久しぶりの全力疾走にしかし、息が上がる様子は全くなかった。入院生活、それも一週間の昏睡状態によって失われたと思っていた体力は、散歩を日課にしたことで元に戻ったのだろうか。妙に軽い体は、このままずっと走り続けられるような錯覚を俺に与えた。
実を言うと俺は、運動部に入っていないとはいえ、元来運動が好きな方だ。走って風を切っていく感覚が心地良い。眼前の景色だけに意識を向けると、無駄な思考は不思議と脳内から追い出されていく。俺自身の呼吸音と、規則正しい足音だけが聞こえる世界は、俺に奇妙な安息を齎した。
このまま、何処までも行けるような気がした。不思議なものだ、こうして走っている間は、俺を縛るものは何もないような、そんな感覚が心地良かった。
太陽に照らされた家屋が美しく輝いている。
光を反射した街路樹の葉が風に揺られてざわざわと小気味良い音を立てている。
知っている道から知らない道へと切り替わって、遠くの世界に来てしまったかのように錯覚する。
前方に海が見えてきて、俺はふと立ち止まった。光を反射して、水面がきらきらと輝いている。寄せては返す波に呼ばれているかのように、足が自然とそちらへ向かう。歩く度に靴の中に細かい砂が入ってくるのも、今は気にならない。俺は波打ち際まで来ると、濡れない程度に海から距離を取ってその場に座り込んだ。
追い出されていた思考が、脳に染み入るように返ってくる。
白い球体、〝侵食〟のこと。
異形化のこと。
啓の話、他種族も異形化すること。
俺の体質とやらのこと。
そして――クレアのこと。
考えれば考える程、何も分からなくなってきて。俺一人ではどうにもできないことばかり、立て続けに起こり過ぎて。自分の無力さを静かに噛み締めているところに言われた、世界を救えるという、甘い誘惑にも似た言葉。それは毒のように俺を蝕んで、脳内から離れようとしない。
俺は別に、世界を救いたい訳ではなかった。世界なんて、俺には途方もなさ過ぎて手に負えない。ただ自分の手の届く範囲、それだけ守れれば充分だった。
確かに世界を救えるのなら、救えば自分の手の届く範囲も必然的に守れるのだろう。けれどそのためには、俺は彼女、クレアを殺さなければいけない。それは、間違っているような気がしてならないのだ。何故なら彼女は、攻撃しようとして〝侵食〟を行っている訳ではないのだから。
いっそ、あの夢をくだらない妄想だと言い切れたのなら。
俺は迷うことなく啓の部隊に所属することを選んだのだろうか。
そんな、考えたところで意味のない仮定ばかりが脳を埋め尽くす。
世界を救えると言われて、あんなに熱烈に勧誘されたというのに、俺は啓のことを全く信用できなかった。その理由は単純で、一介の高校生に世界の命運を託す大人が真っ当だとは思えない。そんなものは、虚構の中だけの話だ。
それに俺が今すぐに〝侵食〟を殺さなくても、人族はいずれ〝侵食〟に対する手立てを開発するかもしれない。だがそれは、何年、何十年後のことだろう。その間に、自分の手の届く範囲にある日常が致命的に崩れないという保証もない。むしろ〝侵食〟の出現頻度を考えると、人族は既に絶滅の危機に瀕しているのだろうか。考えたくもないのに回る思考が恨めしくて、俺はぎゅっと膝を抱えて蹲った。
啓からすると、俺はやっと見つけた希望だと映ったのだろうか。世界を救うための鍵に成り得ると。俺自身はというと、そんな大仰なものになった覚えも何もなく、ただ彼女と、クレアと話したいと願っているだけである。クレアと話して、彼女が彼女自身の認識や行動を改めたのなら。人々が彼女のことを正しく知ったのなら。そうすれば、全てが上手くいくような気がしてならないのだ。
しかし、それを為そうにも、俺には現状彼女と接触する術がない。〝侵食〟の出現場所を特定し、先回りできる術を、俺は持ち合わせていない。加えて、人族秩序維持部隊の存在を知った今、俺は彼らのことも先回りする必要があるかもしれない。
