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第13話 神の影


 ――そうして二月が訪れた。まだ、梅は咲いていない。

 ただ雪の気配は消えた。


 美弥は、ほぼ自室にばかりいるため、使用人の雪野と、晴斗とばかり話をしている。この邸宅には多数の伴侶候補がいるとは聞いていたし、朝霞もいるそうだが、今のところは顔を合わせていない。


 自室に居る時、美弥は主に本を読んで過ごしている。

 そんな生活は平穏で、癒やされた体と心で考える限り、ここにいたいと思った。


「僕は、打算的なのかな……」


 晴斗に、確かに守られているのが伝わってくる。己は、それに甘えっぱなしだ。本当にそれでいいのだろうかと、本を読みながらも、その活字は頭に入ってはこず、晴斗のことばかり考えている。


「伴侶として、なにか出来ることはあるのかな?」


 そう呟きながら、美弥は読んでいた本を閉じた。


「少し……僕も外に出てみようかな」


 閉じこもり、平穏な場所にいることは簡単なことだ。けれど何も知らないままぬるま湯に浸っているだけでは、晴斗の力になることすらないと思う。守られるだけでは、なにも変わらない。美弥は、元来耐え忍んで生きてきたけれど、心根は前向きでひたむきで、真っ直ぐだ。


 本日は灰色の着物の上に、白い羽織を纏う。この和服も、晴斗が買い与えてくれた品だ。


「お出になるんですか?」


 丁度訪れた雪野の前で、部屋を出ようとしていた美弥は微笑した。


「うん。少しね」

「お供しましょうか?」

「大丈夫。僕もそろそろ、この神屋の家に慣れたいと思っているから、だから一人で大丈夫だよ」


 微笑した美弥は、少しだけ無理をして笑っている自分を自覚していた。けれど決意は本物なので、一人部屋を出た。雪野はその間、美弥の部屋の掃除をしてくれるらしい。


 木の床を踏みながら進み、階段を降りる。軋んだ音。手すりに触れながら踊り場まで降りて一息つく。そこには薄紫色の花瓶があって、白い花が生けられていた。それを一瞥して、素直に綺麗だと感じる。


 一階へと降りると美弥に気づいた使用人達が脇に控えて頭を垂れた。それに居心地の悪さを感じつつも唇を引き結び、美弥は玄関から外へと出る。雪の気配が消えたとは言え、まだ二月の気温は寒く、手が凍えそうになる。


 手を擦り合わせながら、美弥は庭へと向かった。枯れた木々が寒々しい。遠くから鳥の声が聞こえてくる。


「ん?」


 その時、美弥は鳥の声とは異なる、キーンキーンという音が響いてくることに気がついた。どうやら裏庭からの様子だ。


「なんだろう?」


 不思議に思って首を傾げながら、美弥は邸宅の裏手へと回る。そこには、竹林が広がっていた。奥に、朱い鳥居が見える。いくつもの鳥居が連なっている。


「あれは?」


 美弥は何故なのか、そちらから目が離せなくなった。キーンキーンという音が再び響いてくる。笛のような太鼓のような。祭り囃子に似ている気がした。そして何よりも――……。


「晴斗の雰囲気がする……?」


 晴斗のそばにいる時、美弥は愛情の他に、感じる不思議な雰囲気がいつもあった。そばにいるだけで惹きつけられる感覚だ。美弥はてっきりそれもまた、注がれる愛情ゆえだと考えていたのだが、鳥居が自分を愛するとは思えない。なにせ、神の通り道とはいえ、無機物だ。


「……行かなくちゃ」


 なんとなく、そんな感覚がした。美弥は、吸い寄せられるように竹林を抜け、鳥居をくぐる。一つ、二つ、そして三つ。すると、なにかがねじれた感覚がした。空気の膜が、己の肌を通り抜けたような感覚だった。


「なに……? 今の」


 呟きつつも、そしてこの先に進んではいけないと本能が囁くのにも関わらず、美弥の足は止まらない。鳥居を四つ、五つと抜けた先へと、美弥は進んだ。


「……」


 そこには小さな社があり、そばに祠があった。

 ――足を踏み入れてはダメだ。

 ――足を踏み入れたら、また。

 ――また?

 意識に霞みがかかり始める。美弥は、眼窩に力を込めて、正面を見据える。すると、社の戸が勝手に開いた。


「僕はここを、知っている気がする」


 そうだ、前にも来たことがある。だけど、いつ? 神屋の家に来たのは最近で、裏庭になどまわったことは無かった。それでも歩みは止まらず、段を上って、美弥は社の中が見える位置に立った。するとそこには、黄金で出来た十二支の像が左右にあり、中央には黒地に金箔が施された細い布が敷かれていた。視線でそれらを追いかけて最奥を見た時、美弥は目を見開く。そこに、一人の青年が立っていたからである。


「晴斗……?」


 呟いた美弥の前で、横顔しか見えなかった青年が振り返る。その瞳は夜のように深い黒で、気怠げだった。だが、美弥を見ると瞠目し、そして薄い唇の片端を持ち上げた。


 違う、これは晴斗じゃない。

 本能的に悟った美弥は、後ずさろうとしたが、まるで足が地面に接着してしまったかのように動かない。荘厳な気配が、辺りを包んでおり、美弥は完全に気圧されていた。


 晴斗の髪の色は、陽のように朝を彷彿とさせる金色であるし、瞳の色は昼の爽快な空のように青い。だが、目の前にあるのは、夜の帳を体現したかのような存在だ。瓜二つといえど、表情もまるで異なる。


「あ、あなたは……?」

「随分と久しぶりだというのに、それこそ随分な挨拶だな。猫は相変わらず無礼だ。余の宴をすっぽかすほど――自分勝手で、そこが愛らしいのだが」


 久しぶり、というその語に、美弥のこめかみがツキンと痛んだ。

 ――そうだ、知っている。自分は、彼を見たことがある。邂逅したことがある。けれど、何処で?


「余は、神の影と呼ばれるか――あるいは、そうだな、人の子のように授けられた名は、夜宵という。ああ、名乗るのは、もう三度目だというのに。猫は本当に頭が悪い」

「神の……影……?」

「神とて完璧ではない。歪んだ心がある。しかしそれを認めぬ神家の主は、余をこうして生み出して閉じ込めておくんだ。全く、愚かしいこと極まりない」


 嘆くようにそう述べた夜宵は、片手をひょいと振った。


「神の寵愛を受けた者は――……そう、たとえば美弥、お前は伴侶の押し殺している歪みにも勿論触れ、気づくことが出来る者。余は、今は晴斗であり、そして晴斗の負の感情を背負う者だ。美弥、余を癒やせるか?」

「癒やす?」

「それが叶った時、真の意味でお前は晴斗の伴侶に相応しい者となるのだろうな。もう帰れ。神の表側――晴斗はああ見えて非常に嫉妬深い」


 はぁっと溜息をついた夜宵の声を耳にした途端、美弥の体は動くようになった。ハッとして、美弥は踵を返して社から出る。そして狐を祀っているらしき祠の前を走り、鳥居をいくつも駆け抜けた。竹林に到達した時、美弥はぐっと誰かに腕を掴まれた。


「美弥!」


 美弥の腕を引いたのは晴斗だった。

 抱き寄せられ、その腕の中に収まった美弥は、またツキンとこめかみが痛むのを感じた。ああ、遠くから笛や太鼓のキーンという音がする。そう認識した直後、美弥は意識を手放した。





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