――あれから一ヶ月。
「やっほー! あれぇ? 今日は藍海ちゃんだけ?」
革パン姿の夏美さんが、ヘルメットをバッグみたいに肩にかけお店に入ってきた。
私は帳簿作成を中断し、ノートパソコンから顔を上げる。
「いらっしゃい。みんなやる事あって忙しいの。この時間は、いつも私一人だよ」
「そっかあ。せっかくみんなでお店してるのに、寂しいね」
「そーでも。私一人いればどんなお客さんでも対応できるし、お客さん来なくても事務仕事は大量に残ってるし。あ……夏美さん、する?」
「あ~、私は職業柄、爪伸ばせない人だからダイジョブ」
「そっか。グローブしてアクセル握ったら、ネイルなんてすぐ取れちゃうか。最近の調子はどう?」
「まぁボチボチってトコ。入賞はするけど、表彰台はギリギリ届かない感じ?」
「えっ、すごいじゃん! ちょっと前まで、下から数えた方が速かったのに!」
「さすがにねー。金銭面の心配がなくなって、優秀なメカニックもたくさん付いて、おまけにコインを使ったトレーニングまでしてもらってるんだから。葉室財閥さまさまですよ」
「そこは八雲さまさま、なんじゃないの? なんだかんだ総帥として、葉室財閥を取り仕切ってくれてるんだから」
「うん。もちろん感謝しなきゃなんだけど……」
「だけど?」
夏美さんは、革パンのお尻をデスクに引っ掛け、ため息を漏らす。
「結局八雲さん、万能薬飲んで健康体でいられたのなんて、一週間くらいだったじゃない? その一週間だって葉室財閥のお仕事ばっかで、ちっとも外の世界、楽しんでもらえなかったもん。それなのに私はこんなに手厚くサポートしてもらって……やっぱり負い目、感じちゃうよ」
そう。
八雲さんが万能薬を服用したあの夜、葉室財閥に大きな変革が訪れた。
私が真っ二つにしたママとみひろの
その事実に耐えられなかった久右衛門さんは狂ったように泣き叫び、最後には抜け殻のようになってしまい、何を聞かれてもまともな返事ができなくなってしまった。
今ではお屋敷の離れで、隠居同然の日々を過ごしている。
表向きは体調不良とした久右衛門さんに代わり、八雲さんが、葉室財閥総帥代理を務める事になった。
公の場に初めて姿を現した葉室家次期当主を見て、関係各位は、虚弱体質は根も葉もない噂話だと認識を改めた。財閥幹部たちは、いち早く次期総帥に取り入ろうと、こぞってアポを申し込み、八雲さんも積極的に地盤固めに乗り出した。
そして一週間後、八雲さんは再び仕事場である大講堂に引きこもり、これまで通りリモートで仕事する事になった。
万能薬の効果が、無くなってしまったのだ。
八雲さんは先天性免疫不全症候群。そしてこの病気は、万能薬をもってしても治らない。野村先生曰く、八雲さんが一週間元気に活動できたのは、ウィルスに感染してもその場で万能薬が治してくれてたから、だそうだ。
よくよく考えてみれば、生まれつきの病気が治らないのは理屈に合っている。
万能薬は、八雲さんが生まれた瞬間を本来あるべき正常値とみなす。怪我をしたり病気になったら、その正常値に戻すだけ。治癒能力を高めたり取り込んだ菌やウィルスを排除する事はできても、遺伝子によって決定されたその人の体質を、変える事はできない。
かくして八雲さんは、今も大講堂から指示を出し、葉室財閥総帥の責務を立派に果たしてくれている。
当然外出なんてあり得ないし、専属メイド亜由美さん始め多くの使用人が、いつもお傍で彼のお世話を焼いている。
更なる天上人となってしまった八雲さん相手に、夏美さんの出る幕はなさそうだった。
「だからね……この前バイクで迎えに行って、八雲さん後ろに乗せて、プチツーリングに連れ出しちゃったの!」
「マ……マジで!?」
「マジマジ。ほら、無菌ヘルメット被ってれば、ちょっとくらい外出ても大丈夫ーって言ってたじゃない? 八雲さんに言ったら思いのほかノリノリで。戻ってきたら亜由美さんにめちゃくちゃ怒られたらしいけど」
笑顔で話す夏美さん見て、私は思わず噴き出した。全然諦める気ないじゃん、夏美さん。
八雲さんにとっても、屋敷から強引に連れ出してくれる夏美さんは、特別な存在なんだろうし……でもずっとメット被ってたらキスすらできないよね。どうすんだろ?
