「雪、寝る前に音楽流す?」
「ん~そうだね。なんか雰囲気いいやつね」
「おっけ~」
そう言って彼は、ブルートゥースのスピーカーに繋いだスマホから、今流行りの曲を流す。
「また、その歌? 幸太くん、ほんと好きだね~」
「歌詞もメロディも全部いいんだよ~」
車の音も人の声もほとんど聞こえなくなった、静かな夜空の下。
心地のいいメロディと、ふたりの鼓動だけが小さなアパートの一室を彩る。
私にとってこの空間は、ふたりだけの『特別』でかけがえのないものだった。
***
恋人は大学の後輩の男の子だった。
おしゃれで、ちょっとだけチャラくて、クシャっとした笑い方が特徴の可愛げのある人だった。
彼はいろんな人から人気があって、いつもみんなの中心にいた。
それに比べて、私は明るいねとか、おしゃれだねとは、よく言われるけれど、実はそんなことはなくて。
ホントは彼の隣にいても見劣りしないように、背伸びをしているだけだった。
おしゃれな彼と並んで歩けるように、似合わないかもしれない服を着た。
年上ぶるために、タバコなんてものも吸い始めてみた。
余裕な顔をして、あなたの横を歩いた。
……ずっと隣にいられるのだと思っていた。
これからも、他愛のない会話をしながら、何度も誕生日をお祝いし合うものだと思ってた。
けど……
「……ごめん、雪。俺、自由になりたいんだ」
……夏の終わりに、幸太くんは、いきなり、私の手を、離した。
***
「そんなやつ、別れて正解だって~だいたいさ、あの子、陰でめっちゃ遊んでそうな感じだったじゃん? そう思わない?」
別れを告げられて一週間。
私は、大学の先輩の美奈子さんと居酒屋で顔を突き合わせていた。
彼女はたいていの悩みは相談できる人で、幸太くんと別れたことも、一番に話した。
「まぁ~気にしてもしょうがないって。合わなかっただ~け。男なんかいっぱい、いるんだから」
彼女はカランとジョッキを傾け、レモン酎ハイをのどに流し込む。
「だいじょぶだって、しんどいのは今だけ……そうだ、今度合コンとか行ってみない?」
「……ん~」
「ま、そのうち忘れられるからさ。また遊びにこ……すいませ~ん」
美奈子さんが店員さんにお会計を申し出て、私たちは店を後にした。
「一か月経てば忘れられるし、どうでもよくなってるよ~」
「……そう、なのかな?」
「だいたいさ~雪は重いのよ? あたしもフラれたときは、そりゃ泣いたけど、次の日からはもう他の男と遊んでたかんね~」
彼女は前髪をとめたピンを指先ではじきながら、ため息とともに言う。
「……それは、すごいですね」
重い、か。
でも、恋人を愛するのって、そんなに悪いことなのかな?
今、彼の心の中に、私はいるのかな?
もし、いないのなら……私も、忘れられるといいな。
***
けれど、一か月経っても、二か月経っても、私は、彼を忘れることができなかった。
そんな負のスパイラルから、なんとか抜け出したい。
その一心で、マッチングアプリを始めた。
無条件に画面に出てきた男の人をスワイプしていく。
そこでメッセージを送り合い、実際に会った男の人もいた。
けど……どれだけいい雰囲気になっても、幸太くんが、私の頭をよぎる。
私の隣で、くしゃっと微笑む彼が……私を鎖で縛り続ける。
「……このままじゃだめだ」
そんなことを思った頃、仲の良かった大学の先輩と距離が縮まった。
何度か食事をしたり、遊びに行ったりもした。
先輩はかっこいいし、ちょっと大人の雰囲気がある。
でも私は、気持ちに整理がついていないと自分自身に言い訳しながら、先輩のわかりやすい好意に気付かないふりをしていた。
そして、いつもみたいに先輩の、少し後ろを歩いているときだった。
「雪ちゃんさ、今日泊まってかね?」
「……あ、いや」
ぼそっと囁いた先輩の言葉に、私は反射的に逃げてしまう。
「え。なにそれ、何回も飲みにいってて、それはないでしょ」
「っ……すいません」
ごまかすような愛想笑いを含んだ私の謝罪に、先輩はわざとらしく大きなため息を吐いた。
「この前まで付き合ってた男が忘れられないのか何なのか知らないけど。今の雪ちゃんてさ、男にフラれた私、かわいそうってだけなんじゃないの?」
「……っ」
「ま、なんでもいいけどさ。その気持ち、重いと思うよ。じゃね」
捨て台詞を吐き、こちらに振り返りもせず、夜のなかへと消えていく先輩。
そして、終電間際の雑踏のなかには、私だけがぽつんと取り残される。
「はあ……」
先輩の背中が見えなくなって、震えるような息を吐く。
……また出た、重いって言葉。
わかってるんだよ、そんなこと。私だって前に進みたいんだよ。
みんなの歩幅に着いていけなくて、心と体が反対方向に流れていくような感覚がして、胸が張り裂けそうになる。