問題ばかりが積み重なって、それを打開できる策もない状況にだんだんと嫌気が差してくる。だが、クレアと話すことは俺にしかできないのだ。人々は、彼女の存在自体、そもそも何も知らないのだから。
俺はもう一度思考を追い出すために走ろうかと考え、立ち上がった。随分長く座っていたのかもしれない、傾きかけた日が海に映って、まるで鏡写しの世界が広がっているかのように見える。砂浜に深く嵌って足を取られないように慎重に歩き出したその時、何かの声が耳に届いたような気がした。
背後に誰もいないと分かっていても、気になって俺は振り返った。
背後には波が寄せて返しているだけで、やはり人っ子一人いない。気のせいだったかと首を傾げながら歩き出すと、今度は先程よりもはっきりと何かの声が聞こえた。
『――……て……!』
それは、声を聞く限り悲痛な叫びのようだった。何か切羽詰まった状況に置かれているような、恐怖と絶望が入り混じった悲鳴だった。
ぎょっとして、反射的に耳を押さえる。俺は遂におかしくなってしまったのだろうか。それとも俺が気付いていないだけで、海辺にいる誰かが俺に助けを求めているのだろうか。
ノイズ混じりのようなその声は、少しずつ鮮明さを増していく。解像度が上がるにつれ、その声量も上がっていくようだ。
それは、痛みによる悲鳴だった。
それは、恐怖による悲鳴だった。
それは、理不尽に対する怨嗟だった。
声は止むことなく、耳の奥まで劈くように響き続けている。俺は、ぞっと背筋に悪寒が走るのを感じた。望んでもいないのに、脳内に直接情報を流し込まれている感覚に怖気が止まらない。何だ、これは。
瞼の裏に、映像が流れ出す。
知らない風景。
知る由もない風景。
知らない生物と思しき何か。
恐怖、憎悪、怨嗟。
赤黒い血に彩られた光景。
俺は思わずその場に崩れ落ちた。膝に当たる砂の感触すら、今は妙に遠い。波の音も、次第にこの奇怪な音に呑まれて聞こえなくなっていく。今この場所が夢なのか現実なのか、それすらも分からなかった。ただの妄想、幻聴や幻覚の類だと言い切るには、その光景はあまりにリアルで。五感すら感じる程の鮮明さに、俺は思わず嘔吐した。
流れて止まらないその光景に圧倒される。脳内で処理するにはあまりに多過ぎる、情報の氾濫。その氾濫の奥で俺は確かに、満たされない、という彼女の呟きを聞いたような気がした。
***
酷く、頭が痛い。脳に直接鋭利な物を刺されているかのような、そんな痛み方だ。
しばらくの間、俺は自分が瞼を持ち上げていることすら分からなかった。白い光に照らされた視界の中で照明の形を認識し、ようやく俺はずっと目を開けていたことによる目の渇きを実感した。
のろのろと瞬きをして、治まらない頭痛に顔を顰める。ようやく感覚が現実に追い付いてきたのか、体に伝わる感触から、どうやら俺はベッドに横になっているらしいと認識する。眼前の白い天井は何度見ても見覚えはなかったが、ここは何処だろうという問いが浮かぶ前に、聞き覚えのある男の声が鼓膜を震わせた。
「お目覚めかな、朔月夜絃君。気分はどうだい?」
柔らかな物腰で、俺の顔を覗き込みながら彼がそう尋ねる。俺は、この目の前の男が誰なのか咄嗟に思い出せなかった。
俺は数秒程、じっと男の顔を見つめていた。彼がそれをどう解釈したのか分からないが、すっと目を細めて、またあの値踏みするような目で俺を見ている。俺は居心地が悪くて、半覚醒の頭で目を逸らした。
「ああ、ここは我々の部隊が所有するセーフハウスの一つだよ。怖がらなくても、先程言った通り君に危害を加えるつもりはないからね」
ようやくそこで俺は、このスーツ姿の男が人族秩序維持部隊の小鳥遊啓だということを思い出す。俺は訳が分からず、そう言って微笑んだ彼の顔をぼうっと見つめていた。