「それで……実際八雲さんとは、どこまで進んでるの?」
「えー? なーいしょ! それより他のみんなはどう? 元気にしてる?」
ふわふわボブの毛先を指でくるくるしながら、話を逸らす夏美さん。
いやいや、ほっぺ真っ赤にしないでよ! 絶対なんかあったじゃん!
「えーと……ミセリさんは変わらず? プロレスの地方巡業してるみたい。コインも葉室研究所に預けっぱなしだっていうし、もうコイン付けて試合に出る事はないんじゃないかな」
「そっかー。あの人すごく真面目だから、そうなっちゃうかもねぇ」
「相手の感情や行動を読み取れるって、格闘技ではすごく有利になるからね。プロレスは人気商売。勝ち負けよりも、お客さんにどう楽しんでもらうかが重要らしいから」
それに復帰したミセリさんの人気は、ここのところうなぎのぼりだ。
コインのおかげで、みんなの期待に応える事が大事って分かったわけだし。そういう試合運びをしていれば、コインなんかなくても、人気レスラーになれるだろう。
「リーラちゃんは?」
「最初は嫌がってたけど、結局葉室教育機関の小学校に編入したよ。コイン研究に協力するフリして、しょっちゅうコイン持ち出していたずらしてるみたい」
「相変わらずの、おてんば姫だ!」
「でも、楽しそうだったからいいんじゃない? ウチにもよく来るし。こないだなんて、小学校卒業したらここで働きたーいとか言ってた」
「まさかの小卒!?」
「そんなの許されるわけないって。学校通いながら放課後お手伝いだったらいいよーって言っといた。私だって、高校通いながらやってるんだから」
そう言って、デスク端に置いてある多種多様なネイルを見つめる。その奥には、お祖母ちゃんから受け継いだ、
まさかこれの影響で、私がネイルサロンを始めるなんて思ってもみなかった。
でも、
ネイルを見て物思いに耽る私に、夏美さんはニヤリと口角を上げた。
「それで~……藍海ちゃんはジルコさんとの決着、いつ付けるのよ?」
「いい年こいた少年漫画バトル脳オジサンに、まともに付き合ってらんないよ。『この仕事終わったらねー』って引き延ばして、ボロ雑巾になるまで働かせるつもり」
「……藍海ちゃんて、ジルコさんにだけ手厳しいよね」
「だってアイツ、勝手すぎるんだもん! 仕事見つからないって言うからウチで雇ってやってんのに、この前
マジであの時は殺意が湧いた。
でもあれは、私の闘争心を煽るためのジルコの策略。ヤツに実力行使は、逆に悦ばせるだけ。
だったら会社のツケ払いを、ジルコの借金にしてやって、やりたくもない仕事を押し付けた方がよっぽど制裁になる。
「そのジルコさんは、今どこで何をしてるの?」
「猫探してる」
「ねこ?」
「飼い猫がね、いなくなっちゃったのよ。それで今、近所の野良猫をリストアップして、調査してるみたい」
「はぁ~、テロリストがネコリストねぇ。なんかもう彼、藍海ちゃんが頼めばなんでもしてくれそうじゃない?」
私は眉間に皺を寄せ、「げーっ」と言って舌を突き出した。
「冗談やめて。猫だって、私が頼んだわけじゃなし」
「へえ~ん」
半目で変な相槌を打ち、アヒル口を披露する恋愛脳・夏美さん。
どうやら私とジルコがいい感じなんじゃないかって思ってるようで、最近何かにつけて勘ぐってくる。否定したって照れ隠しだって思われるだけだし……まーったくその気のない私にとって、迷惑千万極まりない。
「でもさ、この前――」
「お疲れ様でーす」
夏美さんが何か言いかけたその時、入口のスチール扉が開いて女子高生が入ってきた。
