽気でおちゃらけた彼とは、別人のようだった。
私は思わず立ち上がる。
「祐介、どういうことなの」
そんな私を手で制して、譲原さんがゆっくりと立ち上がった。
「なぜ、こんなことになったのか……まずはあなたの話を聞かせてくれませんか?」
その静かな問いに、祐介は目をぎゅっと閉じて、唇を噛んで俯いた。
譲原さんはまっすぐに祐介を見つめ、もう一度穏やかな声で言った。
「……お話しいただけますね、