その世界には、人族、エルフ族、ドワーフ族、そして竜族という、四つの種族が共存して生活を営んでいた。
その中でも人族は、最も人口が多く、全体の六割を占める。四種族の中で唯一、体内に魔力を保有せず、そのため魔法を一切使うことができない。その代わりに、人族は持ち前の思考力を発揮して科学技術を発展させ、現在においてどの種族よりも人口を増やし、繫栄している。全体的に温和な者が多い平和主義な種族だと言われており、人族の上層部は、他種族とも友好的な関係を築こうとしている。
次に人口が多いのは、ドワーフ族だ。彼らは人族と違って体内に魔力を保有してはいるものの、それ程複雑な魔法は使えない。その代わりに彼らは、錬金術という魔法とも科学技術とも異なる独自の技術を確立し、地中での栄華を極めている。彼らが地上ではなく地中に住んでいる最も大きな理由は、彼らは長時間日光を浴びると体が石化するという特性を持っているからだ。人族とは友好的な関係を築いており、共に新しい技術を開発したり、お互いの技術についての情報交換をしたりしている。真面目な者が多い種族と言われているため、人族と波長が合いやすいのだろう。
エルフ族はその二種族に比べると人口が少ないものの、人族とドワーフ族よりも遥かに長寿であり、その豊富な魔力保有量のおかげで、魔法を自在に操ることができる。魔法を発見したのは竜族だが、それを学問という形まで昇華したのは彼らエルフ族であり、彼らの生活は科学技術や錬金術などに頼らず、全て魔法によって成り立っている。彼らは人族やドワーフ族のように発展した都市を持たず、森の中で棲み処を作り、自然のまま暮らすことを好んでいる。若いエルフ族は勉学のために人族の学校に多く通っているものの、人族の上層部とエルフ族の長老達の関係はあまり良好ではない。エルフ族の長老たちが人族の学校に若いエルフ族を通わせるのは、単純にエルフ族の自治区域に学校というものが存在しないからだ。彼らの多くは自由奔放で複雑な話を嫌い、魔法で悪戯を仕掛けることが好きという、無邪気な子供のような性格をしている。
最後に竜族だが、彼らは最古の種族だと言われている。エルフ族よりもその寿命は長く、古より存在する、あまりにも強大な種族。巨大な体を硬い鱗が覆い、背にある一対の翼で自由に大空を飛ぶことができる、唯一の種族である。争いを好む者が多いため、彼らは厳しい掟を自ら定めており、掟を破った者は翼を奪われた上で追放されるか、処刑されるかという、これまた厳しい罰を受けることになる。竜族は他種族を〝羽無し〟と呼んで蔑んでおり、人族を含めた全ての種族からの、友好関係を築くための会談を悉く断っているという。彼らと他種族が関係を構築することは、今のところ絶望的とみていいだろう。
四種族は、過去に戦争していたこともある影響か、現在は他種族を傷付けてはいけないという協定の元、緩やかながらも共存の道を歩んでいる。とはいえ、それが絶対に守られるという保証は何処にもない。そのため、最も短命で脆弱な人族が、他種族との関係構築に勤しむのは当然なのかもしれない。
協定の元で暮らす四種族は、一見平和に共存しているようだった。それが、薄氷のように脆く薄いものだとは、誰一人として予想していなかったことだろう。
それは、良く晴れた日のことだった。
青々と突き抜けるような快晴。雲一つない蒼穹に突如、ソレは現れた。
それは、純白の球体のような姿をしているように見えた。しかし、表面が一切太陽光を反射していないそれは、異質な存在感を纏って上空に佇んでいた。
その白い球体が現れたのは、人族の自治区域の上空僅か五十メートル程の場所だった。それ程近くに出現したにも関わらず、通勤通学に急ぐ人族達の中で、その白い球体に気付いたのは数人にも満たなかった。
異変が起きたのは、その白い球体が上空に現れてすぐのことだった。
通勤途中のスーツ姿の男が、不意に発狂したように暴れ始めたのだ。通行人達は皆驚いた顔をしたものの、男を助ける訳でもなく、彼を避けるように通り過ぎていくだけで、まだ誰も事の重大さを理解していなかった。
両腕をぶんぶんと振り回していた男の腕が、不意に空気に溶けるように消失する。何かに切断された訳でもなく、腕の付け根から綺麗さっぱり腕が消滅したのだ。断面から噴き出した血も、しばらくの間不自然に宙へと消えていくようだった。
突如人の腕が消失するという異常事態に、流石に通行人から複数の悲鳴が上がる。奇声を上げて地面に横倒しになった男は、激痛のあまりのたうち回り始める。と、今度はばたばたと暴れていた足も突如消失し、のたうち回ることすらできなくなった男は、地面に横倒しになったまま、さめざめと泣き始めた。
鮮血がアスファルトで舗装された道を止めどなく濡らしていく。道行く人は、パニックに陥ったり、慌てて端末で病院に連絡したりと、流石に男を無視する者は少なくなっていた。
人々が慌てふためいている間に、上空から白い球体がいつの間にか姿を消していることに気付いた者は、誰一人としていなかった。
白い球体が上空に留まっていたのは、時間にして五分にも満たな短いものだった。たったそれだけの時間で、直接的な死者を一名、その後、異形と化し理性を失った人族による二次的な被害の結果、死傷者五十四名。
この事件によって、この消失現象と異形化現象を含めたものが、のちに〝侵食〟と呼ばれるようになることを、この時はまだ、誰一人として知る由もなかった。