腰まで伸びたロングストレート、大きな紫目と大きな胸。白くて細い首にはペンダント・チェーンが下がり、そのトップに割れた金貨が光ってる。
「あら、夏美さん。お久しぶりですね!」
「みひろちゃ~ん! お疲れおひさ~!」
待合室のソファーに鞄を置くと、みひろは私たちの元に駆け寄って来た。
「珍しいですね、こんな時間にいらっしゃるなんて」
「そうかもね~って、えっ、もうこんな時間!? 私そろそろ行かなきゃ!」
「葉室研究所ですか?」
「そ、コイントスしてサーキット走るの久しぶりだから、楽しみにしてたんだ。ごめんねみひろちゃん、全然話せなくて。藍海ちゃんも、また今度ね!」
「はい、お気をつけて」
「またー」
夏美さんはヘルメットを小脇に抱え、慌ただしく店を去って行った。
みひろはそれを見送ると、私のデスク前に立って報告してくれる。
「えっと。藍海がスった染み付きハンカチは、やはり依頼主の奥様のものでした」
「おっ、ならこれで確定だね」
「ええ。ホテルのカフェで飲み物を零したのなら、拭くものは店員が持ってきてくれます。取引相手の奥様にハンカチを渡されても、それで拭こうとはしないでしょう。でも、コーヒーを零した場所が二人きりのお部屋だったら……」
「証拠写真は撮れた?」
「あとの尾行は伊織に任せたので、写真も撮ってきてくれます」
「オッケー。経費使ってたらレシートと一緒に申請してね。請求書に含めとくから」
「あの、藍海……」
「ん、なに?」
「探偵のお仕事って……浮気調査とかペット探しとか、そういうのばかりなんですね」
「そりゃそーよ。普通に事件とか持ちこまれたら警察に回すし、これくらいで丁度いいでしょ? 私たち、学校通いながらやってんだし」
「でもっ! 私これでも七年のキャリアを持つベテランですよ!? もっと企業カルテル暴くとか、遺産目当ての連続殺人事件とか! 歯ごたえあるの、やりたいじゃないですか!」
「久しぶりに聞くなぁ、みひろのお嬢様ムーブ」
「これはお嬢様ムーブではなく、探偵ムーブですっ!」
みひろが天を仰いで嘆いていると、入口のスチール扉がぎぎぎと開いた。
しばらく眺めていると小学生くらいの女の子が、顔だけぴょこんと出して、こっちを窺っている。
「いらっしゃいませ、お客様。ネイルに興味ありますか?」
「あ、いえ……あの」
女の子は緊張した面持ちで中に入ってくると、思い切って声を張る。
「あのっ! ここのネイルサロンって……こっ、困り事の相談も受け付けてるって聞いて!」
みひろはスマホを取り出すと、ポンポンポンとタップした。
スチール製の扉が自動でカシャンと施錠され、窓のブラインドカーテンがシャカシャカ自動で閉まっていく。表のネイルサロンのディスプレイは今頃、『CLOSED』の画面に切り替わっているはずだ。
「どうぞ、こちらにおかけになって下さい」
みひろは少女をソファーに促す。
二人で前に座ると、可愛い依頼人の緊張を解すため、まずは軽く自己紹介。
「私は有海藍海です。ここクリソピア探偵事務所の所長をしています。そしてこちらが――」
「初めまして。私の名前は葉山みひろ、私立探偵です」
女の子はぱちくりと目を見開き、驚いている。
そりゃそうだ。私たち、普通の女子高生にしか見えないんだから。
でも安心して、小さなお客さん。あなたはとてもいい選択をしたんだよ。
「よろしければお嬢様、あなたのお名前を……当ててみましょうか?」
だって私たちはどんなモノでもスリ取るし、どんな謎も推理で読み解く――、
スリJKと推理令嬢なんだから。
<了>