『幸太くんを忘れなきゃ』その思いが日に日に強くなっていく。
それからは、重い女にならないように、男の人に会う回数を増やした。
……その中で私がこれから手を握れるような。幸太くんを忘れさせてくれるような男の人を探して。
けれど、誰と唇を重ねても、誰に身体を許しても、心までは許せなかった。
皮肉なことに行動と心が反比例するように、彼への思いが強くなっていくだけだった。
寝る前に何度も彼を思い出しては枕を濡らした。
その度に会いたいって気持ちが胸をじくじくと痛めつけて、呼吸が荒くなった。
……幸太くんにかけられた、恋心という呪いに縛られたまま生きていかなければならないのかと思うと、怖かった。
***
一人になって、何回目の夜を迎えただろ。
自室に来たタイミングで、珍しくスマホが鳴った。
「……っ」
表示された名前を見て息をのんだ。
だって、画面に表示されていた名前は……私がずっと求めていて……
『……もしもし、雪?』
「……幸太、くん」
ずっと声を聞きたかった人だったから。
『ごめん、今、大丈夫?』
「……うん」
『……特に、用事ってことじゃないけど、雪、俺の部屋に、色々荷物置いてただろ?』
「あ……っ」
ちょっとでも期待して損した。
幸太くんは、もう、終わらせようとしているんだ。
「……取りに行くよ」
『うん、ありがと。明後日なら、俺、家にいるから、雪の都合次第で』
「わかった。その日でいい」
『おっけ、それじゃ……』
「うん……」
しばらくしてから、ぷつんと切れる音がして、画面には通話終了の文字が出ていた。
「はぁ……」
久しぶりに聞いた、幸太くんの声はあの頃と変わっていなかった。
ずっと聞きたかった声を聞けたのに、嬉しいという気持ちよりも辛い気持ちの方が当たり前のように大きくて……
そして、終わったはずの関係なのに、改めて終止符が打たれるその日が、どうしようもなく、怖かった。
***
久々に歩く、彼のアパートへと向かう道は小雨が降っていた。
そして、別れたときは半袖だったのに、今は長袖を着ていても肌寒く感じる季節になっていた。
それだけの期間、私は前を向けないでいる。
正直、今から十分後に会う彼にもどんな顔をしようか、何を喋ろうか、今でもわからないままだ。
私は音楽を流そうとイヤホンを耳にさしたけど、そんな気分になれなくて。
彼と付き合ったタイミングで始めたタバコを久しぶりに吸おうかと思ったけれど、やっぱりそんな気分にもなれなくて。
そうこうしているうちに、懐かしい目的地へと、たどり着いてしまった。
***
部屋の前に着くと、私は深く息を吸ってからインターホンを押した。
前に、この部屋のインターホンを押したのなんて、付き合う前とかだったな、とふと考えてしまって、また胸が痛くなる。
そんなことを考えてると、目の前の扉が、重い音を立てて開いた。
「……久しぶり」
声の主は、少しそわそわしながら、目尻を下げて微笑む。
その顔が今の私には、一番辛いよ、幸太くん。
「……元気だった?」
「……うん」
「……上がっていく?」
「……いや、ここでいい」
「荷物、全部あるか、わかんないからさ」
彼はドアを開けたまま、部屋の中へと進んでいく。
ここに入ってしまうと、閉じ込めようと必死だった想いが、また強くなってしまいそうで怖い。
……だって、この小さな部屋には、ふたりの思い出が詰まりすぎてるんだよ。
「……」
けれど……私は、彼の後を追うように、玄関をくぐった。
***
「一応置いてあったものは、まとめてみたんだけど……」
「ありがと」
細胞に染み付いた、落ち着く匂いがする。
「なんか飲む?」
「別にいい」
「……カフェオレあるけど」
「……じゃあ飲む」
「うん」
彼は少しだけ口元を緩め、冷蔵庫から私のお気に入りのカフェオレと、付き合っているときにプレゼントしてくれた、ペアのグラスを持ってきてくれた。
「……買ってきてくれてたの?」
「まぁ。そんな感じ」
「そっか、ありがと」
……こんなところが好きだった。何気なく私を大事にしてくれるその性格が。
カフェオレの味とともに、懐かしい思い出がよみがえる。
その記憶に頬が緩むけれど、彼との未来はもうないのだと思うと、途端に切なくなってくる。
「……なんか、音楽流そうか?」
私のよそよそしい態度が気になるのか、幸太くんが少し戸惑いながらもそんな言葉を投げかけてきた。
「こんな時に……?」
「……ごめん」
「いや……いいよ。好きなの、かけて」
「……うん」
彼は立ち上がって、ブルートゥーススピーカーの電源をつける。
聞きなれた起動音の後に、ギターのイントロが、流れ始める。
「……っ」
幸太くんが再生したその曲は、どこにでもいるカップルの出会いから別れまでを歌った失恋ソングで。
……それは、今から三か月ほど前に流行っていた、彼のお気に入りの曲だった。
「……」
「……」
小さな空間に、沈黙が訪れる。
それでも、音楽は、物語は進んでいく。
……なんでよりにもよって、この曲なんだよ。
だって、こんなの、今の私たちに合い過ぎてるじゃないか。
目頭がじんわりと熱くなってくる。もう無理だ。この曲を聞き終えたら帰ろう……
そう思って、ふと、彼の顔を見た。
「……ぇ」
その瞬間、幸太くんの目に溜まっていたものが、つーっと頬をなぞった。
「……幸太、くん」
「……雪」
どっちからだっただろ、先に手を伸ばしたのは。
どっちからだっただろ……先に、唇を重ねたのは。
その口づけは、これまでの三か月を取り戻すような、これまでの思い出をなぞるような、底の見えないものだった。
……そしてその時、私は、ようやく気が付いた。
私は、幸太くんを忘れてしまうのが、怖かったのだと。
彼と手を繋いでいた、一年以上の思い出がなかったことになってしまうのが、どうしようもなく怖かったのだと、気が付いた。
「……」
「……」
けど、今だけは。もう少しだけ、このまま……
音楽が流れ続けた、三分十七秒。私はあの時描いていた永遠を、強く求めた。
そのキスは、全然カフェオレの味なんかしなくて。
涙の味がした。
***
「その……ごめんな」
「いいって」
音楽が終わってすぐ、私はグラスに残っていたカフェオレを飲み干し、「帰るね」と彼に伝え、玄関を開けた。
「……駅まで送ろうか?」
「ううん。一人で帰れるからいいよ」
最後に、開いた扉から見える彼と過ごした思い出の部屋を見る。
笑った時も、喧嘩をした時も、一緒に過ごした小さな部屋。
それは私の心のアルバムに刻み込まれた、確かに二人だけの『特別』な空間だった。
「雪がよかったら、また遊びに来いよ。いつでもいると思うから」
「……うん」
そんな私の特別を、もう一度だけ目にしっかりと焼き付ける。
「……またな」
また涙がこぼれてしまいそうな笑顔で、小さく手をあげる幸太くん。
私もつられて涙がこぼれそうになる。もう一度、目の前の人を抱きしめたくなる。
けれど、こぶしをぎゅっと握りしめ。
「じゃあね」
と、彼に背を向け歩き出す。
だって、この部屋で、次の物語を紡ぐのは、私じゃないから。
その瞳には、もう別の女の子が映ってたんだね。
……隠しきれてなかったよ。
私のよく知ってる、あの髪留め、見つけちゃったんだもん。
***
駅に向かう道は、行きと違って雨がやんでいた。
「……よいしょ、と」
たまに幸太くんと深夜の散歩で来た公園のベンチに腰を下ろし、スマホを開く。
通知には『今日はありがとう』という短いメッセージがあった。
それに『私もありがとう』と打ち込んで、返信をしようとして、やめた。
過去のトーク履歴を、スクロールしてさかのぼってみる。
別れた日。
どこかへ出かけた日。
仲直りをした日。
喧嘩をした日。
初めての夜を過ごした次の日。
デートに行った日。
…………彼が告白してくれた日。
そんなかけがえのない特別が、トーク画面に色を付けていた。
目頭が熱くなって、鼻がツンと痛んだけど、楽しかった思い出で表情が緩んだ。
そして、恥ずかしいトーク内容を暗記するように読み返し、時間が今に追いついたとき、さっきのメッセージを送信して、既読が付く前にトーク履歴を削除し……彼をブロックした。
「幸太くん……っ」
涙が、ぽつ、ぽつと足元を濡らした。
これで幸太くんを忘れられるかと言えば、正直わからないよ。
いや、それどころか、これからも、寝るときも、誰かと歩くときも、音楽を聴くときも、幸太くんのことを思い出して、そのたびに苦しんで泣いてしまうのだと思う。
そんなことを考えていると、ふわりと、冷たい風が私の頬の涙をぬぐうように吹いた。
「……あぁ……そっか」
それで頭が冷やされたのか、背中を押されたのかわからないけれど。
なぜだか、もう大丈夫だと思った。
……あのすべてを悟った口づけで、なんとなく前を向こうって決めたじゃないか。
悲しんでも、苦しんでも、これからは私らしく……私のためだけに生きようって。
だから、あの部屋に、髪留めの横に、タバコの箱を置いてきたんだ。
私は、ぐしゃぐしゃと、目元をこすり涙を拭う。
あーあ、朝から気合入れてやったメイクも、これで落ちただろうな。
そんなことを考えてたら、自然と笑いが込み上げてきた。
そして呼吸を整えて、私は静かに決心する。
「幸太くん、付き合ってくれてありがと。別れたこと、絶対後悔させてみるから」
そう呟いたあと、晴れわたる空を見上げ、彼が好きだったあの歌を口ずさむのだった。
(終わり)